ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

三菱。

2010-03-11 23:31:33 | 高知県東部人物列伝
 岩崎弥太郎といえば、三菱ですね。世界的な企業となっています。
 日本人で三菱を知らない人はいないぐらいの企業グループです。

 しかし最近テレビで放送されている岩崎弥太郎はどうもしっくりきませんね。
いままで持っていた、弥太郎のイメージと違いすぎるのです。

 小説を元に脚本が出来ているのでしょうが、その小説をジックリと読んでみたいと思わせてくれないから困ったものです。

 司馬遼太郎氏の小説群と比べると、???がたくさん出てきて、これでいいのかなと思うほどです。
 もちろん「功名が辻」でも山内一豊の土佐入国など史実と異なる記述もありましたが、小説ですからね。少々の脚色は仕方がないのです。

 テレビを見ている方々には、岩崎弥太郎という人物について、放映している映像を「違う。」といってほしいし、エンターテイメントとして楽しんでいただきたいところです。
 龍馬を美化するために弥太郎を汚く、がさつに嫉妬深く撮っているように思えます。

 ヒーローを引き立てるための脇役ですね。仕方ないのかもしれません。
 中岡慎太郎も出てきませんが、出てこないほうがいいようにも思います。
 龍馬伝。伝ですから、そうらしいというだけの小説ですからね。

 晩年の経済戦争を勝ち抜いてゆく弥太郎からすると、もっと愛嬌のあるインテリだったような気がしますね。
 イメージとしては、田中角栄が高知県に生まれて、幕末に生きたとしたら・・。そんな感じかなあ。

 しかし、吉田東洋に見出され、大隈重信に背中を押された経済人。政商ですね。
 どちらにしても、今年は12月まで弥太郎・香川さんの弥太郎に付き合うことになりそうです。なにしろ高知県の東部。安芸市の井口の産ですからね。

 そう岩崎弥太郎って1835年生まれです。龍馬より1歳年長ですよね。
 やはり生きていないといけません。
 龍馬や慎太郎はあまりにも早く逝ってしまって残念にと思うのは私だけではありません。

もっと評価されてもいいのじゃあないかな。

2010-02-23 16:57:08 | 高知県東部人物列伝
 最近どうも「政治と金」の問題だとか、うっとうしい話が多いのです。
 それだけに素晴らしい先輩達のことをもっと紹介したいと思っているのです。

 今準備している筆頭は、清岡道之助。野根山屯集事件の首領ですね。
 実に魅力的な方で、幕末における高知県東部地域においては傑出した存在ですね。

 それから、川島総次。妻は、中岡慎太郎の姉・縫。野根山の岩佐関所の番人なのです。
 もちろん野根山屯集事件には参加して、奈半利川原で打ち首となります。

 中岡源平。彼は中岡慎太郎亡き後の中岡家を慎太郎の姉・京と結婚することで、相続することになります。庄屋職を引き継ぎ幕末から明治期まで激動の時代、中岡家を守ることになります。

 北川忠惇。北川武平次の長男です。幕末から明治の初期に、高知県の東部地域で多方面の活躍をしてくれた方ですね。

 それに、岡村十兵衛。出身は高知布師田なのですが、藩政期に羽根村の窮状を救ったことで、今は神社まで建立されているのです。

 さらに一木権兵衛。室戸の港、築港の恩人なのです。

 田野の男爵もいるねえ。それに職人さん方の話も面白そうですね。

 ブログのカテゴリーの内、東部人物列伝は当分の間、題材に困ることはなさそうです。

孝行息子です。

2010-01-28 01:00:00 | 高知県東部人物列伝
 北川信従(きたがわ・のぶより)の日がきました。このカテゴリーで以前紹介した北川武平次の次男です。万延元年(1860年)生まれです。父から厳格に育てられたのです。自らの信じるところを思うままに生きた俊英です。
 本当にこの時代、人材が豊富なのです。

 苦学をして明治12年(1879年)陸軍士官学校を受験するも、数学を全くやらずにいたことで、失敗。司法省法律学校を受験して合格。彼の人生が決まったのです。

 和歌山県始審裁判所詰から検事を各地で歴任するのです。
 彼の逸話があります。
 彼が官史になったころのことです。久方ぶりに郷里の北川に帰ったとき、土産に座布団5枚一組を求め木綿の夏衣を着ていたのです。父母は喜んで鮎やうなぎでもてなし、「我が家にも初めて立派な座布団が出来た。」と喜んだそうな。

 検事として大阪・松山・広島を歴任し、さらに台湾総督府検察官から台湾地方法院検察長と台湾で尽力した後、内地に帰り大審院から長崎地方裁判所検事正を経て、長崎市長に就任。そして栃木県知事・新潟県知事になるのです。さらに退任後、時期を得て高知に帰ってくるのですが、彼を待っていたのは、教育分野でした。

 大正9年に創立した土佐中学の初代理事長として、高知県の将来のために英才教育に取り組むことになるのです。高知における教育の必要性を感じていた彼が当時の高知県の財閥川崎幾三郎と宇田友四郎の両氏を説得、巨額の私財の提供を受け土佐中学を開校するのです。

 かつて、栃木県知事時代に、全国に先駆けて育英資金を発足させたり、一線から退いたあとでも東京で、土佐協会の理事として本県出身の子弟の奨学に尽力していたのです。自分自身が貧しさの中で学問をすることの困難さを実感していたからでしょう。

 彼も明治の男です。一直線の人生だったように思います。
 大正13年永眠するのですが、遺族は遺言によって「風葬」としたそうな。
 墓地を否定したのです。千の風に乗って」といった歌みたいですね。
 墓地は生産性がないのだそうな。それも考え方です。

 貧しい高知県の北川村の郷士の次男だったのです。北川信従といいます。もっと知られていい人物であろうと思います。
 高知県東部地域の人物列伝に入る資格十分です。
 彼の肖像画がいま北川村小学校にあるのだそうで、今度見に行きましょう。

 彼の兄、北川忠惇は政治を志し、自由民権運動に参加するのです。そして高知県議会議員となり、議長にまでなるのです。明治41年病没した際には、田野村葬の礼をもって送られたとされています。誠に盛大な葬儀であったそうな。

草莽の志士

2010-01-04 13:47:03 | 高知県東部人物列伝
 今日は能勢達太郎の話です。
 奈半利町の立町で医業を営み、傍ら家塾を開いて子弟を教授していた能勢魯足の子として天保10年に生まれたのです。幼い頃から父から手習いの指導を受け、14歳のときに土佐藩の藩校文武館に入り、16歳で得業生となる。大望を抱いて伊勢・大阪等で勉学につとめるのです。さらに江戸において昌平校に入っていたのですが、病を得て郷里に帰ってくるのです。病気平癒の後、勤皇派に属していたのですが、佐幕派の圧迫により意を決して脱藩。のち全国の情勢を調査して朝廷に報告するようになるも、元治元年(1864年)7月19日蛤御門の変に忠勇隊の一員となって会津等の兵と戦うも敗れて21日、自刃して果てたそうな。

 武より文のイメージが強い達太郎ですが、それだけに生き残ってほしかったのです。明治の時代まで生き残ってくれたなら、いい官僚になったであろうにと思うのです。
 有名にもならず、人知れず死んでいった草莽の志士たち。高知県東部地域にもまだまだそうした人達がいたのです。さらに注目する必要があります。

 忠勇隊はその後再編されて、中岡慎太郎が総裁になるのですから、縁がないとは残念なことです。
 清岡道之助らによる野根山屯集事件の4日前のことです。もちろん互いに知るよしもないのですが、命の価値が今ほど重くない時代だったのです。

 当時青年志士のなかで、第1の学者とされていた彼は、22歳の若さでした。

 いま、奈半利川の橋を渡った入り口付近に顕彰碑が立っています。

 

発刊の辞

2009-12-29 22:58:25 | 高知県東部人物列伝
 「高知新聞生る、何がために生まれたるか、時代の要求に伴ふて、我が県民と相携へ、倶に共に新天地を拓開せんとして呱々の声を揚げたるなり・・」

 高知新聞の発刊の辞です。明治37年高知新聞の発刊に参加した富田幸次郎の筆によるものです。当初は主筆として、後に第2代の社長に就任して、高知新聞の土台作りに努力するのです。
 今日はその富田幸次郎を紹介したいと思います。

 明治以降100年を越える国会の歴史の中で、高知県から5人の衆議員議長を出しているのですが、その1人でもあるのです。さらに衆議員当選10回というのですから、半端では在りません。明治41年の第10回総選挙に出馬。当選して議員活動を始めるのですが、胆力があり人情味あふれる政治家だったそうな。

 「踏まれてももえ出る草の力かな」彼が衆議員議長に推されて詠んだ俳句です。
 濱口の陰に隠れて、党務でも幹事長などまとめ役に徹していた彼が、議長という晴れがましい地位に就いた感慨が感じられます。
 
 出身は現在の安芸市川北。川北小学校から芸陽学舎に学びます。卒業後教員をするのですが、政治問題に関心を持ちはじめて、土陽新聞記者となります。記者としても活躍をしていたのですが、会社内の内紛に嫌気がさして、先に紹介したような高知新聞の発刊に参加するのです。

 先に紹介した濱口雄幸の政治活動を支えた一人でもあります。金融恐慌への対策や、軍部からの圧力に苦悩する浜口の仲間でした。
 明治のジャーナリストであり政治家。さらに乞われていくつかの会社の経営者としても実績を残しています。

 しかし贔屓目に見ても、幕末から明治にかけての男達のかっこいいこと。
 すごいねえ。

男子の本懐

2009-12-27 12:52:10 | 高知県東部人物列伝
 ライオン宰相として有名な濱口雄幸氏を紹介します。気骨あふれる明治の男なのです。
 昭和5年、東京駅で右翼の青年に狙撃された濱口雄幸首相は駅長室に移された後傍にいた幣原外相に「男子の本懐だ。」といったというのです。そのようになるかもしれないとの危惧は抱きつつ、信念を曲げることなく、当時の国粋的な風潮に向き合ったのです。ロンドンでの軍縮会議のことです。突出する軍の力に自ら向き合っていたのです。
 ロンドン軍縮会議での条約承認は、濱口雄幸の意思と決断によるもので、政党内閣の勝利であって、日本の民主主義にとっても銘記すべき事だったのです。

 彼の内閣が発足した昭和4年は、ニューヨーク株式取引所における大暴落を契機として世界恐慌の最中だったのです。もちろん高知県出身の初の内閣総理大臣でした。

 高知市で産まれた彼は、高知中学在学中に縁あって田野町の濱口家の夏子16歳と結婚。濱口家の養子となり、東京大学を経て大蔵省に入ります。
 当時の高知は自由民権運動が最盛期で、板垣退助、片岡健吉、植木枝盛等青年期の濱口雄幸にとっては綺羅星のごとくの諸氏が各地で活動をしていたのです。かれも、議論を繰り返していたとの記録があります。

 濱口家は安芸郡田野町で18代も続いた豪家で、雄幸は18代義立(よしなり)の婿養子となったのですが、義立の妹は、かの清岡道之助の妻、静ですから父親の代には討幕運動から明治維新にかけての攻防の最前線にいた方々がいたことになります。もちろん彼等は、奈半利川原での23士の処刑をも、じっと見ていたはずです。

 「国家政策の手段としての戦争放棄を遵守する。」命を架けて政治家として、信念をつらぬき通したことになります。
 今の政治家の先生方は、命がかかってってないような・・・。

波乱万丈の人生。

2009-11-21 01:02:49 | 高知県東部人物列伝
 紹介したい人がいます。名前を石田英吉といいます。生まれは今の高知県安芸郡安田町。天保10年(1839)に医師伊吹泰次の長男として誕生するのです。中岡慎太郎より1歳下になりますね。
 石田英吉は高松順蔵の私塾に通い始めるのです。順蔵は坂本龍馬の実姉千鶴の夫で、龍馬も時々遊びに来ていたようです。そうした場所から彼の勉学が始まります。
 中岡慎太郎や順蔵の長男太郎。そして安岡斧太郎ら幕末を駆け抜けた志士たちと幼少のころ既に出会っていたのです。
 さらに田野学館に入学し、ここで武市瑞山に出会い学問に励むのですが、もともと医者の息子ですから、医学を志して大阪の緒方洪庵の門下に入ります。
 しかし、大阪で勤皇の志士たちと交流が始まります。土佐脱藩をするに及んで、彼の討幕運動は本格化し、吉村寅太郎らと天誅組に入り天の川本陣で幕府の追討軍と戦闘するも、長州へ敗走。その長州で忠勇隊に加わり、禁門の変において戦闘を繰り広げるのですが、またも長州三田尻まで敗退。さらに高杉晋作の奇兵隊に加入して各地を転戦。下関海峡戦では、坂本龍馬の意向でユニオン号に乗船。砲手方を勤め、以後龍馬とともに亀山社中へ、そして海援隊に、そこで横笛丸の船長になります。忙しいことですが、彼は行った先々で仕事が出来てしまうのです。
 ただ波乱万丈はこれからなのです。龍馬を失った後、英吉は海援隊を出て振遠隊の一員として奥羽戦線に向かいます。奥羽鎮撫総督府参謀となります。そして庄内藩陣地攻略戦等を転戦するのです。
 明治の時代の英吉は新政府へ出仕。明治2年には長崎県少参事。明治8年には秋田県権令、明治16年には長崎県県令、明治21年には千葉県知事に就任。明治23年陸奥宗光が農商務大臣になると、次官として呼び出され、さらに貴族院議員となります。
 明治25年には郷土の高知県知事となり、30年4月まで勤めます。その後も貴族院議員等を歴任し最後には男爵に叙せられ華族となるのです。明治34年(1901)没。63歳でした。
 生死をかけて、勤皇倒幕運動に加わり戊辰戦争に従軍、さらに高知県知事として自由民権運動の闘士達と向き合うことになるのです。
 土佐の医官と評する資料もありますが、単なる医者ではありません。
 明治維新の激動期から新政府の黎明期にかけて、本当に生き抜いたといっていい郷土の先輩なのです。

明治の文人。涙香

2009-10-22 15:17:51 | 高知県東部人物列伝
 現在の安芸市川北に生まれます。時は文久2年ですから、野根山騒動二十三士の事件の2年前といった頃です。
 今日は黒岩涙香の話です。
 時代背景から考えると、自由民権運動が活発だった時期なのですが、淡々と自分の道を突き進むのです。

 16歳で大阪の英語学校に進学し、語学力をつけるのですが、さらに成立学舎、慶応義塾で学びます。それからです。彼は新聞社に入り語学力を生かして記者として活躍するのです。そうするうちに翻訳小説の分野で活躍することになるのです。彼は原書を読んで、筋を理解したうえで一から文章を創作していったのです。それが大きな評判を呼びます。

 明治25年には「萬朝報」(よろずちょうほう)を創刊するのです。タブロイド版の日刊新聞で、幸徳秋水や内村鑑三、堺利彦といった当時の最高識者が参画していたからでしょうか、一時は東京一の発行部数を誇っていたそうですよ。
 涙香はこの日刊紙で、100以上の外国小説を翻訳発表するのです。ジュール・ベルヌの「月世界旅行」やボアゴベイの「鉄火面」、デュマの「巌窟王」、さらにユーゴーの「レ・ミゼラブル」といった塩梅。大きな反響を呼んで、新聞の販売に大きく貢献したそうです。
 現在の3面記事のような、誰と誰が結婚するとか、愛人がいるなどといった記事まで、涙香自身が書いていたようで、新聞発刊への熱情はあきれるばかりといったところです。

 黒岩涙香は作家、翻訳家、探偵小説家で明治時代を代表するジャーナリストなのです。
 自由・自由と右も左も叫んでいた時期に、俺はこれをやると突き進むのですから、この人も、イゴッソウやね。

 そういえば、清岡道之助の長男・邦之助も年齢も近く、同じ慶応ですね。
 二人の接点を探してみるかなあ。もしかすると面白い展開があるかも知れません。涙香の得意な3面記事にでもなればいいのですがね。
 

土佐の交通王

2009-10-09 17:00:05 | 高知県東部人物列伝
 奈半利町で明治2年(1870年)に野村茂久馬が生まれたときは、明治新政府の黎明期なのです。新しい試みが氾濫していたのです。そういう時代だったのです。
 若くして上京するも、学業を断念して帰農していたとき、縁あって高知市で内国通運高知取引所を預かるのです。それからです、流通全般の事業拡大に全てをかけるのです。さらに地元企業を買収することで事業内容を広げてゆくのです。
 高知県東部地域においてでも、最も活躍したのは魚梁瀬森林鉄道においてではないでしょうか。魚梁瀬森林鉄道は全国でもトップクラスの路線網を維持していたのですが、そこで戦後最も活躍していたのは高知の車両メーカー「野村組工作所」の機関車でした。
 この会社は、大正10年に買収した高知工作所の鉄道車両部門を拡充して独立させたものだったのです。機関車の性能のみならず、多彩なデザインが好評で、各営林署でかんげいされていたそうな。現在の「新高知重工」です。
 さらに野村組自動車部は今の高知県交通ですし、多くの市街地交通事業に手をつけていたのです。土佐沿岸汽船を創立し土佐同盟汽船を買収、さらに土佐倉庫会社の全株を入手するなどして、事業拡大していくのです、特に日露戦争の際などには、輸送の仕事に重点を置き会社を急成長させていったのです。
 
 私見ですが、茂久馬は、30年ほど生まれてくるのが遅かったように思うのです。
 なぜって?。ざっとなのですが、彼のやってきたことを並べてみると、岩崎弥太郎の高知版といった感じがするのです。
 岩崎弥太郎は天保5年12月11日生まれですから、36歳の年長なのです。

 三菱財閥をつくった弥太郎と、野村茂久馬。意欲的にそれぞれの時代を駆け抜けた実業家であったのです。

 ただ、片や政商といわれ、片や本当に政治の世界に入ってしまいます。
 野村茂久馬は、昭和7年(1932年)貴族院議員に当選し、7年後再選されますが、終戦によって昭和21年1月、公職を追放されることになるのです。
 昭和26年公職追放解除となるも、昭和35年没。90歳でした。

 野村茂久馬に関する逸話が「土佐人物山脈」に載っています。
 茂久馬の3歳年長に金子直吉がいたのです。金子は神戸の鈴木商会(総合商社・日商岩井)を世界的な貿易会社にし、帝国人絹や神戸製鋼などを創設した人物なのですが、彼が茂久馬に尋ねたのです。

「君は土佐の交通王ともてはやされているが、四国と本州を結ぶトンネルを掘る計画を立ててみないか?」

 茂久馬は自信満々でこう応えたそうです。
「トンネルより淡路島を経由した陸橋がよい。既に設計済みだ。」

 彼の頭の中には明石大橋から鳴門大橋が既にあったことになります。

 昭和6年のこととされています。
 野村茂久馬。間違いなく先覚者の一人です。
 明治3年4月1日生まれの浜口雄幸は野村茂久馬と同学年になります。

 明治から大正、昭和の初期にかけて、高知県の東部は元気でした。
 人材豊富ですねえ。
 

 
 
 

志士 慎太郎

2009-09-16 23:01:01 | 高知県東部人物列伝
 文久3年(1863)9月5日のことだそうです。
 中岡慎太郎が脱藩をするのです。

 8月18日に京都で政変が起こり、七卿が都落ちをするのです。早いですね。事件が起こって18日しかかかっていないのです。
 事前に準備をしていたような、早さです。情報が届くのも、そうですが、臨機応変の行動です。

 父には高知へ行くと偽り、妻兼には役儀(庄屋の仕事)のため京都に行くので病気の父上をよろしく頼むといって家を出たのです。
 そして野川谷から野根山街道に入り、岩佐関所の番士、川島総次の家で1拍して、翌日甲浦に向かいます。そして間道伝いで阿波に入り、長州の三田尻に到着したのが9月19日とされています。七卿の都落ちから丁度1ヶ月で到着しているのです。
 そこには三条実美がいたのですが、脱藩者の旅は苦労の連続であったろうと思います。しかし到着した、その3日後三条公の使いで再度土佐に入国しているのです。そして、一旦捕縛されているのです。もちろん逃げ出すのですが、なんという胆力でしょう。つかまれば間違いなく死罪ですからね。
 そして11月25日には三田尻招賢閣議員となっています。

 彼の役割は「他藩応接密事係り」情報収集と通信連絡を主としていたようで、彼の元に重要な情報が集り、そして発信をしていたのです。

 そうした彼の元に郷里の野根山屯集事件により23士が処罰された情報が入ってくるのです。
 彼は土佐の仲間に連絡をします。
 「天下挽回再挙なきにあらず、然りながら今しばらく時を見るべし。依って沸騰及び脱藩は甚だ無益なり。涙をかかえて沈黙すべし。外に策なし。」と手紙が残っています。
 もちろん戦闘的民族主義者、慎太郎ですから、武力戦闘にも参加しています。長州藩の外様部隊「忠勇隊」で活躍、隊の総督にまでなるのです。

 さらに、薩長和解に向けて動き始め、それを龍馬と共に仕上げてしまいます。
 慎太郎の志士として評価されるべきは、時勢論はじめいくつかの論文を残していることですし、素晴らしい書簡が残っていることではないでしょうか。
 山内容堂による大政奉還、王政復古提案に対し「武力をもって戦う意思がなければ、周旋を中止されるべきだ。」と山本只一郎に書き送っているのです。すでに庄屋ではなく志士として目覚めています。
 慎太郎の覚めた目は、その後の戊辰戦争を見据えていたのですし、さらに倒幕という目的に向かって走り始めたとき、私怨をすてて大義に向かうのです。そう23士を処罰した小笠原唯八とも共に活動するのです。

 もしとか、かも知れないなどと言っても仕方がないのだけれど、中岡慎太郎は、何で龍馬と共に暗殺されねばならなかったのか、諸説あるのは仕方ないのです。
 彼らの存在が佐幕派、討幕派双方にとって煙たい存在であったことについては、妙に納得できるところです。

 彼らの活動の目的が明確すぎるからです。自分が権力を握って何をしようなどとは考えていないのですからね。
 倒幕が出来た後の権力闘争まで考えていた連中にとって、うっとうしい存在になっていたとしても驚かないところです。
 そして誰かに惨殺された事実だけは、確かなのです。
 さらに、明治新政府内での主導権争いが、果てしなく続くのです。

 慎太郎。享年30。