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日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

「マネーワールド〜資本主義の未来〜」について、先ずは日本の経済の歴史の話をしましょう。後編

2016年10月17日 15時04分22秒 | 経団連の黙示録

本編より先に虫獄の陰謀の現実を2:02:54に渡って説明されているビデオですYoutubeにあります。是非ご覧下さい。今のアジアでの華僑の悪行が述べられています。

河添恵子さん「マスメディアが報じない中国の真実」正論を聞く集い2016 03 15

https://www.youtube.com/watch?v=z9RqGwUNRWA

では、私のしょぼい後編を

銭匁(せんめ)勘定まで行きましたか?これは完全に大阪商人が馬鹿である証拠です。何故か?

例えば儲ける商売で大阪では両替商でした。何故でしょうか?それは江戸との取引は必ず「小判」で決めたものでした。

何故なら、江戸の定めた正価は価値の変動する両であり、銀の重さで図る匁は使えなかったのです。

「しかし匁なら、銀の地金だから勝ちは変わらへんのや!」と言う妙な馬鹿の利口でせっせと3分から5分の手間をとられて、両を銀の匁数に変える「証文」を作ったのです。

だから両替商は、ほぼ単純な算数と、証文を書く筆と紙があれば、あっという間に利益を上げたのです。

泉光院坊の旅日記では、1貫の銀の棒を二本持っていて、金が足らなくなると、質屋に預け、そして托鉢して返すという事をしていたので、銀の秤量流通は1790年台にはまだ残っていたようですが、実際、匁に変えた銀の証文は、近畿では額面がそれで通用しますが、江戸で使うには、また両に買えねばなりません。

この銀ですが、例えば銀1匁とか3分とかの銀貨は確かに存在しており、大体100文を超える場合に使う金としても流通していましたが、基本的に幕府は銀座を通して吸い上げていました。

秀吉の時代、小判はほぼ純金でしたが、江戸時代末期になると、10%切っていたとの事です。

残りは?

銀です。

この江戸時代末期の小判の射込み技術は相当なもので、メッキに近いものが有りました。90%の銀に10%の金を纏わせ、また黄色の塗料で「化粧」して出しました。

何故、その様な事をするのか?

それは社会が必要としているからです。また大体1両から1銖までの価格は1両=4分=16銖の固定相場でしたが、この下は違います。1銖と文銭の価格は変動相場制でした。

大体江戸開闢当時、1両=4000文であり、純金に近いものでした。それが最終的には8000文近くになります。

所が江戸中期から後半になるに従い、この相場は急上昇します。

何故でしょう?

よく慶応のゴキブリなんぞが経済をまともに知りもしないくせに「田沼意次の居た時代は経済的には活発だった」とホザクのだが、この田沼意次の姿絵を見ると「世の中をなめたガキ」そのものです。

実際、こいつは、商人が冥加金として幕府に上納する金額に対して利益が多すぎると考えて金を吸い上げようとしたのですが、それが「賄賂」の形態を取り、それで全てを破壊しました。

田沼意次は、実に簡単な、武士と言えないチョンや虫獄の様な銭の亡者でした。

結局、飢饉が起きた時に対処が出来ず、その無能ぶりからお側用人を罷免されました。

問題は、その頃に大きな問題を残したのです。

10組問屋や24組問屋は田沼の頃に絶対的な資格となり、金持ちを優遇しまくった結果でした。

この頃1両は5000文から6000文の間でした。

180年で、そんなものですが、70年で2000文も上がります。

この頃から、日本国内の物品が商人どもによって値が釣り上げられます。

例えば蕎麦が最たるもので、寛文年間に二八蕎麦(八文銭で二枚=十六文)が、十八、二十四、そして直ぐに三十二文に倍増しました。

それまで庶民の生活を大事にして値上げをするなと言う幕閣が減り、結局大塩平八郎が乱を起こすまでになります。

これによって、庶民は尊敬していた武家を「屑、下郎」と同じに扱うようになりました。

更には、打ち壊しが頻発し、暴動が増える一方で、緒方拳主演の「ええじゃないか」の中に出てくる「ええじゃないか講」で、刹那的に生活する人間が増えたのです。

その一方で、商人の持つ「証文の上の金」は膨大に増えました。

実は、ペリー来航を突然の恐ろしい事とホザクがっこうの低能のせんせぇ?は言わないのですが、日本は、盤石な体制とは言えなくなっていたのです。

外圧よりも、賄賂でラリっている幕府が、話にならず、賄賂を取るような奴は仕事も出来ず誇りもない。

だから毅然とした態度を採らないのです。

まさにチョン並。

安政の大獄の井伊直弼を悪の権化とホザク馬鹿が居ますが、条約の件はダメだが、彼は領地で、国富を庶民に開放して、豊かにした名君でした。

それ故に「確固たる態度」をとれた数少ない幕閣だったのです。

この状態を考えると、庶民の生活が圧迫され、それは主に都会の民でした。

また、この時代を多分森永拓郎は分かっていないだろうから、ついでに説明すると。

江戸時代を通して、日本は一貫して砂糖の消費量が莫大に増えました。

最初は長崎のシュガーロードがメインでしたが、その分金銀銅が無くなるのです。

だから政府は、なるべく現金買いを控え、証文を使うようにと言い、また実際、両替商をなるべく使わないよう庶民も掛取りで売買しました。

それでも足りないので、銀を90%にして小判を増やしました。それでも足らない。

実は、この時期、江戸はスタッグフレーションに近い状態だったのでは?と思われます。

さて、その砂糖への欲求は倒幕しても変わらなかったのですが、実は砂糖の入り口を止めようとしていたのですが、別の流通ルートが開いたのです。

何処でしょう?

それは薩摩です。吉宗は増える砂糖の需要を国産で賄うために、四国に耕作させましたが、あまり大した量ではありませんでした。

薩摩は種子島屋久島などでサトウキビを大量に生産した為に、実は隠れたシュガーロードだったのです。

ですが、それでも足りない。

実は、薩摩は幕府に隠れて砂糖を輸入していたのだと思います。

幕末で色々やった時に資金がついてきたのは薩摩がダントツでNo1でした。

それは抜荷でしたが珍品がメインだった昔と違い、砂糖がメインだったのです。

砂糖は風邪薬の扱いで薬種問屋が扱いますが、普通の薬種問屋でも儲けの30%は、砂糖が簡単に叩き出し、3軒程の薬種問屋は「砂糖商」と看板を掲げるぐらいです。

当然割り当ても賄賂でやれるだろうし、何より薩摩が商人に対して大きな影響力を持っていたはずです。

この様に、江戸の幕末の経済は、今とは形が違う混乱状態を起こしていました。

ただ、ボロ儲けする商人とモノが買えなくなる庶民の構造が起きて、金は主に商人の間や賄賂を受ける役人の間だけが活発で、その一方で通貨供給が出来ず債権が貯まる一方でした。

この構図は「マネーワールド〜資本主義の未来〜」の冒頭に述べた状態とどう異なるでしょうか?

また「日教組のクソバカのパヨクのがっこうのせんせぇ」は何かほざいたか?連中は一番大事なことは言わないんだよ。

ところで笑えないのが一番の問題の糞馬鹿?

私の知識はこんなものではない。

 



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