福島応援プロジェクト茨城

福島の子ども達の保養のために!原発をなくすために!避難者を支えるために!

福島の今を聞く会開催しました。

2016年01月28日 | 保養
1月16日の福島応援プロジェクト・茨城主催・・・福島の今・・・
【いまは福島のこと、いつかはあなたの町のこと】は、 25名の参加者を得て盛況のうちに終了しました。

当日中継されたIWJの映像は http://www.ustream.tv/channel/iwj-ibaraki1 
でアーカイブを見ることがきます。
また常総生協の大石副理事長さんが撮影してくださった動画がアップされていて、以下のURLからダウンロードすることができます。
http://firestorage.jp/download/b83f941ad029e0e179a7695562c1a20b4eeb97ab
17日に渋谷で開催されたお二人の話を聞く会の模様は以下で視聴できます。https://www.youtube.com/watch?v=KY-2c2CgQcw
https://www.youtube.com/watch?v=oB--V-l6QVQ#action=share

参加者もスタッフも初めて聞く凄い話が満載で、皆さん真剣にじっと耳を傾けておられました。三春町の飛田晋秀さんは取りためた被災地の写真の解説をしながら報告をしてくださいました。
地震や津波で押しつぶされた家がそのままになっている街に人の姿が一切無い!その気味の悪さ、おそろしさが伝わり、しかもいまだに高線量であることを証明する線量計とともに被災地の写真が次々プロジェクターからスクリーンに映しだされました。


飛田晋秀さんは取りためた被災地の写真の解説をしながら現状報告を。画面は、原発爆発後も富岡町に残り避難者に託された動物の世話 をしている松村直登さんについて話される飛田さん。松村さんは一旦はいわき市の親戚をたよって避難したものの「あんたは放射能で汚染されているから、家に 入れる訳にはいかない」と断られ頭にきて住民がいなくなった町に戻り、富岡町で暮らし
続けています。無人の町に出て様子を見に出たある日、誰もいないはずの町で「人間」に遭遇。その人はAP通信の記者で「富岡町の番人」として世界に発信してくれたのだそうです。しかし、国内では一部の報道しか伝えないために知らない人も多く、この日初めて聞いたという方がほとんどでした。松村さんの日常を 記録した中村真夕監督の映画「ナオトひとりっきり」は世界に発信され、昨年カナダで行われた映画祭でも高く評価されました。松村さんは海外での原発反対イ ベントに何度も招待され、フクシマ以降の福島を伝えています。飛田さんと木田さんは、昨年(2015年)の桜の季節に被災地の松村さん宅を訪ね、お話を聞かせていただいたとの事。

被災地では暴動も略奪も起きずに全て整然としていたように言われましたが、そうとばかりは言えなかったようです。コンビニに入ると必要なものを求めて長蛇の列ができているが、停電なので電卓だけが頼りの清算は時間がかかる。女性はみんなじっと待っているが、男性は手当たり次第に電池等をポケットに突っ込みお金を払わずに出て行ってしまう人が多かったという。そして頻発する泥棒団。 1時帰宅するたびに家が荒らされものが奪われて無くなっていくのを発見する。また、無人の家に人が入って暮らしている跡を発見する。お金がない原発収束作業員の下請けの人たちではないかと思われるとのこと。

木幡さんの住んでいた野上地域には避難の知らせが来なかったという。
大熊町には11日の夜にはいち早く避難のバスがきて多くの人が逃げたのだが、しかしこのバスに乗った人達はかえって大変な思いをしたのだそうだ。持病のある人が薬を持ち出せず、貯金通帳もお金も持ちだせずに着の身着のままで避難させられたのだそうだ。
情報の蚊帳の外に置かれた野上地区の人々は、ことの重大性を理解していた木幡さん夫婦などのリードもあって、帰れないということを認識して必要なものを持ち出して自家用車で逃げることができたのだ。

そして至る所で原発事故さえなければ救える命が、見捨てられ放置されていたのを、ごめんなさいと言いながら逃げるしかなかった苦しさを語る木幡さん。

原発立地である大熊町の行政は、他の町村に比べればはるかに多くの情報を手に入れることができた(この不平等にも驚かされ、怒りが湧いてくる)が、首長を始めとした担当者たちの原発事故による放射能の危険性に対する無知と、住民を救おうとする意識の薄さのために、多くの困難を強いられたという感がある。ヨウ素剤が用意されていたにもかかわらず、それを飲ませることの意味や必要性を、役所の人々が全く知らなかったということも怖いことだ。
大熊町は立入禁止だったが、猫や犬を置いて逃げださなければならなかったのでこっそりエサをやりに通った。しかし次々にやせ細って死んでいってしまった「ネコさん」や「犬さん」の事を語る声が詰まる。自衛隊や警察の方たちがそんなペットたちに餌をあげてくれていたことを、「とてもありがたかった」と感謝の言葉を述べ、野生の猿の姿が見えなくなっていることも心配気に話す木幡さんの優しさが胸を打った。

木幡ますみさんは徹底的な脱原発でありながら選ばれて、東京電力のモニターになっていたことがあったとのこと。
そして 2004年にモニターと東電の幹部が一堂に会し、第一原発を視察した時「こんな地下に非常用電源があったのでは役に立たないのではないか。自家発電機を安全なところに設置して欲しい」と要望したという。
その時勝俣は「メルトスルーは決して起きない」「だからそんな必要ない」「もしそんなことが起きたら謝る」と言ったそうです。
「でも、まだ謝りに来ないよ」「大勢のモニターがいて、みんな聞いていたんだから」
専門家では無い木幡さんがこんなに見抜かれていたことにも、驚かされました。


三番手の木田節子さんは発言者としてだけではなくスタッフとして準備から関わっていただきました。
そんなことから遠慮されたのか幾分いつもより控えめな発言でしたが、木田さんの生まれ故郷岩手県の原発を阻止し、昨年亡くなられた岩見ヒサさんの事跡と著書を紹介してくださいました。田野畑村には岩見さんの「吾が住み処 ここより外になしと思ふ 大気清澄にして 微塵とどめず」の歌碑が立つと言います。

木田さんはご自身のFacebookに「お話会より交流会、交流会よりその後、そして一泊していただき今朝の朝ごはんの時も、二人の話は途切れることなく問題発言いっぱいでした。」と記しておられます。木幡さんとは長いお付き合いなのに、初めて聞く話がいっぱいだったとのこと。場の雰囲気だったのか?今まで歯に衣着せない発言に対して、様々な抑圧を受けてきたのに、大熊町町議会選挙で上位2位の得票だったことが、木幡さんを支持する人が実は多かったという証で、吹っ切れてきた部分があるので はないかと思うと木田さんが言っておられました。木幡さんの魅力は何よりも明るさ。そして物事の本質を見る鋭さと、直感力。初めてお会いしましたが、いっぺんにファンになってしま いました。
『木幡さんは昨年の大熊町議選に立候補され、見事に当選!それもトップとはわずかな差の2位で。夫の木幡仁さんは以前大熊町の議員であったこともあり被災後にあった町長選に立候補してわずかな差で破れました。今回の町議選に立候補する件には大反対したそうです。震災以降避難所で「大熊の明日を考える女たちの会」を立ち上げ、ずっと走り続けてきたますみさんを心配してのことでしょうが「このままでいいのがい?」と反論するますみさんとは現在でも意見が合わないとか。そんな時には、震災後に生体間移植で自分の腎臓を提供した話を持ち出し「なんだかんだ言うなら腎臓返せ!って言ってやんだ」という話に、思わず爆笑。
※腎臓移植についてのお話はフォトジャーナリスト・山本宗補さんの写真集「鎮魂と抗い、3.11後の人々」(彩流社より出版)に紹介されています。夫婦で頑張ってきた、今も頑張り続けているお二人のエピソードです。

2次会は交流会。
木田さんを応援してくださる方から届いた差し入れの数々。新潟県津南町の人参ジュース、こんにゃくやおいしい島みかんもどれもみな美味しくいただきました。



『お話会が終わり、残った12名が参加した交流会でカンパーイ!
メニューは長田先生手作りの本格的なカレー3種とカボチャサラダ、イカと大根の煮物。

二間ぶち抜きの和室がある古民家だからできるお話会。皆さま、次の機会はぜひご参加を

おいしい、おいしい!と、何でも食べてくれたますみさん。この日は、翌日渋谷であった講演会に参加のため「ともいきの郷」に泊まっていただきました。
古民家でのひとときに帰れなくなった大熊町の自宅を思い出すのか、いいね!いいね!を連発。
「縁側の雰囲気、うちもこんな感じなんだ。うちは180年前の家を何回も何回も直して住んできたんだよ。震災前には台所を直したばっかりだったのにさ、180年経ってるから資産価値がないなんて言われて賠償の評価は二束三文。お金もらってっぺって言う人たちは、その辺の事情なんかわがんねえんだよな」・・そうなんだよね。』
上記は木田さんのFacebookから

大きな衝撃を受けたのは、ともいきの郷に泊まって翌朝起きてこられた木幡さんが、嬉しそうな晴れやかな笑顔でおっしゃった一言を聞いた事でした。
「久しぶりに大きな布団で眠れたのでゆっくりしました。とてもいい気持ちです」
一瞬、意味がわかりませんでした。私たちには消して潤沢な資金があるわけではないので、郷の布団は上等な布団ではありません。しかもシングルサイズの普通の布団です。
すると木幡さんは、続けて
「仮設住宅は狭いので、縮こまって寝ているんですよ。いつも。
昨日はおいしいもの食べさしてもらっていい布団で寝かせてもらってよかったです」と言われたのです。
こうやって交流して初めてわかることがいっぱいあります。
福島の子ども達だけではなく、仮設住宅におられる方々にも来ていただいて、時に手足を伸ばして休んでいただくことも、必要な支援だと、改めて思いました。

前日の交流会の残り物だけではなく、木田節子さんが小松菜のおひたしやお味噌汁、きんぴら、焼き魚など作ってくださったので、とっても豪華な朝ごはんになりました。小松菜や白菜は八郷の有機農家の佐藤守さん有里さんの差し入れでした。


昨晩の牛肉たっぷりでおいしい「芋煮」は木田節子さんの作品。大量の「焼き鳥」も木田さんの差し入れでした。


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