夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

大幅 雲龍図 伝狩野安信筆 その3

2024-05-10 00:01:00 | 掛け軸
この度の五月の帰省に際しても、また蒐集の収穫がありました。その作品らは後日また・・。



上記写真は男の隠れ家付近から白神山地方面を望んだものです。これからの田植えの準備の季節・・。

本日は久方ぶりに狩野派らしき作品の紹介です。非常に大きな掛け軸の作品でせす。

今年の(辰の)干支、さらに五月にちなんでの投稿ですが、改装完了が昨年末には間に合わず、今年の正月早々に完了して届いていました。

下記の写真では分かりにくいのですが、入手時は表具状態?が古くだいぶ傷んでいました。迷った末に表具を改装しています。



大幅 雲龍図 伝狩野安信筆 その3
絹本水墨絹装軸 古筆了仲極箱入
作品サイズ:縦2230*横980 画サイズ:縦1610*横810
改装後の寸法 作品サイズ:縦2203*横983 画サイズ:縦1595*横850
2024年1月 改装完了 
改装・軸先概存使用 改装費用:60,000円 多当紙新調 3,000円



後述の鑑定箱書の「戌三月」からは真の鑑定なら、古筆了仲の経歴を踏まえて「1728年(戊申)」、「1718年(戊戌)」、「1708年(戊子)」のいずれかの年?と推定されます。

この時代の古筆了仲の略歴は下記のとおりです。

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古筆了仲:(こひつ-りょうちゅう) 1656-1736 江戸時代前期-中期の古筆鑑定家。明暦2年生まれ。古筆別家2代了任の養子となり3代をつぐ。宗家の了珉(りょうみん)とともに幕府につかえ,寺社奉行支配の古筆見となっています。

*下記写真は淡交社出版の資料からです。



初代古筆了佐によって創始された古筆家は、了佐一系の本家とは別に、早くに江戸に出た了佐の三男勘兵衛(名・一村)の子了任が別家を立てて鑑定業を行っています。その養子に入ったのがこの了仲です。元姓は清水氏、名は了因、のち守直といい、通称を勘兵衛といったようです。ほかに、舎玄斎・釣玄斎を号しています。

当初、了任が本家の許可を得ずに始めた家業ですが、了任が江戸幕府の古筆見(古筆鑑定家)に取り立てられて以来、本家とも縒りが戻ったとされます(『江戸図鑑綱目』の古筆目利の項に、了仲と本家の了珉がともに谷中に居宅を構えていたことが記されています)。

元文元年8月30日死去しており、享年81歳。

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この作品は了仲による鑑定箱書に狩野安信と記されており、狩野安信の「雲龍図」は聖福寺仏殿(大雄宝殿)天井画(紙本墨画 款記「法眼永真筆」)が有名であり、もし真作なら同時期の1673年(寛文13年)頃の作とされるのでしょうか?

*現存する聖福寺仏殿(大雄宝殿)天井画は狩野安信の絵を木彫りに改められているようです。この絵は3本爪の龍・・・。



狩野安信の作品は本ブログでも取り上げたことがありますが、改めて画歴は下記のとおりです。

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狩野安信:(かのう やすのぶ、慶長18年12月1日(1614年1月10日)~貞享2年9月4日(1685年10月1日))は、江戸時代の狩野派の絵師。幼名は四郎二郎・源四郎、号は永真・牧心斎。狩野孝信の三男で、狩野探幽、狩野尚信の弟。狩野宗家の中橋狩野家の祖。英一蝶は弟子に当たる。

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さらにもう少し詳しい狩野安信の略歴は下記のとおりです。

元和9年(1623年)危篤に陥った宗家当主の狩野貞信(狩野光信の長男)には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる狩野長信と狩野吉信の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として惣領家を嗣ぐことが決められました。

伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようです。『古画備考』所載で、安信の弟子・狩野昌運が記した「昌運筆記」では、探幽が安信をいじめた逸話が幾つも収録されています。例えば、ある時、三兄弟が老中から席画を描くよう言われた際、探幽に「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と命じて筆を執らせず、また或る時安信が浅草観音堂天井画に「天人・蟠龍図」を描いた際も、「日本の絵でこのような絵を座敷などに飾るものではない」と叱ったと伝えられています。果ては、「安信が宗家を継いだのは、安信が食いはぶれないようにするための探幽の配慮」といった、史実と異なる悪意が込められた話が記されています。

しかし、安信と探幽は年を経ると、互いに画風や意見の対立があるのを認め合っていたようです。そもそも、安信は探幽より12歳年下というかなり年の離れた兄弟であり、上記の逸話も歳の離れた手のかかる弟に対する配慮とも取れます。そうした探幽のいじめとも取れる指導を受ける中で、安信は画技の研鑽に努めていたようです。

明暦元年(1655年)普門寺にいる隠元隆琦を訪ね、隠元から法を受け、同寺の障壁画を描いています。探幽ら当時の狩野派の絵に、隠元ら黄檗僧が着讃した作品は非常に多いですが、その中でも安信には黄檗美術の影響を受けたと思われる作品があります。寛文2年(1662年)には法眼に叙されています。

また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられたとする狩野益信や甥の狩野常信に娘を嫁がせ、狩野家の結束を固める策をとっています。

延宝2年(1674年)の内裏造営では、筆頭絵師にのみ描くのを許された賢聖障子を描き、62歳にしてようやく名実ともに狩野家筆頭の地位を得たようです。

安信は晩年になっても、武者絵を描くためにわざわざ山鹿素行を訪れ、武者装束や武器などの有職故実の教えを受け、朝鮮進物屏風の制作にあたっても素行を訪ねて様々な質問をしたという逸話が残っています。しかし、延宝6年(1678年)に息子の時信に先立たれてしまう。そのため、時信の子・永叔主信を跡取りとし、後事を有力な弟子・昌運に任せて亡くなります。菩提寺は本門寺。位牌は妻や子、舅の狩野長信らと合わせられている。弟子は、英一蝶や狩野昌運、狩野宗信、松江藩に仕えた狩野(太田)永雲(稠信(しげのぶ))、狩野清真など。

また『古画備考』には「門人」とは別に、「門葉」という項目があります。これは、画を生業としてではなく趣味として楽しむために学んだ門跡や大名のことで、徳川光圀や黒田綱政、光子内親王、森川許六ら19名が記されています。



画論『画道要訣』:絵画における安信の考え、ひいては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されますが、晩年の延宝8年(1680年)に弟子の狩野昌運に筆記させたのが『画道要訣』です。

この中で安信は、優れた絵画には、天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしています。ただし、安信は質画の良さまで否定したわけではなく、さらに「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視していたとされます。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいとのことです。



安信の作品と評価:安信は比較的長命で狩野宗家の当主ということもあり、多くの作品が残っていますが、粉本をただ丸写ししたかのような、画家自身の個性や表現を重んじる現代では鑑賞に耐えない作品も少なからずあるとされます。

しかし、その中でも上質な作品を掬い出して見ると、粉本に依拠しつつも丁寧で真面目な描線で、モチーフを的確に構成した「学画」という自身の言葉通りの作品を残しています。

筆墨による繊細な表現が重要な水墨画を苦手としていたらしく、優品と呼べる作品は少ない。一方、時にその単調な筆墨が明快さ、力強さに転化する場合もあり、これらが利点として出やすい人物画に優れた作品が多いとされます。ただし、優品の中でも人物の衣文線がはみ出したり、一つの絵巻や屏風内でも明らかな様式の不統一があるなど、細部がいい加減な点がしばしば見られ、細かい点に拘らない安信の資質が見て取れます。

安信は既に江戸時代から兄達に劣るとする評価が広く見られましたが、一方でそれを下手と切り捨てるのではなく、兄二人と別の方向を目指した、努力で補ったとする好意的な解釈も見られます。例えば公家の近衛家熈は、尚信を高く評価していたが、安信にもその力量を認めています。曰く、「安信は兄には及ばないことを自覚し自分の様式を貫いているが、決して兄二人に劣っていない」、「安信は下手と言われるが、出来の良い作品は素晴らしい。これは安信が探幽や尚信に及ばないと考え、「己が一家一分の風を書出して」個性を出したからで、これが安信の優れた所であると・・・。



蘭方医の杉田玄白も、三兄弟を評した文章を残しています。
「探幽の縮図を見たことがあるが、その膨大な量、留書の筆まめさ、出来栄えなどから、探幽には才能に加え篤い志のある三、四百年の名人だと感じ入った。尚信・安信は共に上手だが、尚信は才能があるため絵が風流で、例えるなら紗綾縮緬、安信は才能で劣るため雅さがなく絹紬のようだという。前者は良い織物だが、染色が悪くて仕立てが悪いと人前で着れたものではない。対して後者は劣った織物だが、染めや仕立てが上手ければ人前でも着ることができる。安信は絹紬のように下地、即ち先天的な才能では劣っていたが、努力したため兄二人に並ぶ上手となった。

安信の絵が雅でなくともそれは恥ではなく、学んだことが結果として表れているのが素晴らしい。今でも識者は安信を目標に絵を学ぶといい、医学を志す者もこうした安信の姿勢こそ見習うべきである。」(『形影夜話』)。

*本作品の箱書は下記のとおりです。

 

資料との落款の比較は下記のとおりですが、印章は当方の資料では見当たりませんでした。

  

真贋はさておいて、非常のオーソドックスに狩野派の作品として楽しめる作品には相違ありませんね。

改装後の写真は下記のとおりです。



ここで龍の爪について改めて調べてみました。

龍の爪の数
古代の中国では龍の爪数について明確に定まってなく唐・宋の時代では三本爪が基本でした。

※前足が三本爪、後足が四本爪の場合もあります。



元代に入ると五本の爪をもち、頭に二本の角をはやした「五爪二角」だけが本当の龍であると定義されます。

延祐(えんゆう)元年(1314年)には五爪二角の龍文が皇帝専用の文様となり、以降中国では皇帝以外の者が五本爪の龍を使用することが禁止されます。



明・清の時代になると爪の本数が所有者の地位を意味するようになり、階級によって三本爪、四本爪、五本爪を明確に分けるようになりました。爪の本数が多いほど地位が高いとされます。



五本爪の龍:最高位の王を表していました。五本爪が使えるのは皇帝だけであり、もし他の人が間違えて使うと政治犯として罰せられました。

四本爪の龍:皇族を表しており、親王や地方の王だけが使うことが出来ました。ちなみに四本爪の龍を刺繍した礼服は蟒袍(大蛇の長衣)といい、皇帝が着る龍袍(龍の長衣)とは区別して呼んでいました。もし親王や地方の王が五本爪の龍袍を着ると、それは皇帝に反旗を翻したと解釈されました。

三本爪の龍:役人の礼服などで使われていました。



*龍の爪数の決まりは、服飾以外の芸術品にも適用されています。現存する明・清時代の芸術作品はほとんどが四本爪の龍です。皇帝に捧げた五本爪の龍は非常に希少であり博物館などでしか見られません。



**皇帝の住居であった北京の紫禁城(故宮)の九龍壁の龍は五本爪です。しかし山西省大同市の皇族屋敷(大同大王府)の九龍壁の龍は四本爪であり階級をわきまえています。



本作品は4本爪、5本の爪の龍は描かない・・・?? 

狩野派の絵師たちも龍の爪の数の意図するところは当然知っていたと思われますが、このあたりの調査資料は当方にはないので狩野派の絵師らがどうとらえていたのかは解りません。

骨董蒐集はひとつの作品から学ぶことが多いものですが、蒐集は「買うべし、売るべし、勉強すべし」だとか・・・、ただし度が過ぎると小生のようになる。


























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