福島応援プロジェクト茨城

福島の子ども達の保養のために!原発をなくすために!避難者を支えるために!

7月15日(水)のつぶやき

2015年07月16日 | 保養

茨城の夏ゆっくらキャンプ~2015年 goo.gl/BeFn8n

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戦時ポスター展開催 goo.gl/QYpvQs

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茨城の夏ゆっくらキャンプ~2015年

2015年07月15日 | 保養
8月2日から8日まで、2015年の福島応援プロジェクト茨城ゆっくらキャンプを開催します。今回12名のお子さんの申し込みを受け付けています。
現在キャンプに向けて、準備を進めています。

7月8日に第1回のボランティア準備会を開催し事務局を含めて16名が集まりました。午前中キャンプ・スケジュールのことなどいろいろ相談し、午後「ともいきの郷」のお掃除をしていただきました。
次回は7月30日(木)9時から第2回のボランティア準備会を開催します。

写真は去年の冬に撮ったものです。どんなところかなと、思っている方もあるかと思ってアップしました。




以下の写真は去年のキャンプの時のものです。


今回も太鼓のワークショップをお願いしてあります。

オショーの沖縄旅 後編 2日目 6月29日

2015年07月04日 | 保養
朝6時、目が覚める。前夜の酒が残っている。私にしては珍しいことだ。
7時、“ 何我寺 ” (あーがじ)で朝のお勤めを、知花さんと行う。
知花さんは、現在 寺の住職である。
真宗大谷派の僧侶となっている。その後、朝食。
前日にチョトした出来事があり、その為今日の予定の伊江島とは逆方向、宜野湾市に向かうことになった。
宜野湾市からは再び逆方向に、今度は高速道路で本部のフェリー港へと、猛烈なスピードで車を飛ばす。16時の最終フェリーに乗る為である。車を本部港に置き、やっとのこと出港5分前に乗船出来た。
30分後には、伊江島港に到着。
「わびあいの里」の山城さんが車で迎えに来てくれていた。
「わびあいの里」に着くと、 早速、謝花さんにお会いし、長時間に及ぶお話しをお聞きすることになった。
まずは「阿波根 昌鴻」(あわごん しょうこう)氏についての話しから始まり、私の沖縄での目的、旅の行き先等、社会や人生についての多岐にわたる話しとなった。
阿波根 昌鴻氏とは、伊江島に於いての農民指導者である。戦後すぐ米軍は伊江島に飛行場を建設し、多くの農民の土地を奪い、その為、農民の生活は困窮を極め、土地奪還の為の反米軍基地闘争を始めたのである。
その徹底した非暴力無抵抗主義を貫いた生き方は、日本のガンジー ”と評されたのである。
その闘争の記録と歩みについて解説、そこから得られた教訓の数々を展示してある資料館があり、瞠目すべき内容となっている。
現代の辺野古の問題始め、沖縄に於ける反米軍基地闘争は極めて長期にわたる闘争であるが、阿波根さんのような方が存在したことは、戦後の民衆史の上で、特筆に値することであり、多くの人々に知ってもらう必要があり、「日本にも、阿波根さんという聖者がいた」と認識してもらう、ことは全ての市民運動家にとって、大きな励みとなるであろう。(同感です!)
謝花さんは、戦後、阿波根さんと歩みを共にされて来た方で、現在の「わびあいの里」の後継者である。
80歳過ぎの女性で、若い頃からの病氣で、車椅子生活を送っているのだが、お元気で、私に手料理を振舞っくれた。
この夜は、港近くにある「わびあいの里」の宿泊施設まで送ってもらい、シャワー浴び、10時、床に着く。


7月3日(金)のつぶやき

2015年07月04日 | 保養

第43回MITO彫刻展、水戸市のアートセンタータキタで本日7月3日~8日まで開催。blog.goo.ne.jp/ateliercube
地面を飛びたとうとする鷲を表現した作品の題名は「風に」。3日お昼過ぎまでと、5日6日在廊。 pic.twitter.com/aYXZYjIwgi

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大和さんの沖縄報告第二弾

2015年07月03日 | 保養
(大和さんの沖縄報告第二弾です。)
さあー 、始まりました。ミラクル ワールド 沖縄の旅。
快眠、快便、快調、開会、チバリヨー オキナワ 😎。
4時、グッショリ汗かいて、目覚める。
シャワーし、今日からの沖縄本島の旅について夢想する。
7時半、レンタカー会社に送ってもらう。
車は、ブランニューの あれ!何だっけ、ダイハツの、名前は? とにかくピッカピカの軽自動車。
走行距離1,820kmの新車に乗り込み出発。
まずは、宜野湾市の‘佐喜真美術館’に行く。http://sakima.jp/
極めて興味深い場所にある美術館だ。 普天間飛行場に隣接する場所に立っている。
此処は、かって米軍基地の中であった土地である。
9時前に着いたのであるが、開館は9時半なので、車中で待機する。(隣接というより、基地に食い込んでいる形。屋上から普天間基地が見渡せるので、沖縄に行かれる方は是非立ち寄っていただきたい場所です)

現在、「増田 常徳 / 黒い絵のシリーズ展」が、行われている。この画家は、非常に内面的な要素の強い、且つ社会的な題材をテーマとする作風の絵を描く人である。
戦争や原発事故に基づく、黒を基調とした絵のシリーズの展示である。全ての絵から死の匂いが漂ってくる。仲々の技術の持ち主である。マチエールが独特で、直接増田氏にその事を尋ねると、炭を砕き、5種類ほどの目の違う‘篩い’で大小の炭の粒を作り、それをカンバスに絵の具で塗り付ける技法を多用する。中には、無辜の民衆の声が圧殺されていることを意味しているのであろう、目を閉ざした顔の口に有棘鉄線を取り付けた絵などは、強烈なメッセージ性を有している。現代の社会状況を告発するが如き絵の群れは、見る者に強いインパクトを与える。
全体を見終わって、常設展示の「沖縄の図」(丸木 位里、俊 夫妻作)を見ていると、増田氏夫妻が入ってくる。在日韓国人学者 徐 京植氏と二人の韓国人を伴っている。増田氏は伴っている人達に自分の絵を説明し始めたので、私も一緒にそれを聴く。
途中、増田氏達が喫茶室に入ったので、入らずにいた氏の奥さんと立ち話をする。かなりの時間氏の作品について話しをするが、奥さんは、私のことが気になったらしく私について、あれこれと聞いてくる。それに応じて私の沖縄に於ける目的について話す。仲々の面白い会話であった。
増田氏と徐 京植氏の対談形式による講演会が、1時半からあるというので、一旦外に出て、ブランチを摂る。
講演会では、増田氏のこれまでの作品の変遷について、氏自身の口から語られる。
当初、売れる絵を描いていた。生活の為である。画商の要望に応えて、カラフルな印象派風のものであったそうである。
しかし、自分の意に反し、金儲けの仕事をし続けていると、だんだんその事に嫌気が差し、画商に会うことが辛くなり、遂には神経症的症状を呈し、画商が来ると、下痢をしたり、居留守を使ったりするようになってしまったのだそうだ。
そこで氏は売れなくてもいい、自己に忠実な作品制作をしようと思い、内発的な自己の内面に忠実な作品制作に励むようになったのだという。そして、それが現在の作品群に繋がってきたのだという。
原発事故や、戦争、権力による民衆に対する弾圧や抑圧に対し、心の底から起きてくる
内発的感情を、氏独自の表現、手法を用いて制作されたのが今回の展示作品だという。
これらの絵の制作を通して、氏の精神の回復も出来たのだ、という。言わば、氏自身のトラウマの氏自身による回復の物語であり、
自己の内面と、外部で起きている社会的状況を重ねることによって、精神の安定と自己の確立を遂げことになった訳である。
極めて現代的テーマ性をもった話しである。
多くの人々にとって、金銭とそれにまつわる事象は、真の自己確立を阻害する悪要素であり、人間疎外の最大原因である。
氏の話しは、現代に生きる我々にとって、極めて示唆に富む話しである。
講演の始まる直前に増田氏の奥さんからある依頼があった。
氏夫妻が伴ってきた韓国人アーティスト夫妻は、日本語が全く出来ず、英語なら理解するようなので、私に通訳をしてくれないか、と言う。快諾という訳にはいかないが、お困りのようなので、伊江島へ行く予定を変更し、彼ら4人と共に読谷村の戦跡に向かって出発した。
途中、読谷村役場前で、案内の方と合流する。最初は気がつかなかったのだが、彼こそ名高き反基地闘争の勇者、読谷村の“知花 昌一” その人であった。


(岩波ホールで公開中のユン・カーマン監督制作「うりずんの雨」でたくさんお話しされています。写真は僧侶になられた最近の写真のものと思われます)

早速、「シムク ガマ」に向かう。此処は、村民1,000人が、隠れていた洞窟である。幸いにも死者を一人も出すことなく、全員生還した所である。(このガマの中には、ハワイに住んだことのある人がいて、アメリカ人が決して鬼では無いとみんなを説得して、投降できたのだと、以前知花さんに聞きました。チビチリガマとシムク ガマはたいして離れていません。http://www.geocities.co.jp/HiTeens-Panda/5318/06/gama2.html)
次に、「チビチリ ガマ」此処は、暗く悲しい事件によって、よく知られた洞窟である。
140人の村民が隠れていたが、その内の83人が集団自決した悲劇の洞窟である。
「シムク ガマ」では、冷静に判断出来るリーダーがいたお陰で、一人の死者も出さず、一方「チビチリ ガマ」では、恐怖に襲われ、パニックになった結果、集団自決によって、6割もの人命が無惨にも失われた。
この事は、沖縄戦を通じて、又第二次大戦全体を通して言い得ることのひとつではないかと思う。
(皇民化教育が染み込んでいなかったオバーさんの方が、子供や孫の命を大切にし、生き延びさせたということが、あちこちで語られています)
ガマの中には、今だに当時の生活用品が残され、死者の遺骨の一部が遺されている。
慄然たる想いに立ち尽くす。
(確か現在チビチリガマには中に入る事はできないので、知花さんの特別の配慮で、入れてもらったのだと思います)
ガマの入り口で、般若心経、光明真言を唱える。
次に、「残波岬」に向かう。此処は、アメリカ軍の読谷上陸地点だという。岬には、白く大きな灯台が聳え、白波が渦巻いている。現在は、沖縄の一大観光地となっている。
近くに住む有名な彫刻家 “ 金城 実 ”氏の仕事場に行くが、不在。

多くの彫刻、レリーフを見させてもらう。その造形力はたくましく、雄大である。迫力に満ちている。
知花さんが、自宅に電話をすると、金城さんは知花さん宅で飲んでいるという。それでは知花さんの家へと、いうことで知花さんの家に向かう。
知花 昌一氏は、自宅で家族経営の小規模な民宿を営んでいる。
名を“ ぬーがや (何我舎) "という。部屋に入ると、金城さんが酔って、英語で何か喚いている。金城さんは元々高校の英語の先生だったそうで、かなりの英語使いだそうだ。
同室に山羊髭の痩せた老人がいる。名を、河村 宗治郎という。ほんとうだろうか? 確認すると、その本人だという。全くの奇遇である。
私は、長田神社の一角でボランティア センターを主宰(阪神大震災の時、大和さんは1年半にわたって支援活動をされていたとのことです)し、河村さんは、兵庫区で、住民達をひきいて行政と渡り合う闘士であった。
まさか、目の前の痩せた山羊髭の老人が、かって恰幅の良かったあの河村さんだとは分からなかった。河村さんは2月に肺癌の手術をしたのだという。
増田氏達は帰っていき、私は知花さんのところに泊まることにした。
( )内は小張の補足説明です。