origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

老舎『駱駝祥子』(岩波文庫)

2008-03-07 18:15:17 | Weblog
老舎の『駱駝祥子』という小説を読んでいる。著者は20世紀を代表する中国の小説家。ノーベル文学賞の候補でもあったらしい。
主人公の祥子は北京で人力車夫として働く実直な青年であった。彼は自分の車を手に入れるために来る日も来る日も貧しさに耐えながら働いていた。彼はあるとき、自分の生活の面倒を見てくれる一人の人物と出会う。それが曹先生である。曹先生は教師などをして暮らす平凡な人物であるが、祥子は曹先生をそこら辺の教授や役人よりもより賢い人間だと見なす。
なぜ曹先生にはどこか隠者の面影があると私は思う。目立つことを好まず静かに書を読み、ものを考える生活を送る。そして主人公祥子は曹先生を、教授や役人以上に偉い人物だと考えるわけだ。この祥子の気持ちは少しわかる気がする。大変な知識と業績を持っている者以上に、静かに暮らす隠者的な賢人は魅力的である。

Aiasさん

2008-03-07 18:06:25 | Weblog
拙エントリに触れていただきありがとうございます。文章は私の拙文よりもAiasさんの方がよくまとまっていて良いと思います。
ってか「教養と社会人」という問題を考えると難しいですよね。文学的・哲学的・歴史的な教養というのは、現代社会においてはそれほど必要とされない。運良く大学教師や進学校の教師にでもなれれば別だけれども、企業や役所であれば、ウェストファリア条約やドストエフスキーなんて知らなくても全然生きていける。

↓が昔書いた文章。杜甫の詩を例に出しましたが、個人的には李白の方が好きです。
電車の中でこのようなことを考えていた。
最近の学生はものを知らない、という言い方がなされるときがある。このとき、ものというのは具体的に何を指しているのであろうか。
たとえば、東大生について。昔の東大生は漢文についてもよく知っていた、政治や哲学に詳しかった、半端ではない読書量があったなどといわれ、戦前の東大生はよく神格化される。それに比べて今の東大生は云々、というわけだ。
しかし今の学生に対して、漢文を知らない、読書量も大したことない、などと言うのは簡単だが、単に知識に関して言うならば、昔の学生が知らないようなことを今の学生は知っている。芸能人のこと、大衆音楽のこと、マンガ・アニメの知識、携帯・パソコンの使い方、などなど。昔も今も知識の総量自体はそれほど変わってはいないのではないか。
もし今の学生を批判するならば上のような知識よりも、漢文や古典に関する教養の方が重要性があることを論じなければならない。それは決して簡単なことではない。たとえば現代において社会人として生きるとき、李白や杜甫の詩をくちずさめることが何の役に立つだろうか。杜甫の「玉華宮」(素晴らしい作品だが)の話を同僚と共有することができるだろうか。それよりも、まだ芸能人や流行歌、プロ野球のことを知っていた方が、少なくとも友達づくりには役に立つだろう。パソコンのエクセルやパワーポイントを知っていれば、仕事の役にも立つだろう。
「もの」を知らない学生を批判するのはたやすい。しかし、なぜかつてのような教養を若者が失ってしまったのか、その意味をまず始めに考えなければならない。