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風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

宗論とまではいかないけどさ。。。。。

2008-04-28 21:01:50 | キリスト教(行事、他)
あ~、今日はまいった。。。。。。。

朝から嫌な予感がしていたんだけど。。。

今日は父の8年目の命日。

母は父が死んでから月命日までいつもお参りに行く。母は足が悪いので足になるべく去年やっと免許をとったのだが。。。

今日も母と一緒にお墓参りに行くつもりだった。そこへ叔母も一緒に行きたいといって叔母も一緒にいくことに。

私はいつもの通り掃除お墓を磨く。そして拝む行為はしない。
拝む行為は礼拝に当たる。キリストを救い主としている私にはキリスト以外拝めない。それをわかっていると思っていたんだけどな。

帰る途中、敷地内に在る本田美奈子ちゃんのお墓を見て「まぁ・・・38歳でね~・・・。」と嘆きながら拝む叔母と母。私は見るだけ。

そのあと、おばの家で一休みすることになった。母のもって言った手作りの料理を大喜びしながら食べていた叔母が急に、「こんな時になんなんだけどね。もしもお母さんがなくなったらパスピエちゃんどうするつもりなの?ほらパスピエちゃんはキリスト教でしょ?」と聞いてきた。

おいおい・・・・母、本人がいる前で・・・・何をいいだすんだか。

要するに仏教形式の葬式を出す場合、喪主が出来るか心配しているのである。私は一人っ子だから。

ダンナの場合は真ん中の弟が喪主を代わりにしてくれたのだ。

「いえね。あたしも、お母さんもいつどうなるかわかんないのよ。だからもし、お母さんが死んだ場合キリスト教で喪主が出来ないのならあたしが変わってもいいと思ってね。」

前もこんな話を母にしていたという。私は絶対に断ってくれといっておいたのだが母は言いそびれてしまっていたようだ。

すかさずいいましたよ。

「私は母が望むやり方を尊重しているので、もし仏教形式がいいのならそうするしかないと思っています。そのときは自分が喪主をやりますよ。」

「そう?それならいいんだけど。だけど何で拝めないの?」

「私達は信仰する対象がはっきりしているだけなんです。だから自分の神様以外は拝めないんです。」

「ふ~ん、そんなもんかね~。でもね。パスピエちゃん、いくらキリスト様がえらくたってお父さん、お母さん、ご先祖様があってあなたがいるのよ。ご先祖様は大切にしなきゃだめよ。」

「あの、いや、叔母さん、私達の教えでも「あなたの父と母を敬え」って言う言葉がありますしね。決してご先祖様をおろそかにするようなことはしないんですよ。日本人は割と何でも宗教を受け入れてしまうじゃないですか?日本の場合が特殊なんですよ。」

「だめね!そういうの(キリスト教のほう)は改革するべきだね!」

「・・・・・・・・・・・・・」(改革って・・・・それじゃ何を信仰しているかわからないじゃない!)

私がその後ちょっと無口になったのでこの話はこの後しなくなった。

やっぱり、ご利益宗教しか信じないんだな。
この後も占い師の細O数子があ~だこ~だいってたり、死んだ父がこういうふうにきっとに言っているのよとか。頭おかしくなりそうで、もう早く帰りたくて仕方なかったよ。

父の葬儀は父が一番やるなといった父の嫌なやり方でされたのに。絶対につけるなといった戒名までつけられて故人の意思なんてあったもんじゃなかったのに。。。
こうやって、今、良いように、きっと父はこう思ってるとか、こうだよとかたづけられているんだから。。。

でも、私がアメリカにいるとき、きっと母は1人で寂しい思いしていたんだろうな。とかそんなときに叔母にはお世話になったから何にもいえないよ。


信仰の事、こればっかりは神様の力でなければ信じることはできない。

キリスト教の信仰の場合は他の宗教と違って良い教えだからといって納得して入信するものではなく神様が信じる心を与えてくれるものなのである。

誤解されたくないなと思いながらも議論はさけたいのでこれだけしかいえなかった。
ああ、なんだか口惜しい。


初穂(家族で一番最初にクリスチャンになった人)はつらいなぁ~。。。。


ハレルヤ!イースター!

2008-03-24 16:25:23 | キリスト教(行事、他)
ハレルヤ!

復活された主イエス様!

フルートでの賛美は落ち着いて吹く事が出来ました。実を言うとね・・・咳が止まらん状態。しかも前日には音をはずすことも・・・。

こんな状態でどうなるかと思いましたが、自分でも驚くくらい落ち着いて賛美できました。主の守りが感じられました。感謝です。

喜びのイースター礼拝で牧師先生も言っていたけど、クリスマスはみんなが知っていてもイースターは知らない人が多いんですよね。だから教会が発信していかなければということを行っておられました。ほんとイースターの意味を知ってもらいたいな。

礼拝では「死はもはやキリストを支配しない」という題でメッセージがありました。

今日の聖書箇所。

「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬ事はなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私達はしっています。なぜなら、キリストが死なれたのはただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなた方も、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きたものだと、思いなさい。」ローマ人への手紙6章9~14節

イエス様は十字架にかかる事によって神様の罪の赦しをもたらしました。そして死んでもう一度墓からよみがられたました。そのことによりイエス様を信じる全ての人は罪の赦しと永遠の命という神様からの贈り物をいただけるのです。

ハレルヤ!

もうすぐイースター!

2008-03-21 00:37:45 | キリスト教(行事、他)
教会暦でいうと今は受難週とか受難節とかいわれる。

ユダの裏切りで捕らえられたイエス様が何の罪もないのに裁かれ、鞭打たれ、ののしられ、むごたらしい、あらゆる苦しみを受けられた。それは全部私達の罪のため。

映画「Passion」を見たとき涙が出て止まらなかった。

どんなに不利な証言をされても何も反論しないイエス様。当時のむち打ちがあれほどむごいものだとは思っても見なかった。十字架にかけろとののしる群集。その中にかつて自分の思い通りにいかないと神様を否定していた自分自身を見たような感じがした。

あの映画を見て犯罪者が自首をしたというのもうなづける。
血だらけのイエス様が静かな目をして群集を見ている。自分を否定するものを。


今日はGood Friday。イエス様が十字架にかかられた日だ。死にて葬られたけど3日目によみがえられた。それをお祝いするのがイースターだ。


10日前、牧師先生からイースター礼拝でフルートでの賛美をお願いされた。

曲は5分以内でイースターにちなんだものということだった。
モーツァルトのアヴェ・ベルム・コルプスにしようかと思ったけど、伴奏者がいないのでソロでもできるバッハにした。

カンタータ156番「片足は墓穴にありて我は立つ」から
「アリオーソ」という曲。意味は「ああ感謝します。」なのだそうだ。

この曲は元々イースターのための曲ではないのだけど、よみがえりの主を信じる事によって私達は神様の前に義なるものとされ永遠の命につながられるのだから感謝をこめてこの曲を捧げたい。

もうすぐイースター。練習、練習・・・。




東からも西からも

2008-03-09 23:57:55 | キリスト教(行事、他)
今日は思いがけない遠い国からのお客様が礼拝にこられた。

ロンドンから黒人の美しい双子の姉妹がこられたのだ。
日本語は通じない。英語のみ。
牧師先生がロンドンにいた頃の友達のお嬢様方だということだった。
今は観光旅行中で日本語はわからないけど雰囲気だけでも日本の教会を体験してみたらということでつれてこられたのだ。
牧師先生がケアしてくれるんだろうと思っていたら。。。

役員のO姉妹から「パスピエさん、通訳お願い。」

え、えええええっ~!!!!
チョ、ちょっと、待って~、私のはサバイバルイングリッシュで~ブランクが6年もあるのよ~というわたしのさけびもむなしくヘルプするはめになってしまった。

牧師先生は、「今どこをやっているということぐらいでいいから教えてあげてくれる?」という。

自己紹介を済ませて私より英語がしゃべれる長男にもちかくにすわってもらった。
最初の頃は何とか説明できていたのだが。。。。
ボキャブラリーがない!
つづかな~い!

ネヘミヤ書って英語でなんていうんだっけ?
賛美歌はPraise timeでいいの?使徒信条は?

頭パニック状態でした。礼拝どころじゃない。

長男が何気にOOのchapter 7とか教えていたけど。わかったかなぁ。


礼拝後の交わりはみんなが自然に会話に入っていいものだった。礼拝中はわかるところだけ説明していた長男は、このときぞとばかり話し出した。(奴は自分の興味の在る話題になると自然と英語が出てくる。)話のほとんどがロンドンの気候だとか日本の気候とか自然とかそんな話だったが、変な沈黙ができないでよかった~。


違う国の方が来られるのは嬉しいな。今日はロンドンからだけど、今までに韓国の人や、スリランカ、マレーシアの方が来られた。特にイスラム圏の方が信仰をもたれる事は本当に嬉しい。でもその国によっては信仰を守る事は命がけになることもあるのだ。祈りを持って支えていかねばと思う。


「あなた方に言いますが、たくさんの人が東からも西からもきて、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。」(マタイの福音書8章11節)

この箇所を表した私の大好きなゴスペルがある。
歌詞がとても素敵なの。はじめてこの曲を歌った時とても感動したなぁ。
何番だかわからないけどこんな感じの歌詞。

東からも西からもつどえ神の国に

富めるものも貧しいものも座れ神の庭に

その皮膚の色にこだわることなく

東からも西からも集え神の国に


(akiさん間違ってたら教えてね。)



みんな兄弟姉妹なんだよね!




クリスマスを前に

2007-12-23 01:04:01 | キリスト教(行事、他)
クリスマス礼拝を前になんでこんなに心が乱れるんだろう。

明日はクリスマス礼拝、嬉しい事に明日は母が来てくれるという。年甲斐もなく駄々をこねた甲斐があったかな?(ドタキャンしなきゃいいけどな・・・・。)

それなのに心が晴れやかでない。薬もちゃんと飲んでいるのに。
時々息苦しくなる。

礼拝後の愛餐会でフルートの演奏を頼まれていて、そういう場が与えられている事に感謝しているのに。やっと楽器が吹けるようになったのに。

何で?

今はただもがいてあがいて平安があるようにひたすら祈る。
心から楽器を用いて賛美を捧げられるようひたすら祈る。

主よ、たすけてください。

子ども祝福式の日

2007-11-13 00:24:20 | キリスト教(行事、他)
昨日の礼拝は特別に子ども祝福式があった。

新約聖書の中にこんな話がある。

さて、イエスにさわっていただこうとして人々がその子ども達を身元に連れてきた。ところが、弟子達がそれを見てしかった。
イエスはそれをご覧になり、憤って彼らに言われた。「子ども達を私のところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなた方に告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」そしてイエスは子ども達を抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

礼拝でのメッセージは今の世の中で子どもが命を落としたり犠牲になったりしていることを憂い、イエス様が子ども1人1人を祝福してくださった事に習い、子ども達を尊び大切にしその存在に感謝することであった。そして親もまた完璧な者ではなく時に過ちをおかしてしまう愚かなものであり、主の助けが必要である事を語っていた。

そのメッセージが本当に心にしみて胸が熱くなった。おばあちゃんから若い信徒までが涙を流して聞いていた。私も子ども達につらく当たってしまった事を思い出した。子どもは不思議なもので赦すということを大人よりも知っている気がする。素直な子ども達が与えられたことを感謝した。

祝福式では中学生までの子ども達とその親が前に出て行き、牧師先生が子ども達一人1人の頭に手を置いて子ども達を感謝し、祝福の祈りをしてくださった。幼稚園、小学生の子ども達は牧師先生が手を置いて1人ずつ「神様、OOちゃんをありがとうございます。)といってくれるのが嬉しいらしくみんなニコニコしていた。

その中で次男1人だけが中学生、ちょっと微妙な顔つき。
最後にお菓子のプレゼントをいただいた。
次男「俺、恥ずかしかった・・・。」
思春期だなぁ。。。。

長男はこの日熱で礼拝を休んでいた。教会の人が気遣って長男の分のお菓子を持たせてくださった。後で今日の祝福式があったことを長男に言ったら「いいなぁ、僕も祝福してほしかった。」と非常に残念がっていた。高校生の長男が次男よりも素直なのがおかしくて笑ってしまった。

長男はこの頃また不安定になっている。
「教会では中学生までだったけれど当然あなただって愛されているし、祝福されているんだよ。」

そういったけど、ちょっと涙ぐんでいる。
みんなが寝静まってから長男と私だけでいろいろ話した。

赤ちゃんの時、抱いていた私が転んで長男は頭を打ってしまったのに、外耳を切っただけで後はどこも大丈夫だった事。

アメリカに行く前から助けがあった事、アメリカに行ってからも大変な時、不思議に道が開けて言ったこと、帰国の時も看護婦のマリアが「きっといつか彼のよいところを神様が用いてくださる時がくる」と告げてくれたこと。

日本に帰ってからも辛い時、本当にいいタイミングで別の学校が見つかった事。進路に関してもよい出会いが会ったことなどなど。

神様が長男にどんな恵みをくれたのかを順を追って話をすることが出来た。
彼は全てわかっているのだけどそれでも不安でつらくなるときがあるという。
だから、2人で祈った。この苦しみを取り除いてください、でも主の御心がなりますようにと。

長男も私のために平安が在るようにと祈ってくれた。

「ああ、お母さんには本当に癒されるな。」という長男。

とんでもない。本当はつらいつらいといっている彼を見るのがつらい。自分がつらいから何とかしてくださいというのが本音なのだ。

祈ろう。。。。主よ、愚かな母をお許しください。そして子ども達をありがとうございます。。。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。







主の祈り

2007-08-01 15:04:09 | キリスト教(行事、他)
天にまします我らの父よ。

ねがわくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。


我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。

国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。

アーメン。



いろんな思いをこめて。
御名によって祈ります。

アーメン。

善き隣り人になってともに生きよう

2007-07-29 16:08:54 | キリスト教(行事、他)
この頃、隣り人について考えさせられている。
記事のタイトルは今日の宣教のタイトルだ。とても祝福された礼拝だったのでそのお話をシェアしたい。

今日の礼拝は特別礼拝で日本国際飢餓対策機構特命大使の方のお話を聞くことができた。今日の聖書箇所は以前にだれが善き隣人なのかという記事の中で紹介した「善いサマリア人」の箇所だった。

主なお話はエチオピアでの食糧支援だった。子ども達が集まってしゃがみこみ何かをしている。遊んでいると思ったら小さな小石を飢えを満たすために食べていたそうだ。食料が不足している発展途上国では1分に17人が飢餓で死んでいる。

そしてとりわけ心を打ったのはゴンダールでの支援の時の話だった。この大使の体験したこの話をもとに「ゴンダールのやさしい光」という絵本ができた。

文は みなみ ななみ、絵は 葉 祥明。

この絵本は全国学校図書館協議会選定都書になっていて、絵本の収益の一部は国際NGO・日本国際飢餓対策機構の活動を通じて世界の飢餓に苦しむ人々のために使われる。もし興味がある方は読んでみてほしい。

大使がゴンダールで食料を配給している時のことぼろぼろの服を着た女の子やってきた。話をきけば4千m級の山を超えて3日間のまず食わずでやってきたのだという。父親は餓死し、母親は栄養失調のため失明した。ゴンダールというところに行けば食べ物をもらえるときいてやってきたのだった。何とかしてあげたいと1人1袋ずつといわれている粉ミルクととうもろこしの粉をあげようとした時、兵士がやってきてライフルの先でその子ども達を突き飛ばしたという。「これはゴンダールの人々の物だ!」といって。子どもは怖がって逃げていってしまった。

兵士がいなくなってからその子たちを探したが見つからない。夜の寒さの中でどうしているんだろうと安じながら次の朝を待って探したら、在る人の家で一晩とまらせてもらったということがわかった。さっそく会いに出かけた。その家のぼろぼろの服をきたおじさんが、笑顔で答えた。みんなと夕食を食べてぐっすり眠っていたよと。そしておじさんに食料をわけてもらって今朝早く村へ帰って言ったということだった。

それを聞いて大使はショックを覚えた。
1人一袋ずづの少ない食料、それがなくなればこの家のものは餓死してしまうかもしれないのに。「あれしかない食料をわけてあげたんですか?」とびっくりして問う大使にそのおじさんはこういった。「あんた達がきて、食料をくれたとき、本当にうれしかったんだよ。だからあの子達にも同じようにしただけだよ。」と屈託なく笑っていうのだった。「だってこうあるじゃないか?自分にしてもらいたいことをしなさいって。」

彼の中には主イエスの言葉があったのだ。そしてその御言葉を実践していた。

大使は自分が飢え死にするかもしれない時にゴンドールのこの男は当たり前のように言うが果たして自分が同じ立場に置かれたら彼のようなことができるだろうかとショックを覚えたのだった。そして大使はこういわれた。

「みんながみんなゴンドールのおじさんのように自分が嬉しかったから人にもしたんだという心がもてたなら飢餓はなくなる。これが個人ではなく国と国だったたら平和になるよね。」

この話を聞いていた私達もみんなショックだった。みんな泣いていた。あちこちからすすり泣きが聞こえた。感謝の祈りをした男の人も自己中心名私達の生活を悔い隣人となれるよう泣きながら祈っていた。自分達もゴンドールの男の人のような事ができるだろうか。本当の隣人愛とということをもう一度考えさせられた。

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

それで、何事でも、自分にしてもらいたい事は、他の人にもそのようにしなさい。(マタイ7:12)

頭ではわかっているようでも実際には食事の時の祈りに彼らのために祈っているだろうか。主の祈りには「我らの日ごとの糧を今日もおあたえください。」というのがはいっている。

何年も前になるが長男の学校のチャプレンが食前の祈りの時、感謝とともにこういった。「食べられない人の事も覚えて・・・」その時「あ、」と思った。そうだ、「我らの」中に彼らのことも入っているんだと。

そのあと大使は小さな募金箱を紹介した。落穂募金と読んでいるのだそうだ。ミレーの有名な落穂ひろいは聖書の話が題材になっている。畑のある人は落ちている麦の穂を拾ってはならない。貧しい人のためにとっておくようにという話がレビ記に書かれている。そしてだれでも1円や5円がなければ生きていけないような人々はおそらくこの日本にはいないでしょう。だから1円はこの募金箱に寄付してください。5円あれば子ども達はいきていけるのです。といって。

本当の隣人になるためにできることからはじめよう。
そして困っている人たちのことを絶えず祈ろう。神様は御心にかなった祈りならば聞いてくださるのだから。


主よ・・・・

2007-07-26 23:24:12 | キリスト教(行事、他)
とうとう犠牲者がでてしまった・・・・。

解放されたとかニュースはあったけどのこる22人は未だ囚われの身である事もわかった。

10発の銃弾を身に受けて牧師が殺されたという。ニュースを見ていたら悲しいのと卑怯なテロリスト達に怒りをおぼえた。

キリストは十字架にかけられた時、自分をいやしめ、殺そうとしているもののためにこう祈った。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分ではわからないのです。」

タリバンは何が罪なのかそれさえもわからくなっているのだろう。
でも私にはとても彼らを赦してくださいなんていのれない。

もう、気分がぐちゃぐちゃ。

主よ、決して悪を赦さないでください。
もうこれ以上、犠牲者がでませんように。
殺された牧師、その家族や信者達の上に主の慰めと平安がありますように。
その死が無駄にならずあなたの栄光を表すことができますように。

祈って、泣いていたらアルバがひざに乗ってきた。
アルバもアーメンっていってくれるの?


善き隣人とは誰なのか?

2007-07-24 23:33:35 | キリスト教(行事、他)
タリバンに拉致された韓国人の23人の命が心配だ。
殺人はしないという約束など交渉が進展しているようだがまだ楽観はできないだろう。

日本人が3人拉致された時のように韓国メディアの一部は彼らを非難する意見があるという。

彼らはキリスト教徒だが、ボランティア活動のために入国したと報道されている。タリバン側を刺激しないために布教活動はしていない事を強調しているらしいとか、報道のされかたが当然のごとくイスラム教対キリスト教を匂わせている。

彼らの笑顔の写真を見て「こういう事態を考えなかったんでしょうか?」とかいかにも危険地域に行く事をピクニックに行くような感覚のように彼らを見てとらえて意見を述べている人がいる。はっきりとはいわないがバッシングに近い意見だった。

危険地帯と知っていて出かけているということはそれだけの覚悟があってのことだと思う。彼らのやっていたボランティア活動は悪い事なのだろうか。こういった報道を見るとその人にこう問いたくなる。

「危険な紛争地帯に行って困っている人たちに支援することは悪い事ですか?あなたにはできることですか?」と。

聖書の中でイエス・キリストがこんなたとえ話をしている。

当時、祭司長や律法学者のような権威者達はイエスを妬み、嫌っていた。そこでいろいろな質問を投げかけて陥れようとしていた。そんな背景の中でのたとえばなしである。

ルカの福音書10章25~37節

するとある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠の命を自分のものとして受ける事ができるでしょうか。」

イエスは言われた。「律法には、なんと書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

すると彼は答えて言った。「「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」また、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあります。」

イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば命を得ます。」

しかし、彼は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもはその人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

たまたま祭司が1人、その道を下ってきたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

ところがあるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうにおもい、

近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

当時サマリヤ人とユダヤ人の関係は険悪であった。互いに口を利くこともなければ助け合う事などなく、時には戦う事もあったようである。



韓国のキリスト教会からボランティアに言った人々はこの御言葉を実践したのではないだろうか。

アフガニスタンでは政府機能がまだ確立されていない。現地の人々はリーシュマニアという病気に苦しんでいる。生活すら整っていない。学校さえボランティアの手によって立てられているのが現状だ。国と国の政府間の支援もあるがそれにも限りがある。場合によっては草の根の交流や支援のほうが役立っている事だってあるのだ。

彼らは支援の必要な国に、文化も宗教も超えて支援をしているだけなのだと思う。彼らをその地へ向わせたものは隣人愛だ。他国の文化に入る時の心得は必要としても、彼らのように実践できないものが批判をすべきではないだろう。

彼らの無事を心から祈る。