唯のブログ。

病気の体験、療養生活や日々思いついた事などを書き留めているブログ。時々毒吐き。楽しめれば最高、無理なら受け流す。

今生きているのは、叔父さんのおかげ

2009-08-17 17:48:02 | インポート
 祖父の次に、真岡市の叔父の3回目のお盆へ行ってきた。

   碩徳院正岳誠心夫雲大居士

一昨年の1月、65歳で亡くなった。 散々面倒を見て貰っていたのに、 自分の病気が治りかけてきた頃、逝ってしまわれた。 何の恩返しも出来ないままに。
  会社を数社経営し地元の名士だった。 経営が上手で、人望が厚かった。  周りの人に優しかった。  パワフルだった。
40歳の時には、市長選に押されたがパーティーを開いて皆に飲み食いさせてしまい無理やり断っていた。

幼い頃は、親戚の行事ごとがあると、自分たち甥っ子を集めて、一緒にかけっこなどで勝負して遊んでくれた。 

20代の頃、従兄弟連中でスキーに行ったときは、朝の6時ごろ従兄弟を送って来てくれこずかいをくれた。 叔父さん自ら。

 自分の祖母の葬儀の時は、実家で準備を手伝ってくれたが、その時の仕切り方、物事の進め方は衝撃的で本当に勉強になった。 
 幼い頃から、お世話になり、楽しい思い出をたくさん貰った人だった。
  
 亡くなったときは、知事や、議員、市長など、それはそれは、そうそうたる弔問客が訪れていた。

 しかし、もっと印象的だったのは、親族や、従業員、知人など実に多くの人が心から涙を流している事だった。  自分は、特に世話になったと思っていたが、自分と同じ様に世話になった人がたくさんいるのだと気がついた。 どれほど多くの愛情をまわりに与えていたのかと改めて知った。  

最後まで自分の病気の事より、甥の私の事を心配してくれていた。
 
 病気で退社した事を知って激励の電話をくれた時の事は、今でも鮮明だ。 本当に自分を心配してくれた。 そして励ましてくれ、安心させてくれた。

その後も、亡くなるまで何年も何年もずっと変わらず、経済的、精神的に支援を頂いた。 湯治旅館に一緒に泊まってくれ、会計代と言って大金を置いていってくれた。 もちろん会計などすでに済んでいる、自分の分も。 
 
 年末、年始は、一人で寂しい思いをしないように必ず旅館に誘ってくれた。  病気が治ってからの事も、支えるから心配ないと、終始一貫して自分の不安を取り除いてくれ、心配してくれた。

  自分は、どれほど感謝しても感謝しきれない。 たくさんの恩を受けた人である。 今の命、健康、人生は叔父に頂いたものだ。
  

 
 


流れの中で。

2009-08-17 10:58:42 | インポート
 途中のパンクは、意味があった様だ。

祖父のお盆に自分がよった時は父が帰って直ぐだっだ。パンクがなければ会っていた。 今回も合わないようになっていたようだ。

見えない力でも働いているかのようにここ何年かは図ったように行き違いになる。実家に帰った時は、遠くから父の車が出て行ったのが見えたり。
親戚に行った時も同じことが。  何度も続いている。

自分に甘く他人に厳しい父とは、もう何十年もまともに話をしていない。 
子供の頃から事あるごとに怒鳴りつけ、殴られ、親の価値観を押し付けられてきた。 自分はろくな努力もせず、引き継いだ財産で食べているようなものなのだが、子供に対する要求は高く、気に入らないと制裁を受けていた。

何の努力もせずに生きてきたのだと思う。 そしてそれを自覚しているから、必要以上に親の威厳を出そうとしているのだと思う。

もう一つは、幼児性。 自分の感情が押さえられないのだ。 気に入らないと怒鳴ってしまう。 殴ってしまう。 そして嫉妬。 自分以外が認められることが不愉快なようだ。それが自分の子供でも。 
 酔っ払うと自分が押さえられなくなり、豹変する。 自慢話。 お金のばら撒き(後日、母が回収する)。 暴力。 わいせつな言葉の会話。
子供ながらに聞くに堪えなかった。    

子供の頃は怖くて一言も口答えなど出来なかった。 
しかし段々と親の底の浅さが見え始め、呪縛からとかれるように会話するようになった。

話せばますます嫌なところが見えてきて、全く合いいれない関係になってしまった。

 会社を辞めることに反対され、10年説得する努力を続けたが全く理解されず、仕方なく了承無しに退職した時に険悪な関係が決定的になった。

その後何度か関係修正を試みる努力をしたが、もう自分に出来る努力はないと感じた。 唯一あるとすれば、自分が全てを我慢すること。 病気の悪化を受け入れて。

多分、父は嫌われる理由を理解してない。 田舎の彼の周りに意見する人はいない。 自分の異常さに気ずかないようになってしまったのだろう。  親戚や、近所の方からは、逆に自分が父のことで責められたりするのだからまちがいない。

 数年前、深夜、父危篤の知らせを貰ったが何とも感じなかった。 家族からの連絡は5.6年ぶりだたが、心は揺れなかった。
 もう終わっているのだろう。