夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

贋作 壬戌之秋図 釧雲泉筆? 享和2年(1802年)秋

2020-12-05 00:01:00 | 掛け軸
先週の日曜日には息子が茶室でお茶をと言い出しました。早速、段取りを家内がし始めましたが、息子は自分の部屋に飾っていた亡くなった義父の写真を持ってきました。エライ! 



よく皆でお茶したし、甘いものが大好きな義父を思い出したのでしょう。



お手伝いはきちんとするようです。



「おいおい、畳の縁は踏むなよ!」、「縁ってな~に?」



家内には小生が点てます。



片付けもお手伝い。



ただし息子の気分は鬼滅の刃の竈屋炭次郎きどり・・。



さて本日紹介する作品は釧雲泉の享保時代に描かれた作品とされるようですが、当方では贋作と断定しています。贋作をあえて投稿する必要は当方では本ブログを資料としているためで、当方の検索資料とするためでもありますので。読者の皆さんは休日ということでご了解ください。

インターネットオークションからの入手ですが、インターネットオークションの少ない画像には本物のように写されていました。

贋作 壬戌之秋山水図 釧雲泉筆 享和2年(1802年)秋
紙本水墨軸装 軸先木製 誂箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1080*横545



ひさかたぶりの釧雲泉の作品の考察となります。今まで記述のように日本の南画家の代表的な画家である釧雲泉は旅に生き、 酒をこよなく愛した孤高の画聖として知られ、その画風の人気ゆえ、また明治期まで続く根強い南画そのものの人気ゆえ、贋作や模写が数多く存在します。当方で厳選しても真作の確率は50%程度でしょう。よくできた模写も存在し、それはそれで存在価値は高いのですが、真作そのものを入手するのは至難と言わざる得ません。



さてここで釧雲泉の例歴をあらためて復習してみましょう。

**********************************************

釧雲泉:(くしろうんせん)宝暦9年(1759年)~文化8年11月16日(1811年12月31日))。江戸時代後期の文人画家で、旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画聖として知られる。江戸後期の南画家。号の雲泉は雲仙岳に因んだ。名を就(じゅ)、字を仲孚(ちゅうふ)、通称 文平、別号に、魯堂(ろどう)、岱就(たいしゅう)、岱岳(たいがく)、六石(りくせき)、磊落居士(らいらいこじ)などがある。

雲泉の30歳以前の経歴はその墓碑銘にわずかに伝わるのみである。これによると宝暦9年(1759年)に島原藩藩士の子として肥前島原野田名(長崎県千々石町)付近に生まれ、幼少より絵を好み、いつも神社の大きな石(雲泉の手習い石)に泥を塗って竹箆で絵を描いては衣服を汚して帰ったという。10歳の頃、雲仙一乗院の小僧となるが、ここでも暇さえあれば絵を描いていたという。その後、理由は明らかでなく期間も不明であるが、父に同行し長崎に遊学し、清国人について学問と南画の画法を学び華音にも通じた。このときの師は明らかではない。以来、董源や倪雲林・王麓台に私淑するようになる。また来舶した清人画家 張秋谷にも影響された。父が没すると、一人万里の旅に向い山陽道から紀伊、淡路、四国の諸国を巡り歩いた。この間に讃岐で長町竹石と知りあい交友を深めた。その後、江戸に下向し居を構える。

寛政3年3月(1791年)、32歳のとき十時梅厓の紹介で伊勢長島に流謫中の木村蒹葭堂を訪ねている。その後、また江戸に戻ると、予てより親交のあった備中庭瀬藩江戸家老海野蠖斎の計らいで、蠖斎の実兄で同藩家老森岡延璋(松蔭)に紹介され、備中に赴き森岡邸に身を寄せる。同年、脱藩前の浦上玉堂や淵上旭江、梶原藍渠、後藤漆谷、長町竹石らと松林寺で賀宴を催して交流した。その後、約3年間は倉敷を中心に旺盛な創作活動を行う。備中長尾の小野泉蔵とも交流をもった。寛政4年(1792年)頃から、備州と京都、大坂をたびたび往来し、儒学者の頼山陽、菅茶山、皆川淇園、画家の浦上春琴、浜田杏堂らと交流。同年6月には再び蒹葭堂を訪ねている。寛政8年以降は主に備前東部を拠点としたとみられる。

参考作品:壬子山水図 竪176㎝幅42㎝ 



上記作品には「壬子后二月念三日酔作於癸邸之緑居席間」と記され、吉備、岡山滞在時の寛政4年(1792年)34歳の作と推定されます。晩年の穏やかで清潔な数多の作風と異なりの長丈幅に画面いっぱいに長く柔らかな墨線で、屹立した山容が強調され、点苔が大胆に施されている。近景中央に巨石を配し、樹木が高く伸びて、高士が二人にこやかに語らっている。この時期、雲泉にとって画風確立の模索期とも言えますが、本図のような独創的で大胆な表現は他には類例を見ないもので、若書きの頃の作品が人気の由縁とも言えます。

寛政10年(1798年)、蒹葭堂を訪ねる。

寛政12年(1800年)、41歳のとき備州を去り大坂に移り住んだ。

享和元年(1801年)、蒹葭堂を訪ねる。その後京都に赴き、享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住。儒学者の亀田鵬斎、海保青陵や篆刻家の稲毛屋山、漢詩人の菊池五山、書家の巻菱湖など多くの文人墨客と交わる。この頃に結婚したと推測される。

文化3年4月(1806年)46歳の頃、大窪詩仏とともに信越に赴く。高崎から安中を抜け碓氷峠を越えて信濃入りし、信濃川を下って越後の柏崎に至る。その途次各地で画の依頼を受けて制作をしている。詩仏は引き返したが、雲泉は旅を続け三条で秋を過ごした。その後一旦、江戸に帰り、妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽くす。この間越後の各地を遍歴し石川侃斎、上田坦山、倉石米山、倉石乾山、行田八海などの門弟を育てている。

文化5年(1808年)には燕の素封家の神保家に滞在し画作している。

参考作品
戊辰秋山水図 六曲屏風 釧雲泉筆
十日町市博物館所蔵



上記作品には「戊辰秋九月重陽後三日作…」と賛があります。戊辰は文化5年(1808)にあたりますから、没する3年前の作と推定されます。

文化8年(1811年)5月には、亀田鵬斎とともに中条の岡田家、吉田の酒井家に逗留し画を描いている。同年、越後出雲崎に遊び、中江杜徴と邂逅。杜徴から「画は敬服するが、もう少し書を研究するように」と諭された。浄邦寺住職菅泰峨は雲泉を大いに歓迎して画の弟子となるが、同年11月に蕎麦屋「けんどん屋」にて酒を飲むうち急死する。享年53歳。泰峨により浄邦寺に埋葬される。海野蠖斎の依頼を受けて亀田鵬斎が碑銘し「雲泉山人墓銘」として刻されている。

雲泉は旅と孤独を愛し、超俗の画人として生涯を送った。几帳面である反面、はなはだ気難しく、俗物を嫌い気に入らない人物とは口も利かず、筆や杯を投げて帰らせることもたびたびあった。また冥利のためには描かなかったという。常に自分は画家ではなく文人であると称していたという。酒を好み、煎茶を嗜んだ。釣りが好きで旅の途中いつも釣り竿を持ち歩いていた。異常なほど潔癖症で料理や洗濯は自ら行わないと気が済まなかったと伝えられる。

雲泉は中国南宗画を志向し続けた。山水画に名品が多く、比較的若描きのものに評価が高い。晩年の作は妙な重苦しさがあると評される。中国の画家 董源や倪雲林、張秋谷らの影響がみられ、気韻生動、筆墨淡雅で、超俗の趣を持つ。「居民に雲仙あるを説けども、邑に雲泉あるを知らず」と雲泉を敬慕した田能村竹田はその著『屠赤瑣瑣録』で嘆いている。
金井烏洲『無声詩話』や森島長志『槃礴脞話』の「雲泉画譚」に雲泉の作が高く評価されている。慶応2年(1866年)刊の『南宗書画品価録』には池大雅に次ぐ一点3両の高額で売買されていたことが記されている。

********************************************

本作品の賛には「壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)秋七月冩於江山出堂 雲泉瓚人就写 押印(「雲泉之印」朱文白方印)」とあり、1802年(享和2年)、釧雲泉が42歳の作品としています。

「享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住。」頃の作と推察されます。他の所蔵作品「壬戌江山水図」と同時期の作品で三の書体は近似しています。また「瓚?人」は「倪 瓚(げい さん、1301年 - 1374年)」を「壬戌江山水図」の作品と同じく意図しているかもしれません。「倪 瓚」は元末の画家。元末四大家の一人に挙げられます。字は元鎮、号は雲林、他に別号が多い。

*上記に記されてる他の所蔵作品「壬戌江山水図」は、同時期に描かれた作品として本ブログで投稿されている「壬戌江山水図 釧雲泉筆 享和2年(1802年)秋」という作品のことですが、こちらは真作と判断しています。

壬戌江山水図 釧雲泉筆 享和2年(1802年)秋
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1440*横977 画サイズ:縦573*横847



この作品と本作品との賛の比較が下記の写真です。左が本作品、右が「壬戌江山水図」です。この書体はよく似せていますね。

 

「享和元年(1801年)、蒹葭堂を訪ねる。その後京都に赴き、享和2年(1802年)には江戸に下向し湯島天神の裏門付近に居住。儒学者の亀田鵬斎、海保青陵や篆刻家の稲毛屋山、漢詩人の菊池五山、書家の巻菱湖など多くの文人墨客と交わる。この頃に結婚したと推測される。」という来歴に記されている頃の作です。



また「雲泉は中国南宗画を志向し続けた。山水画に名品が多く、比較的若描きのものに評価が高い。晩年の作は妙な重苦しさがあると評される。中国の画家 董源や倪雲林、張秋谷らの影響がみられ、気韻生動、筆墨淡雅で、超俗の趣を持つ。「居民に雲仙あるを説けども、邑に雲泉あるを知らず」と雲泉を敬慕した田能村竹田はその著『屠赤瑣瑣録』で嘆いている。」という上記説明部分にも該当します。

両作品ともに賛からは中国の画家「倪 瓚」の影響が見られると思われますが、「倪 瓚」の来歴は下記のとおりです。

**********************************************

倪 瓚(倪雲林):倪 瓚(げい さん、1301年 - 1374年)。無錫(現在の江蘇省)の富裕な資産家の家庭で生まれ、仕官することはなかった。 1350年ごろから元朝政府の重税化の影響で、地方官憲と税問題でトラブルになり、投獄されたりした。 紅巾の乱などの内乱の影響もあり、至正12年(1352年)52歳ころ家財を整理して妻の蒋寂照ら家族とともに故郷を離れた。元末明初の混乱期を20年もの流寓の生活を送り、74歳で無錫に帰り、親戚の鄒氏の家で没した。 潔癖症で多くの逸事奇行を伝えている。

参考作品:「幽礀寒松図」倪 瓚筆 故宮博物院(北京 )



山水画は、はじめ精細な着色山水も描いたと伝えるが、のちに「蕭散体」といわれる極度に画面の単純化をおしすすめた平遠山水を独自の様式として確立した。作品の真贋問題については、指導的な権威の間でも意見が大きく分かれている。 「容膝斎図」だけを真蹟だとする意見さえあるが、ケーヒルは「12、3点から15点、さらに墨竹の小品を含めてさらに2、3点を現存作品の妥当な数と考えている」。

*********************************************

釧雲泉の作品は寛政年間、享和年間、文化年間に分類されますが、寛政年間を若書き、文化年間を晩年とすると、享和年間はその移行期にあたります。



晩年の作は妙な重苦しさがあると評されていますが、中国の画家 の影響がどう反映したかは推測するしかありません。



本作品を贋作と断定した根拠は、まず筆致が単調で稚拙なことでしょう。また享和の頃の作品は上述のように移行期の作品ですが、本作品は晩年の作を模写したような雰囲気という点も合点がいきませんね。よく似た賛の書体落款に騙された感があります。



釧雲泉の作品には常に真贋、模写の疑念が論じられますが、また騙された・・・・ 勉強代金5000円ほど・・、安物買いの銭失い、こういうこともあるさ・・・。南画の真贋は難しい・・。負け惜しみではないが鬼滅の刃では柱も鬼にやられることもある。骨董にも鬼という贋作づくりの輩が多い。

この作品は早々に処分・・・・





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。