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風は東楡の木通りから

クリスチャンフルート吹きパスピエの愛する音楽、猫たち、薔薇の毎日

リ・ユニオン-Reunion

2007-07-03 00:32:39 | キリスト教(行事、他)
30日の土曜日、御茶ノ水クリスチャンセンターでアメリカで私が洗礼を受けた日本人教会の帰国者の集まりがあった。

私達の日本人教会は小さな群れだったが、教会員のほとんどが駐在員家族として滞在していたから帰国にともない、流動が激しく3、4年で教会員のほとんどが入れ替わってしまう事もあった。しかし、毎年2回は洗礼式がおこなわれるなど、それぞれの人に働く神様の導きには本当に驚くばかり。牧師先生は最初この流動に心を痛められていたがこうして海外で信仰を与えられたものが帰国していくすがたに、タンポポの種が風に乗って飛んでいく姿にイメージをもたれて、日本でしっかりとクリスチャンとして根付く事を願いその働きをタンポポミニストリーとよんでいる。

こうして毎年帰国者が共に賛美し、集まりその頃の話をしたりそれぞれの神様の恵みをわかちあったりするのである。今回はスライドを通して宣教の10年をふりかえった。


私達家族がその教会に集ったのは2年と本当に短い間であったがその間に数え切れないほどの恵みを受けクリスチャンホームとなれたのは感謝である。(興味のある方はカテゴリーの証をよんでね)

スライドでは牧師家族の宣教の開始から、クリスマスやイースター、洗礼を受けられた方々の写真が写され、その時、その時、神様がときにかなって奉仕者を与えられたり、必要な物事が与えられていた事がわかる。

もちろん私達の洗礼時の写真もあった。写真を見るとそのときの気持ちや教会に行くようになったいきさつがよみがえり胸が熱くなった。

そして、ワーシップソングでの賛美。
日本の教会ではまだまだ聖歌・讃美歌が多く使われているが当時の私達はワーシップ・ソング(コンテンポラリーゴスペル)を用いての賛美だった。みんなの歌声は一つになり心も一つになり神様に賛美をささげる。そういう時、単に気持ちが高揚しているわけではなく、自分たちの歌声に酔っているわけではなく、なんともいえない気持ちになる。そこに神様の臨在を感じるのだ。

久しぶりに会ってたくさんの兄弟姉妹(クリスチャンたち)とお話しすることができた。ただ、たくさん話したい事があったのにここのところ人との交わりを避けていたので、ちょっとうまく話せなかったかな。

アメリカから帰ってきて何年もたつとあの時の事が夢のような感覚になってくるのだが、久しぶりにその頃のメンバーに会えて時が戻ったようだった。ただ私が教会学校の教師として教えていた子ども達はすっかり大きくなってびっくりしてしまった。その頃赤ちゃんだった子もいるのにもうお話ができるくらい大きくなった。

しゃべった事で少し疲れが出たが、それとは逆に心の中に何かパワーをもらったような気がする。

神様がくれた最高の時。感謝。





日曜日、教会で

2007-06-04 13:07:54 | キリスト教(行事、他)
土曜日泣きすぎたので日曜日の朝は目の周りがはれぼったくってまるでかえるの目のようだった。

「今日は教会にいきたくない・・・。」

ぼそっとそういうとダンナは「今日、ママは感謝祈祷の奉仕が入っているんだよ。受付の人が変わりにやることになるじゃないか。いくら病気だからって人に迷惑かけちゃだめだ!それだったら前もって言わなくちゃ。」

「・・・・・・」(正論だけど。。。。こんな状態になることを前もって予想なんてできないよ!)

結局つらいまま教会にいった。でも他の人と話をしたくないので礼拝の時間ぎりぎりに行った。それに昨日のこともあってダンナと一緒に行くのは嫌だった。

今日の礼拝は感謝祈祷(祈り)の奉仕の後に礼拝部の部会もある。
礼拝が終わったらすぐ帰ろうと思ったのに。どうしよう。話せるかな。

感謝の祈りはまるでできないと思っていたけれど不思議に言葉に出てきた。自分の今の気持ちとあわせて導いてくださいと祈り今日の礼拝に出られたこと日ごろの恵みに感謝した。


さあ、礼拝後、早く帰ってしまおうと思った時、ある姉妹にあった。
この方は白髪の熟年の上品なご婦人ででとてもやさしい感じを受ける。身内にやはり鬱の方がいるので私が鬱状態と知った時は心配してすぐに電話をくださった。音楽好きの私のためにバイオリニストの天満敦子さんのCDを録音してくださった。「何も考えずに音楽でも聴いてのんびりしてね。」といって。

「まあ、髪の毛切ってかわいくなったじゃない。どう?調子は?」
いつくしむように私の手といい、肩といい、背中といい、やさしくさすりながら、話しかけてくれる。もうそれだけで涙が出てしまった。あったかい彼女の手がまるで優しさを体中に伝えているみたいで。「今日は・・・あまり・・うまく話せません・・・。」これだけやっといえた。

「わかるわよ。その日によって気分が乱れるのよね。家の者も同じなの。泣いてばっかりいるの。無理しちゃだめよ。ちゃんとたべてる?」

ああ、この人はわかってくれるんだと思ったら涙があふれてきた。

「あなたにはいいご主人と子供さんたちがいるじゃないの。」
「主人は理解なんかしてくれません。」昨日のことを思い出して、もう半分、子どもみたいに泣いてしまった。
そういうと彼女は「ううん。そんな事ないのよ。1人じゃないだけいいのよ。」

確かに子ども達がいると自分を幾分かコントロールしている時がある。家族の力でひどい状態にならないですんでいるのかもしれない。

彼女に励まされて少し気が落ち着き、部会にも参加することができた。教会の帰りは長男と一緒に帰った。

後はただ静かに過ごしたかった。主人が帰ってきても話す気にならずただ疲れて寝ていた。アルバがとことこときて私のところで一緒に寄り添って寝てくれた。私の気分が沈んでいる時アルバは必ずやって来る。不思議な猫だ。

夜ご飯は主人が用意してくれた。
長男が主人に向って忠告している。
「こういう時、ママにがんばれっていっちゃだめだよ。」

やっぱり家族がいてよかった。。。

私のテーマソング

2007-05-10 15:22:59 | キリスト教(行事、他)
なんだかずっと調子の悪い。

無気力。
誰にも会いたくなく。。。
こういう状態を周りには理解されづらい。

心に平安がない。
薬飲んでしばらく眠って・・・の繰り返し。

今日は風ガ強く、ずっと風の音だけ聞いていたんだけど、急に讃美歌333番がききたくなった。

心が弱くなる時よくこの曲をきく。
歌詞が私の心の状態と同じなのだ。



讃美歌333番

1.主よ我をばとらえたまえ
  さらばわが霊は解き放たれん
  我がやいばをくだきたまえ
  さらば我が仇に打ち勝つをえん

2.我が心はさだかならず
  吹く風のごとくたえずかわる
  主よ御手もてひかせたまえ
  さらば直き道ふみゆくをえん

3.我が力は弱く乏し
  暗きにさまよい道に悩む
  あまつ風をおくりたまえ
  さらば愛の火は内にぞ燃えん

4.我が全ては主のものなり
  主は我が喜びまた幸なり
  主よみたまを満たしたまえ
  さらば永遠の安きを受けん

繰り返し聞いているうちになんだかまた眠たくなってきた。。。

愛の使徒の日に思ったこと

2007-02-15 00:40:05 | キリスト教(行事、他)
この頃、何にもする気がおこらない。

きょうは眠ってばかり。
夕方、変な夢で二度ほどうなされておきた。

夢の中で早く起きなくちゃと夢からさめてなんか苦しくなっている夢。変にリアルな二重の夢。こういう夢は疲れる。

長男が「ママ、頭おかしくなったんじゃないの?」と本気で心配していた。

起きたところで身体がだるくてしようがない。
まったく何もする気がない。めまいがする。








そういえば今日はバレンタインデーだった。
夕方買い物に行った時はバレンタインコーナーのチョコがほとんどなくなっていたっけ。

一年前のブログにも書いたが聖バレンタインは愛の使徒と呼ばれる。
町々を訪ねては悲しんでいる人々に、毎日1人ずつに聖書の愛の言葉を書き送る奉仕を生涯続けたという伝説からそうよばれるらしい。

聖書の中で言われる愛というと見返りを求めない愛だ。男と女の愛とは違う。もっと大きな愛。

最近のニュースでそんな事を思わせる事件があった。
線路の中に入った女性を助けようとして電車にはねられ先日亡くなったおまわりさん。私達が普段使っている路線なのでなんだか余計やるせない思いがした。

あのニュースが流れるたびに聖書の言葉がおもいだされる。

人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。(ヨハネの福音書15章13節)

この箇所はキリストが愛ゆえに私達の罪のために十字架にかかられたことをいっている。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れるものの愛は、全きものとなっていないのです。(ヨハネの手紙第一、4章18節)


人のために命を投げ出したあのおまわりさんの行為は尊い。
救いたい一心で恐れは感じなかったかもしれない。救われた女性、命を大切に生きてほしい。

私もキリストにすくわれた身。何もできなくてもこうして日々生かされていることを素直に感謝したいと思った。

アドヴェント

2006-12-03 23:50:57 | キリスト教(行事、他)
教会では日曜日からイエス様の降誕を待ち望むアドヴェント(待降節)にはいりました。

昨日からクリスマスまでアドヴェントクランツの5本のキャンドルに1週ごとに1本ずつ火が灯されていきます。アドヴェントクランツのキャンドルの意味については過去記事「アドヴェント・・・クリスマスの本当の意味」をみてね。

アドヴェントのこの時期になるとやっぱりワクワクしてくる。もうすぐクリスマス、私達の救い主イエス様の誕生を祝う時期だからね。イエス様の生れた日は正確にはわからないけど、救い主の誕生は私達クリスチャンにとってとっても重要な事。人としてこの世に下ってこられた事を感謝してお祝いし、心から賛美をしたいなぁと思う。

もちろん、自宅にもアドヴェントクランツとリース、ツリー、サイドボードの上に小さなクリスマスタウンを飾ったよ。ついこの間まで部屋の中は秋を感じられるようにフェイクの色とりどりの落ち葉を飾っていたのだけど、今、部屋の中は永遠の命の意味を持つ常緑樹の緑色の葉っぱがいたるところに飾ってある。





でも困った事が・・・それはやんちゃ坊主のアルバちゃん。
ツリーにオーナメントを飾りつけるそばからじゃれついて落としているんだもの。
ツリーにものぼっちゃう。アルバにとってツリーはまるでジャングルジムがわり。この頃大きくなったせいかツリーがゆさゆさ揺れてオーナメントがまた一つ落っこちる・・・・。「やめなさい!」なんていうと余計に興奮状態なって。。。もうちっちゃい子どもと同じなんだから。




はじめてのクリスマスにアルバはツリーを見てワクワクしてるんだろうか。。。

じんじんと・・・・

2006-09-07 00:49:12 | キリスト教(行事、他)
人差し指がいたいのさっ・・・。

なんでかって?


久しぶりに切り絵をやってました。はじめたらやめられなくなって・・・ず~とカッターナイフを持って・・・こつこつときってましたよ、夜中まで・・・・。切り絵をするようになったのは前にも記事にしてるから、知りたい人はこのページにある検索機能で「切り絵」で検索してみてね。

2年くらい前から教会の掲示板を飾らせていただいている。
そこに切り絵の聖画を時々飾らせていただいているのだ。でもここの所いろいろと考えるところがあって、また、からだの調子の悪い事もありまったく切り絵ができなくなっていた。まったく場面がうかんでこなかった。っというより場面が浮かんだとしてもつかめてこないといったところだろうか。

今回の場面はルカの福音書から、5章4節から11節。イエスが船に乗り、民衆から少し間をおいたところでたとえ話をし終たところ。

4.話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい」といわれた。

5.するとシモンが答えて言った。「先生。私達は夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもお言葉通りに、網を下ろしてみましょう。」

6.そしてそのとおりにすると、たくさんの魚が入り網は破れそうになった。
7.そこで別の、さらに魚を船に揚げると2艘とも沈みそうになった。

8.これを見たシモン・ぺテロはイエスのあしもとにひれふして、「主よ。私のよ  うなものから離れてください。私は、罪深いものですから」と言った。

9.それは、大漁のため、彼も一緒にいたみなのものも、ひどく驚いたからである。

10. シモンの仲間であった ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。
   イエスはシモンにこういわれた。「怖がらなくてよい。これから後、
   あなたは人間をとるようになるのです。」

11.彼らは、船を陸に着けると、何もかも捨ててイエスに従った。

と、以上のような場面を切っていたのである。いい大人の男が漁師の命である網も何もかも捨ててイエスに従っていくのだ。きっとなにもかもゆだねて生きてゆくってこういうことなんだろう。

今の私の問題をイエスにゆだねよう。そんな気持ちになった時この場面が一つの絵としてうかんできた。今なら切り絵ができる。そう思ってカッターを手にしたらどんどん絵になっていった。今すごくにすがすがしい気持ち。主イエスが「怖がらなくてよい」といっておられるのだから。切り絵を作ることも私にとっては賛美だ。そして神様の導きなくしてできないと思っている私なのだ。

「逃れの街」ミニストリー

2006-07-31 15:12:24 | キリスト教(行事、他)
日曜日の礼拝後、「王羊双羊」のコンサートに行った。この「王羊双羊」のMOTOさんとJOさんのお2人とはそれぞれ別々に知り合った。2人とも音楽を通してイエス・キリストの愛を伝えている。

MOTOさんは長男が帰国後、学校での文化的な不適応、発達障碍への無理解から、地元の中学には任せて置けないとやっと探し当てたフリースクールで出会った人だった。フリースクールのチャプレンであり、クリスチャンミュージシャンを中心としたグループONE MUSICの代表をしている人だ。彼には本当にいろんな意味でお世話になっていて、長男にとっては「たよれるいい兄貴」という感じ。

JOさんとは3月から友人に紹介されて始めたソーシャルネットワーキングサイトをとおしてでつい最近知り合った。JOさんが男っぽい、アメリカっぽい、かっこいいブルースを歌う方だとはしっていたが、JOさんとメールのやり取りをするまでMOTOさんと一緒に歌っている「王羊双羊」の1人だとはその時まで知らなかったのだった。こういう出会いを「世間は狭いね」というのだろうが、神様は時々面白い出会いをあたえてくださる。

コンサートでは彼らのアルバム(ゆらり)(試聴できるよ)に収録されている歌を中心に賛美した。賛美の間に語られた話で、JOさんご夫妻がはじめられた働きを知る事になった。

JOさんご夫妻は今、「若い人たちの性の問題や悩み」、「中絶の問題」、「神様から授かっている大切な命」と「真実の愛」を伝える働きをはじめられたのだ。このような問題で苦しみ、悲しみ、行き場をなくした人々にとって逃れの場所として、共に痛みを共有し、聖書から真実を求め、主にある喜びを持って生きるために働きたいとねがっているのである。

日本では1日に一万件という信じられない数の中絶手術が行われているそうだ。コンサートではこの働きのきっかけとなった、ホテルの風呂場で産み落とされた小さな命がそのまま放置され死んでしまうという痛ましい事件をあげていた。ぞっとした。

日本では3ヶ月未満は胎児ではないと決めているそうだが、受精後2週間半で心臓の鼓動が測定でき、5週間半で脳波が測定できるという。高校の頃友達と中絶について話した事がある。「中絶する頃の胎児は人間の形をしているんだよ!ひどいと思わない?」と憤る彼女に私はどこか自分には関係がないといった感覚で聞いていた。

それから何年もたって私も2人の命をこのおなかに宿し、産み出したことのある身となった。2,3ヶ月のまだ胎動も感じなかった頃、本当にいるのかいないのかわからないような頃からつわりに苦しみながら、今はこれくらいの赤ちゃん、1ヶ月たったらこれくらいの赤ちゃんとうきうきしながら日を追い、自分の体の中で赤ちゃんが動く感覚は命が守られ育ってきた事の証と本当にうれしかったものだ。出産の時の苦しみを忘れてしまうほどの誕生の大きな喜びを知った。

しかし、望まない妊娠をし、中絶せざる得なかった女性もいるだろう。中絶はその母体も傷つけてしまうという。その人はきっと心も体も傷ついただろう。でも胎児はもっとかわいそうだ。ただ、捨てられていくのだから。

JOさんの奥様はこうした残酷な現実にとても心を痛められ、嘆き悲しんでいた時、「痛みから逃げてはいけない。」「戦っていかなくてはいけないのだ」と小さな命のために働くことへ主からの召命があったという。そのために、また、傷ついた女性を救うために献身なさったのだった。お2人はこれからこの働きのため2年間の学びと訓練のためにアメリカへ向う。

MOTOさんをはじめとする多くの方々がこの働きに協力している。そのなかでも中でも(小さな命を守る会)は性と命を守るボランティア団体であり、子供がほしい方に橋渡しをしている。

どうかこのJOさんご夫妻の働きのため、クリスチャンの皆さんはお祈りをお願いします。もっとこの働きを知りたい、あるいは支援したい方はこちらの「逃れの街ミニストリー」のHPをごらんください。

ミッション(神様に与えられた特別な使命)とは実に人によって様々だなと思う。誰にもできない尊い働きだ。私達はそれぞれ、自分にしかできない特別な使命があると、神様に従っていくJOさんご夫妻をみてそんな風に思わされたのだった。


我らの国籍は天にあり

2006-07-28 01:04:39 | キリスト教(行事、他)
日曜日の礼拝の後、教会の墓地清掃に行った。教会の墓地といっても霊園の中の小さな敷地でいくつかの教会で管理している共同墓地のことだ。

その小さな敷地は芝生になっており、大きな四角い石に十字架の形がくりぬかれていて、「我らの国籍は天にあり」という新約聖書ピリピ人への手紙3章20節の御言葉とその裏には天に召された各教会の方の名前が刻まれている。

共同墓地というのをはじめてみた時、こういうのもいいなぁと思った。私達クリスチャンにとってお墓は故人の礼拝の対象の場ではなく、キリストがもう一度地上にこられ、復活に預かるまでの「眠りの場」である。天は私達にとって故郷なのだ。あったことのない兄弟姉妹達(クリスチャン達)と共に名を連ねるのもいいと思う。キリストにあって私達は一つなのだから。

もちろんクリスチャンがみんな共同墓地を使うというのではない。個人のお墓をもつ人もいるし、家のお墓に入る人もいるだろう。でも私は自分のお墓は要らない。一緒に掃除をしただんなも同じ事を言っていた。掃除は祈りに始まり、祈りで終わった。

日曜日は曇りだったが、暑くもなく、日焼けもせず、お墓の周りの草を刈るにはちょうどいい天候だった。芝生には花の終わったねじ花がそのまま枯れていたり、無数の小さなコオロギの子供が、どういうわけか墓石に向ってぴょんぴょんとびはねていた。どこからか鶯の声が聞こえてきて実にのどかな日だった。

バレンタインデーの由来

2006-02-09 22:25:25 | キリスト教(行事、他)
「日本にもバレンタインデーはあるの?」
「ええ、ありますよ」
「あら、なんでもコピーするのね。」

上の会話はアメリカ滞在中、日頃私たちが受けている恩恵を少しでもタウンにお返ししたいという気持ちから老人ホームでお年寄りたちとともに歌を歌ったり、日本文化を紹介したり、クラフトを作るなどのボランティアをやっていた時のものだ。アメリカ人のお婆ちゃんの一人がこんなふうに聞いてきたのである。

コピーという言葉がちょっとバカにされた感じで気にかかったが、日本ではバレンタインデーも本来の意味は知る人もあまりなく商業文化になりきってしまったのでしょうがない。

なんてえらそうに書いているが、実をいうと、私もバレンタインデーはキリスト教の人、バレンタインという人が死んだ日くらいにしか知らなかった。

そこで、『キリスト教の暦』なる本でその由来について調べてみた。

聖バレンタイン(聖ヴァレンティヌス)は紀元3世紀に実在したローマの司祭。
269年頃の2月14日にイタリアのテルニでクラウディウス皇帝によって処刑されるまで神の愛の実現のために終生努力した人。

歴史的記録はほとんどないものの彼の伝説はたくさんある。
その当時のヴァレリアヌス皇帝はローマ軍の兵士の結婚を禁じていたのにバレンタインはかまわず男女の結婚式を司式した。

修道士時代、バレンタインは1つの誓願をたて、町々を訪ねては悲しんでいる人々に、毎日1人ずつに聖書の愛の言葉を書き送る奉仕を生涯続けたという伝説がある。

バレンタインが愛の使徒と呼ばれるのはどうもここら辺の伝説かららしい。また男女の愛と神の愛の実現が混同しているところもあるみたい。

ちなみにアメリカでのバレンタインデーは男も女もお互いカードやプレゼントを送る。物というよりはカードに書く言葉をより大事にしていた気がする。子供向けにはカードが主流、アニメや人気キャラクターの小さなかわいいカードもある。そしてそのカードに、たまにチョコや赤いハートの棒つきキャンディがくっつけてあることもある。

日本でチョコレートを送るのは日本独特の風習。お菓子メーカーに踊らされているようで何か面白くないが、あげないとかわいそうかなぁとついつい買ってしまっているんだよね。我が家の男たちに。

私はプロテスタントのクリスチャンなのでバレンタインデーは教会行事ではないが、カトリックの人たちは何かお祝いするのかな?



クリスマス礼拝

2005-12-26 01:37:42 | キリスト教(行事、他)
クリスマスおめでとうございます!(写真はおうちのアドヴェントクランツ。約束、預言者、洗礼者ヨハネ、マリアの4本のキャンドルとともに真ん中のイエスキリストのキャンドルに灯がともったところ。)

25日は待ちに待ったクリスマス礼拝にいった。
信仰を与えられて5年目、今年も家族と一緒に喜びに満ちて礼拝に集うことができた。感謝である。

うれしいことに今年は新来会者が多かった。中には礼拝後の祝会まで残ってくださり、ともに持ち寄ったおいしい料理をいただきながら楽しい時をすごした方もいらっしゃった。また礼拝に来てくれたらいいな。

フルートでの讃美も昨日の発表会の時の緊張はうそみたいになくなり、今日は喜んで吹くことができた。その他にも賛美歌のデュエット、ギターとボーカルでゴスペルの讃美、ペープサートの出し物ありと楽しいひと時だった。

聖書には賛美の中におられる主とある。みんなで一緒に讃美をして、みんなの思いがひとつになる時なんともいえない感動がそこにあり、主の臨在を感じる時がある。今年の祝会は讃美いっぱいのクリスマスになった。

神様の愛と祝福がこれをごらんになった方々すべての上にありますように。