道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

衣食足りて礼節を知る、とは

2015-02-03 00:26:41 | 道・真理・ Deshi A

2015年2月3日

       孔子の弟子 顔回  画像

紀元前645年没の中国の政治家で管仲(かんちゅう)という政治家の実績を遺した格言に「衣食足りて礼節を知る」は「倉稟(そうりん)実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」 米倉がいっぱいになると礼節をわきまえるようになり、衣食が十分足りるようになると栄誉恥辱を知るようになるという。つまりは、生活にゆとりができさえすれば、道徳意識はおのずから高まるというものでした。

それから90年後の時代、孔子が「管仲の器量は小さい」と云いました。これを聞いた人が、「管仲は倹約家だったのですか?」と尋ねました。孔子は、「管仲は三箇所に邸宅を構えていて、使用人もそれぞれ一人一役で仕事を兼務させることがなく、贅沢な暮しをしていた。どうして倹約家などと云えようか」と申されました。

そこである人は、「では管仲は礼節を知った人だったのでしょうか?」と尋ねました。孔子は、「諸侯(大名)は門の内側に目隠し用の生垣を立てて直接内部が見えないようにしているが、管仲は大夫(家老)の身分でありながら諸侯を真似て生垣を立てている。
諸侯同士が歓談する時には、盃を乗せる高坏(たかつき)を用いるが、管仲もこれを真似て高坏(たかつき)を用いた。これがどうして礼節を知るなどと云えましょうか。管仲が礼を知っているというなら世の中で礼を知らぬ者などいないだろう」と云いました。

また、孔子は、弟子の顔回(がんかい)について、「顔回は賢い。食事はご飯一杯。飲み物は水だけで満足し、貧しい路地裏に暮らしている。普通の人なら貧しさに耐えられないだろうに、顔回は生き生きと人生を楽しんでいる。本当に顔回は賢い。」といわれました。

現実の社会で貧困という枠の生活をしている方がいます。しかし世間の生活水準と比べるでもなく、不自由な中から様々なヒントを得て自分に似合う改善をし、自然や手仕事の暖かさを知って人生観を見直したりしている方もいるはずです。

諺に「玉もみがかなければ器にならない、金も練らなければ銭に値しない」といわれますが多く、切磋琢磨してその人の志を試すため、つらい経験や収入の少ない環境に長い置かれていることについて、天意の一端をお伝えしたいと思います。

多くの方が今の時代は「生活カリキュラムをこなすため、最低の収入がなければ生きて行けない」と考えています。20年前から比べるとかなり生活しづらくなっています。支出をおさえる情報はネットや友人から得られますが、情報を得る方法のない高齢者は、光熱費や食費を切りつめます。今までの社会の矛盾点や思い込み(洗脳されていた面)が少しずつ分かってくるという面もありますが、お昼は00円以内にするとか、三食を二食にするとかしている内に自分で決めた枠に慣れています。今までも何度かこういう生活の変化がありましたが、三食しっかりとおいしいものを食べる、酒やタバコ、競馬やパチンコなど好きなようにするという方もいます。

管仲は、政治が民の衣・食を足りるようにすれば、民は「礼」を重んじるという、いかにももっともらしいことを遺しましたが、王朝時代、封建制を維持し、聖人君子を真似た王朝と共に、公職にあったものは民に奉仕する者として、その後2千年以上の今日まで国法や教育・医療・福祉の原則のように謳われています。

中産階級と言われる(公務員や大企業の社員が基準)生活を維持している現在の収税モデルは「愉快な消費者」と言われ、笑っている者を笑っているような生き方です。絶壁で下を見ないようにつり橋を渡りながら、もっと豊かな世界がこの橋の向こうあるように欲望のスパイラルに巻き込まれお金に執着することになります。

顔回について、孔子が云ったのは、このような為政者や民の無知を諌め、真実の生き方を示すためでした。顔回が道を楽しんだのは道を得ていたからで、又顔回の生き方だからこそ道を得ることが出来ました。

論語に「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。」と言う故事がありますが、まさに朝に「道」を得ることが出来ればその晩に死んでも満足である、「可」と言うのはもしそうできればと言う、普通はあり得ない期待を込めたい思いを表しています。まさに天の機密を留めた一節です。

顔回は、この真意を極めていますので、一日一食とお茶も飲まず水で過ごしました。後の世に為政者と儒教者が顔回を聖人とあがめましたが、道を得た超生了死の境地を知る由もありません。 「顔回は30歳でなくなったが貧しさに耐えた」と民に貧しさを強いたり、「素飯だから早死にした」など、ことは下世話になりました。もとより深遠な道は誰にも観ることも触ることも出来るはずがありませんでした。

顔回の生活は、理にかなっていました。当時の民衆は一日二食が普通でした。一日一食の素飯と水で、酒やお茶など一切を摂らない徹底した生き方を体現することが顔回の天命で、その存在は生死の境を越えていました。

今の生活環境では実践し難いがたいように思いますが、顔回の生き方から大切なことを学び目標に近づくことが出来ます。私達の一日の生活は時間に追われています。もっと自由な時間をつくらなければならないと感じていますが、その意識行動には、朝は何時に何を食べよう、昼には何を、おやつは何を、買い物は、夕食のメニューは、体にいいものはなど食一つをとっても様々な思いが派生し追いかけてきます。 

まもなく旅が始まります。旅は人類の基本行動で生活そのものです。新しい世界で真のミサイヤを待っている人々は70億人もいます。 それぞれがそれぞれの役割を果たそうとして時の訪れを待っています。

生涯をかけた旅はこれから始まります。旅先でいつものスパゲッティはありません。レストランや食堂、コンビニがあるかどうか分かりません。あれがほしいあれが食べたいという心で旅の目的に叶うでしょうか。お腹がすいた時、そこで火を熾して、そこにあるものを料理して同行するもの皆で分け合う心で、旅の準備を始めましょう。待っている人のところに一刻も早くゆき真心からの礼を尽くす時です

Deshi A

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。