ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

言の葉(古山洋右):感謝としての礼拝。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

2021年05月31日 00時02分31秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
    礼拝が単なるお勤めや
    単なる習慣的な一つの儀式に終わって
    しまうかあるいは本当に神様に対する
    感謝の発露となって、溢れるばかりの
    感謝として神にささげられていくか
    そこに決定的な違いがあると思うのです。

      (「賛美から宣教へ」古山洋右著 いのちのことば社 )

   ☆★☆★   ☆★☆★   ☆★☆★   ☆★☆★

 あなたは心の奥底から全身全霊をもって誰かに感謝したことがあるだろうか?
 「えっ? 最近、なんだかあんまりそんな気持ちになったこと、ないなあ」というのなら大変危険な状態である。何が危険か?
 それはあなたが「人間」でもなく「動物」でもなくなりかけているということだ。キリスト教徒であろうと、○×教徒であろうと、人間としてあるいは動物として「心」がなくなりかけているということだ。よくよく注意していただくことをお勧めする。これは無神論者の方ももちろんフツーのクリスチャンのわたしが特に警告してやまないことである。
 夫であるあなたは妻の一言一言に「感謝の心」を持っているだろうか?
 「う~ん、あんまりそんな当たり前のこと考えたことないなあ」などというあなたは大変に危険な状態だと思う。「当たり前のこと」に全身全霊をもって感謝することができるのが「人間」であり「動物」である。フツーのクリスチャンのわたしたちの信仰では神に創造された「人間」であり、「動物」である。
 「感謝の心」を捨て去ったり忘れ去ったりするのは「人間」でも「動物」でもないまことにヘンチクリンなモノとなってしまう。よくよく注意をされたい。

   ☆★☆★   ☆★☆★   ☆★☆★   ☆★☆★
          

   




     ↓:感謝。
     
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へにほんブログ村





この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  水 (コップ一杯の):主イ... | トップ | 永遠のとき。主イエス・キリ... »
最新の画像もっと見る

少女ジーザスの言の葉ランド」カテゴリの最新記事