2016年 4月 4日
道すなわち真理を統べる神聖な伝承が天命によって奉じられてきました。この天命は5000年間、青・赤・白の三期の時期の変革を経てきました。青の時代、伏義氏から始まって周公までの期間を「道は帝王にある時代」といい、赤の時代、老子から劉祖までの間を「道は聖人ある時代」と称し、いずれも天が遣わした特定の聖人のみに玄妙不可思議な真理を授けることが許されました。そしてこの度、時代が変わって白の時代となり「道は火宅に伝わる」といい、苦悩に満ちた世界、つまり今までの天命は出家した僧職であったものが、白の時代から普通の家に住む人(一般人の中に転生してきている)に下命されました。
天命がこのように変わったのは日本の鎌倉時代のころ、以来、この「火宅に天命がある」道が熟成して宇宙と地球表面とそして地底の三層を救済する天命を担った「師」がこの世紀の一大事を大々的に布告したのは1930年でした。おりしも民主主義の理想を掲げた国家アメリカ合衆国で、この国を乗っ取るために闇が大恐慌が起こしたころです。シェルダン・ナイドルニュースで最近伝えられている宇宙の神々が人類のために同行する「師」とは、このことであり、聖書のマタイ3:1-12: 「私はお前たちに、回心に向け、水によって洗礼を施している。しかし私の後から来たるべき者は私よりも強い。私はその者の皮ぞうりを脱がす値打ちすらもない。彼こそ、お前たちに聖霊と火とによって洗礼を施すであろう。・・・」という「私の後から来るべき者」「聖霊と火によって洗礼を施す者」がこの「師」にあたります。
老水還潮《これより天命が再び中国に戻る》と言いますが、インドから東に道《真理》を伝承した達磨大師より18代目、師による厳粛な運びが、今年これからの新たな道を見極める大切な指針になります。
1940年12月1日(昭和15年)に降ろされた 《性理題釋》 全八十八篇を順次ご案内いたします。
ー濟公活佛《師》の自序ー
道は理であります。理を知らなくて、どうして道を修行できましょう。故に道を修行しょうする者は、まづ先にこの理を理解せねばなりません。理を理解するには、疑問があればその都度質問して、明白に了解できるまで究めることが必要です。惜しむべきは、世人はとかく人に物事の理を尋ねるのを恥じることです。それ故、疑問が重なって遂に迷路に陥入り、迷ってしまったことすら自覚しないばかりか、又、それ故にますます道から遠ざかってしまいます。大道がこの世に降り、普く世人を済度する道が拓かれて以来、道を得た原仏子《以前に天から降って人間になった者を佛子、又原子とも呼ぶ》は少なく、その道理をよく究めて道を修行する者は暁の星のように少ない。どういうわけでしょうか? それはすべて疑問があっても質問せず、又質問しても理解し得ない故であります。
このような状況に鑑み、平常よくうける疑問を例題として解答を与えました。その解答に当って、なるべく簡潔明瞭に解釈する様に努め平易な言葉を使用しました。この書に記載した数十の例題は完璧とは言えなくとも、あらかた理路は整っていて、修道を志す士の参考とするに足るものです。師の本望とする所は、修道を志す者がこの書を読んで真理を徹底的に理解し得るのみならず、更に進んで修行の指南となし得ることです。又、道を求める者にはこの書の精読が、疑問を解き道理を理解し進んで道を求めて入門の助力となり得ることです。世の人がこの書の説く如く実行すると、たとえ最高の天位に到達し得なくても過去の世代に積重なった罪障を消滅し得て相携えて、この世の苦海を離脱して悟への路に登ることができます。これが師の深く望むところである。
四、道の宗旨
大道の宗旨は、天地神明を敬い、国を愛して仕事に忠実であり、敬を敦(あつ)くし礼を崇(たっと)び、父母には孝行をして、師尊を尊重して、朋友を信じ、郷隣と睦まじく和して、悪を改め善に向かわしめ、五倫(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友)・八徳(孝・悌・忠・信・礼・儀・廉・恥)を説いて明らかにし、五教聖人の奥妙な宗旨を世に表わし、四維(礼義廉恥)や三綱(君為臣綱・父為子綱・夫為婦綱) 五常(仁・義・礼・智・信)の古礼に遵い、心を洗い思慮を浄め、仮体を借りて真理を修めて、本性の自然即ち真面目を恢復(恢復)せしめ、良知良能(全智全能)の至善を生ぜしめるのであります。
己が立って人を立たせ、先ず己が達して人を達せしめ、人心を教化して善良にし、太平の世を齎(もたら)して大同世界を冀(こいねが)う行いが、この道の唯一の宗旨であります。この道には何の背景もなく、種々な工作を組織もないばかりでなく、良くない思想をもつことも許されません。そこで社会においては一切の摩擦もありません。非常に淡白で水晶のような光明な大道であります。
孔子様は『教え有り類無し』と申され、又『異端を攻めるは斯く害あるのみ』とも申して“色々と人に道理を教えるが、外に比類するものがない”と申し、“道以外の法で人を教えることは、人に害を与えるばかりで、教化することはできない”と申され、道の尊いことを説かれました。