お世話になっている叔母から2日の夜に電話があり、実家の隣の庄一さんが亡くなったと告げられた。
叔母さんは、
「5日が通夜、6日告別式、どうする香典持って行っておこうか?」と探り探りの言い方で、無理して弔問に来るような事になると大変だろうと気を遣ってくれていた。
一美さん夫婦が先月の中旬に新米とぶどうを持って今年も見舞ってくれたのだが、その時に御祖父ちゃん、お祖母ちゃんは元気ですかと聞いたが、いつもなら近況などを話してくれるのだがその時は言葉を濁していた。
亡くなってもわざわざ連絡を戴かなかった。。
だから、いきなり顔を出したら驚いていた。
こちらは玄関で挨拶するとこみ上げて来た。寝顔を見たら痩せていて、36㌔まで減っていたそうだ。 もう少し早くに会えていたらとも思ったが、焼き場に行く前に会えて良かった。 タイミングが合って良かったのでしょう。
働き者で不平や不満などは言わずにいつも元気に仕事をしていた昭和の日本人を地で行くような人だった。 明るくて笑顔で、マイペースで面白い人だった。 全力疾走で人生を駆け抜けて、全うした人でした。
いつかは来るので仕方が無い事でした。
物心付いた時には既に自然に家に居た人だった。 幼少時から色々とお世話になって、絶対に裏切らない人、いつでも家の為に一生懸命に何でもやってくれる人、家族以上の信頼関係の人。
病気で仕事を辞めて接する機会が増えた事。 東日本震災、一年後の竜巻被害と度重なる災難の後片付けで一緒に過ごす時間が増えて子供の付き合いから、大人の付き合いが出来てまた絆が深くなるという不思議な縁もあった。
入院中に生き返って来て最初に病室で会ったのが、実家のお隣さん一家。
4人で来てくれて、庄一さんとキンさんが先に入って来て、「いても立ってもいられ無くてまだ会えるか解らなかったけど来ちゃったよ。。」と言われた時は感情が溢れ出して崩れた。
今回はこちらが居ても立ってもいられないという感じだった。思い出しては涙し、車を走らせて焼香に向かって行った。
ご家族も大変な悲しみにあるようだった、3日も過ぎていたが、皆さんお葬式の雰囲気でした。
キンおばちゃんも喜んでくれて、奥から床を這うように出てきてくれて話が出来た。
もう92歳で老衰といってもいいのでしょうが、、何度も何度も盛り返して物凄い生命力だと医師がびっくりしていたそうです。
心臓も血管も悪くて、苦しくても誰にも弱音ははかないのに、一晩にニトロを3回も飲んでいた事もあったそう。 翌日体調が悪くて病院へ行ったら薬が減っていて気が付いたそうです。
ニトロを3回も飲むほど、、よっぽど苦しかったのでしょう。それでも耐えて。。
トイレも自分で行き、風呂も多少の介護はしたみたいでしたが、自分で入ろうと最後までしていたそうです。
庄一さんが退職記念に貰って植樹した、しだれ桜が季節はずれに咲いたそうです。
井草のいいにおいがしてましたが、畳替えをお願いしていたのが混んでいて中々取り掛かれなかったのが、仕上がったその日に無くなったそうです。
新しい畳の上でゆっくり眠られていました。
9月にご家族に来ていただいて、私が元気になったと伝えたらよかったよかったと喜んでくれていたそうです。 本当にありがたい事でした。
もう直ぐお通夜が始まる。