道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

道すなわち真理について~釈迦略伝(二)降臨

2014-12-21 20:05:37 | 釈迦略伝・釈迦因果経

2014年12月21日

「道」というのは宇宙の「真理」のことを名づけたものです。「理」とも言います。2つの字をあわせて「道理」ともいいます。この「道」を、天に関して「天理」といい、地に関して「地理」といい、物に関して「物理」といい、人に関しては「性理」「良心」「本性」といいます。もし、天に「理」がなければ、日月は光を失い、地に「理」がなければ、万物は生ずることがなく、もちろん四季の区別もなくなります。

人に「性理」がなければ、この体を主宰するものがなく、生命も存在しないことになります。これから解るように、「道」が天地万物の根本で、人にとっては「本性・霊」は自分自身の主人公です。もちろんSpiritualの霊魂 という本質的な意味も同じ意味です。

「道」はまた「路」(軌道)ともいえます。それは、人の霊性は一本の正しい路を通って人の身体の入口(玄関)から入り(赤ちゃんが生まれたときオギャ~と泣いた瞬間)、人に生命を与え、生きている間、玄関(松果体との関係は未整理)に留まって人の行動を指揮して、寿命を終えて身体を離れるとき、もと来た正しい路を戻って天(唯一絶対創造主の懐)に帰るべきですが、役目を忘れ迷ってこの路を見失い、長い苦しみの転生を経験してきました。

今、「道」が公開され宇宙(天)や地底(地)の限りない支援が得られ、壮大な創造主の恩恵に浴しています。この機会に古い魂の角質を捨て本性(霊)を輝かして、神としての存在を実践して役目を果たし、縁に従い正しい「道」を得て、ふるさとに還る旅路を歩んでいます。まさに過去の聖人、お釈迦様やキリストがたどった同じ旅路をです。    


釈迦略伝

   大英博物館所蔵 釈迦牟尼佛画像

(一)降臨

釈迦の二字は、

中国語に訳せば能仁(のうじん)となり、牟尼(むに)の2字は寂黙(じゃくもく)になります。お釈迦様の父親は、中インド迦比羅国の国王で浄飯王(じょはんおう)といい、母親は麻耶(まや)夫人といいました。麻耶夫人は勤倹で、質朴質素な方で贅沢な生活を喜ばず説法や道の教えを聞くことを好まれました。44歳のとしの時に天から神人が降りてくる夢を見てお釈迦様を懐胎しました。

麻耶夫人は臨月にあたる4月8日に藍比尼園(らんびにえん)に参りましたが、ちょうどこの時、園内はのどかで暖かい春の日で無憂樹(むうじゅ)の花が爛漫に咲き乱れていました。世間で釈迦牟尼佛という方がこの日ここで降誕されました。推算してみると、西暦紀元前約1029年(記録では紀元前400年前後が多い)にあたり、中国では周昭王(しゅうしょうおう)24年のことでした。

中国の歴史上にも、その4月8日には山や川が振動して五色の光が大微星をつらぬたと記録され、また太子の蘇田(そでん)というものが国王に「大聖人が西方に生まれ、一千年後にその教えがこの地にも及ぶことでしょう」と奏上したと記録されています。お釈迦様はご誕生後、母の麻耶夫人と共に迦比羅城に帰りましたが、父の浄飯王は生まれた太子をご覧になって大変喜び、悉達多(しったるだ)と名前をつけました。悉達多の三文字は「一切成就」の意味になります。

麻耶夫人は、お釈迦様誕生後七日にして亡くなりました。そこで、麻耶夫人の妹君の波闍波提(はじゃばだい)夫人が代わって愛護養育しました。悉達多太子が七歳になって、婆羅門(ばらもん)の学者の一人跋陀羅尼(ばつだらに)が師として学問を教えました。しかし迦比羅国の領土はわずかに5百方里余りの一小国で、諸大国の間に挟まって群雄と対立しなければなりません。そこで浄飯王は、孱菩提婆を招聘して太子の師として、もっぱら武芸を教えるようにしました。悉達多太子は聡明であり、文武に通じたのでその名声は内外を震わせました。

次回(三)出家

Deshi A: 

お釈迦様が誕生した年について歴史的な記録と異なりますが、この伝記は仙佛のお話ですのでそのままお伝えししておきます。


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