祖父の次に、真岡市の叔父の3回目のお盆へ行ってきた。
碩徳院正岳誠心夫雲大居士
一昨年の1月、65歳で亡くなった。 散々面倒を見て貰っていたのに、 自分の病気が治りかけてきた頃、逝ってしまわれた。 何の恩返しも出来ないままに。
会社を数社経営し地元の名士だった。 経営が上手で、人望が厚かった。 周りの人に優しかった。 パワフルだった。
40歳の時には、市長選に押されたがパーティーを開いて皆に飲み食いさせてしまい無理やり断っていた。
幼い頃は、親戚の行事ごとがあると、自分たち甥っ子を集めて、一緒にかけっこなどで勝負して遊んでくれた。
20代の頃、従兄弟連中でスキーに行ったときは、朝の6時ごろ従兄弟を送って来てくれこずかいをくれた。 叔父さん自ら。
自分の祖母の葬儀の時は、実家で準備を手伝ってくれたが、その時の仕切り方、物事の進め方は衝撃的で本当に勉強になった。
幼い頃から、お世話になり、楽しい思い出をたくさん貰った人だった。
亡くなったときは、知事や、議員、市長など、それはそれは、そうそうたる弔問客が訪れていた。
しかし、もっと印象的だったのは、親族や、従業員、知人など実に多くの人が心から涙を流している事だった。 自分は、特に世話になったと思っていたが、自分と同じ様に世話になった人がたくさんいるのだと気がついた。 どれほど多くの愛情をまわりに与えていたのかと改めて知った。
最後まで自分の病気の事より、甥の私の事を心配してくれていた。
病気で退社した事を知って激励の電話をくれた時の事は、今でも鮮明だ。 本当に自分を心配してくれた。 そして励ましてくれ、安心させてくれた。
その後も、亡くなるまで何年も何年もずっと変わらず、経済的、精神的に支援を頂いた。 湯治旅館に一緒に泊まってくれ、会計代と言って大金を置いていってくれた。 もちろん会計などすでに済んでいる、自分の分も。
年末、年始は、一人で寂しい思いをしないように必ず旅館に誘ってくれた。 病気が治ってからの事も、支えるから心配ないと、終始一貫して自分の不安を取り除いてくれ、心配してくれた。
自分は、どれほど感謝しても感謝しきれない。 たくさんの恩を受けた人である。 今の命、健康、人生は叔父に頂いたものだ。
碩徳院正岳誠心夫雲大居士
一昨年の1月、65歳で亡くなった。 散々面倒を見て貰っていたのに、 自分の病気が治りかけてきた頃、逝ってしまわれた。 何の恩返しも出来ないままに。
会社を数社経営し地元の名士だった。 経営が上手で、人望が厚かった。 周りの人に優しかった。 パワフルだった。
40歳の時には、市長選に押されたがパーティーを開いて皆に飲み食いさせてしまい無理やり断っていた。
幼い頃は、親戚の行事ごとがあると、自分たち甥っ子を集めて、一緒にかけっこなどで勝負して遊んでくれた。
20代の頃、従兄弟連中でスキーに行ったときは、朝の6時ごろ従兄弟を送って来てくれこずかいをくれた。 叔父さん自ら。
自分の祖母の葬儀の時は、実家で準備を手伝ってくれたが、その時の仕切り方、物事の進め方は衝撃的で本当に勉強になった。
幼い頃から、お世話になり、楽しい思い出をたくさん貰った人だった。
亡くなったときは、知事や、議員、市長など、それはそれは、そうそうたる弔問客が訪れていた。
しかし、もっと印象的だったのは、親族や、従業員、知人など実に多くの人が心から涙を流している事だった。 自分は、特に世話になったと思っていたが、自分と同じ様に世話になった人がたくさんいるのだと気がついた。 どれほど多くの愛情をまわりに与えていたのかと改めて知った。
最後まで自分の病気の事より、甥の私の事を心配してくれていた。
病気で退社した事を知って激励の電話をくれた時の事は、今でも鮮明だ。 本当に自分を心配してくれた。 そして励ましてくれ、安心させてくれた。
その後も、亡くなるまで何年も何年もずっと変わらず、経済的、精神的に支援を頂いた。 湯治旅館に一緒に泊まってくれ、会計代と言って大金を置いていってくれた。 もちろん会計などすでに済んでいる、自分の分も。
年末、年始は、一人で寂しい思いをしないように必ず旅館に誘ってくれた。 病気が治ってからの事も、支えるから心配ないと、終始一貫して自分の不安を取り除いてくれ、心配してくれた。
自分は、どれほど感謝しても感謝しきれない。 たくさんの恩を受けた人である。 今の命、健康、人生は叔父に頂いたものだ。