道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

真の學問と學の階級 

2013-07-01 01:41:25 | 道・真理・ Deshi A
2013年3月22日



   孔 子
學問の道は極めて広泛で奥深く、一生かかっても極めつくされるものではありません。
これを会得するのに、平易な物もあれば困難なものもあり、滑らかなものもあれば険しいものもあります。何れも努力を必要としないものはありません。學問は人に及ばないものであるが、又人より失い易いものであります。ちょうど逆水に船を漕ぐようで、進まなければ即ち後退してしまいます。限度が無いから自分の程度が分かりません。學問は真理に近づく道でありますから分野や性質が違っても完成への到達点は一つであります。

人によって道程の差異はあっても、極めるのに純粋性がなければなりません。頭脳・性別によって早晩の別はあっても、熱意が欠ければ不可能です。孟子は「学問への道は放蕩化・散漫化した心を収めることに外ならない。」といわれました。堕落・怠惰した心に鞭を加えて、奸巧なく精勤し完成にいそしむことです。いかなる道であっても、習い學ばなければ成就できません。

老子は、「わたしは聖人ではない、學んで知ったのである。」といわれました。
孔子は、「わたしは、生まれながらにして道を知り物識りになったのではない、ただ古の道を好んで黽勉(勉強)怠らずして、ついに求め得ただけのものである。」また、「わたしは、何でも知っていると人は思っているらしいが、別に何でも知っている訳ではない。

ただどんなに卑しいつまらぬ人でも誠意をもって聞く時、袋の底を叩いて中のものをすべて外に出し尽くすように、その善悪・陰陽・因果その他何でも両端から説き質して本当のことを懇切に教える。それで教えを受けた人にとって、私は何事も知り尽くしているように見えるかも知れないが、ただ自分としての誠意をもって教えているだけである。」と謙遜されました。學問の大事は博く学ぶのと、深く思考することです。

大事なことを忘れず、変わらない熱意をもって追求して已まず、積極的に勉強して気を散らさず、日々発奮して気を換えてなりません。何れの學問を極めるにしても、自己完成の學を好むものにして始めて出来るものです。顔回(孔子の弟子)の「學を好み、怒りを遷さず、過ちを再びとしない」態度は典型的であります。

一人一人の霊気によって頭脳も違います。これを孔子は、人間の天禀には四通りの等差がある。第一は、生まれながらにしてあらゆる徳義を知り尽くしている者があるが、これが最上級である。(恐らくは聖人がこれに当る)第二は、学びてこれを知る者が次であり、
第三は、初めは學に心坐さず、いよいよ行き詰まって困ったあげくに苦しみ苦労して学んでやっとわかる者はその次であり、第四に、行き詰まって困りながらも学ぶことを知らず、苦しんで学んでも大事なことの分からない人、学ぶ気のない人は、更にその下である。と、四段階に別けて論じられました。

學問は中道の道に達してこそ円熟が得られます。中道の道に反した學問の存在はあり得ません。孔子は、子路に六言六蔽を引用し學問の重要性を説かれました。つまり學には仁、知、信、直、勇、剛の六つの徳目があり、學を好まない為に生ずる六つの弊害が起こることを知らしめたのであります。

一、仁徳・美徳を好むことは極めてよいことであるが、學をこのことをしないと、愚の弊に陥り陳腐します。お人好しの行き過ぎは愚かであり、人に欺かれます。愛着に溺れると反って人間を害毒します。

二、知を好んで、それと共に學をしてよく磨くことをしなければ、空想・妄想家になり、一人合点して取り留めのないことを考えます。行いに締りがなく、ただ徒に高きに馳せ、広きを喜ぶ弊に陥ります。

三、信を好んで學を好まないと條理を弁えず、真実の信を弁えなければ、只徒に盲信してその言葉を守り、間違った約束を守って悪い仲間に落ち入り、物事を傷り害う弊害に陥ります。

四、直を好んで學を好まないと、人間を相手にして人間以上のものを求め、相手に無理を強要し、相手を生かさずに傷つけ責めるのを急ぐあまり、狭くてゆとりのない窮屈な弊害に陥ります。

五、勇を好んで學を好まないと、物事の道理が分からなくなり、乱暴・我儘になります。
徒に人に加える方面にのみ働くから、その末は、叛乱さえも起こすに至る弊害に陥ります。

六、剛を好んで學を好まないと、物事の道理が分からず偏見・狂気になり、落着するところを失って、徒に力を振り回す狂者の弊害に陥ります。要するに六者は美徳ではあるが、その美徳を全うする為には、広い見識を立てる為の學が必要であることを教えたものであります。

これによっても如何に學問を積むことが肝要であるかが想像されましょう。學問家とは、傲慢・不遜の態度をさしているのではなく、學問臭いところがないのが真の學問であります。學の階級は継ぎの五通りの段階に区別されます。

すなわち変化學、認識學、治平學、理数學、性心學であります。これを説明しますと、

一、変化學
これは、通常の社会人が知っている狭義的な変化學ではなく、極めて広い範囲の意味を含んでいます。すなわち神から与えられた宇宙・万象すべての物質が人間の頭脳の機知変化によって一つの物体、一種の利用価値のあるものに創り出されることを変化學といいます。自然的形体から人為的加工体に造り換える學問であります。一脚の机をもって例えると、机の本質も元は樹木で、人間の加工によって変化したものであります。茶碗の元は粘土であり泥であったが、人間の手によって型作られ、それを炉に入れ焼かれることによって成り立ったものであります。一組の機械も同じことで、元はただの鉄や鋼にすぎませんが、人間の精密な研究と努力とによって組み立てられたものであります。数種の物質を応用加工して一個の生産機に造り換えるには、多大の精神力と代価を払わなければなりません。数多い試験と失敗を繰り返してから漸く成功します。また、性能の低いものから性能の高いものへ、粗末劣悪の品質から優良精密の品質へと改革・改良していくには相当の努力を必要とします。生産の遅い、旧い悪い形のものから理想的な新しい良い型のものへと造り換え、自動大量生産化していく、これらの能力を有している人を発明家、又は學士・博士とも言います。工学、農学、建築、物理、化学などはこの中に含まれます。士とは、成功者対する美称であり、學とは、浅きから深きへ、悪しきものから好きものへ、不理想から理想へ、工夫改善することで、博とは広く見聞や研究をされた意味を表します。

二、認識學
これも広義的に説く認識學であります。すなわち宇宙間、上は日・月・星座星雲の天体から、下は河川・山岳・海洋の一切、中は動物・植物・鉱物の動・不動の形物に至るまで如何なる品名と性質を有しているか、その形態の状態とによって、どの地方に生産・発生されるか、どうして始まり、どのような経過を辿り、如何なる結果に終わるかなどを詳細に解明する學問であります。また、天地・気候・年代・潮流とどんな連携をもっているかが認識でき、そして人間に有効であるか否か、応用できるか否かなどを見極める學問です。
一つの薬物がどれ位病体・病状に影響するか、薬効の正確な判断は難しいことであります。一つの薬品が化合して何種もの物品の製造に役立つかを知ることも容易なことではありません。生物・天文・歴史・地理・考古・医学等はこの中に含まれることになります。
これらの能力を有している人を見聞家と称し、あるいは博士とも言います。

三、治平學
これは、徳を以て世の中を和合させ、統治する學であります。我々によって発明・製造された一切のものは、人類が享受する為に為されたはずであり、人々の便宜を図り、人々の幸せを思うがために尽くされたものであります。例えば花壇を造園するのも、人々に鑑賞させ楽しませるが為であり、一つの機械を発明するのも、我々に利用させ生活をより良く向上させるが為で、飛行機・気車・電車・船舶・自動車等の発明も、目的は人間の心を快適にさせ満足させるが為に追求されているに他なりません。人間最大の希望は永遠に争いのない、苦のない、不便のない、太平の幸福にあります。人間の本質は、決してそれを悪用して人類滅亡や幸福を脅かすことなく、又不幸、貧困、戦乱、災禍のない理想的な世界の実現を希望しています。しかし、有史以来の世界は、時には乱れ、時には治まり、不正常であります。人類の熱望するところの幸福の為には、昔から沢山の立派な英雄・豪傑や政治家が現れて暴虐を除き、善良な民を安護してきました。禍や災難を治めて平和たらしめ、天下の同胞が一方の塗炭の苦しみから解脱せしめ、不安恐懼のない安居楽業の生活を享受させました。範囲の広い幸福を計った人ほど人から崇拝敬慕され、これらの能力を有している人を治平家、または英雄と称されます。文学・教育・法曹・政治・経済等はこの中に含まれます。

四、理数學
この理数學も現代社会の知っているところの狭義的なものではありません。広義的理数學は、天地の開闢を知り、日月の盈虧を計り、陰陽の消長、寒暑の往来、世道潮流の変化、時運の変遷を理数の上から計算して悟得する學問のことであります。人心の善悪を弁別でき、時勢の推移を見通し、事の成敗、過去・現在・未来を的確に判断・計議できる能力を有している人を知識家と称し、また賢人とも称されます。易学・哲学・心理学・預言者などはこの中に含まれます。

五、性心學
この性心學も現代社会で知っている所の性心學ではなく、むしろ現代社会の知らない性心學であります。これは、先天・後天の在り方、宇宙森羅万象を含む一切の有形無形のものの創造理を悟り、それに通ずる學であります。すべての物体は、この定理・定数の範囲から出ません。物事の終始本末を悟り、万古不易の真理を定義し、由来と未来の理を確立して人類を苦の因果の梱縛から脱せられる法を参悟する學であります。霊の浄化、心の洗浄法を会得することは至難の業であります。どんなことでも、根本原理を追求して至らねばなりません。この原理は、千秋万古を経て真であり、常に不変の存在であり、如何に攻撃打倒しようとしても不動体であり、どんな強力な力でも覆すことはできません。この真理を求め、これを掌握し、大霊に融合する「道」を得た人、それに到達した人こそ最高の學を修得する人と言えます。前記の仕事を為し得られる人、または、これらの能力を有している人を知慧者と称し、あるいは聖人とも称されます。神學・宗教學はこの中に含まれ、老子・孔子・釈迦・観音菩薩・達磨大師・キリスト・マホメッドなどはこの域に達せられた方々であります。

我々が学んでいる「道」は、すなわち性心學であり、最高位にあたる貴い存在であり、學の五階級の中でも第一等に算えられますが、さらに性心學は五段階に別けられます。

【粗理】=あらいり
聖人は、幽玄なる奥理を人に説明するのに、人によって法を説く関係上、 普通一般の人に説くのを主旨とされています。これは、因果応報の的確と、宿業罪業の報復を「瓜の種には瓜の実、豆の種には豆の実」と述べられています。すなわち善を為せば善の果を得られ、清白の行いがあれば清白の報いがあり、時期が到来すれば必ずその報いが来るという平易な理であります。一般人はこのような啓発によれば一番目覚め易いからであります。

【細理】=こまかいり
聖人が程度のやや高い知識層に説く主旨であります。聖人は、人々に道徳・倫理の根本を教え、義理と人情の必要を説き、禮教・仁愛の大事を納得させました。社会は、天下の人の社会であって、自分1個人の社会ではないから、相互の親愛がなければなりません。だから生きている以上は、人を愛し、世間の危機を救い、己の態度と行為を正しくし、意を誠にし、心を正し、身を修め、家を斎へ、国を治め、天下を平和にする順序を明らかに知り、対人関係に必要な孝・梯・忠・信・禮・義・廉・恥を具備することを教え、人格・教養・道徳を円満に修める為、必要な理を教えるものであります。

【微理】=かすかなり
聖人が程度の一番高い知識層に説く主旨であります。聖人は、聖書・経典を根本にして宣揚し、人々に聖人と凡人、仙人と俗人、仏と衆生の元は完全に一体であり、同様であることを示した理であります。我々の元は一様に、天地創造神・造物主から賦与された霊を持ち、父母から生育された身体を有し、天地から扶養されて生活していますが、ただここに迷いと悟りによって天淵の差に別れてゆくのであります。この理をいち早く悟ることを教えたのが微理であります。もし、明師から真傳心法の伝授を受けることができれば、人々は皆聖賢仙佛に成れましょう。ただ、切実な決心があるか否かによって分別されていくだけであります。この理を悟って偉大なる決意を持てば、万古流傳の名声を獲得できることは言うまでもありません。

【玄理】=おくふかいり
博く千経萬典を覧て、自己の真霊をますます深い玄理に結びつけて、日夜修行煉磨することであり、自己の霊光をいよいよ純熟に仕上げてゆくのを参玄と言います。

【妙理】=たえなるり
ここに到達した人は、もう一宗一派の所説に偏狭することはありません。最高の真理を掌握し、態度は超然として深い妙理のみを悟得師、自分の真なる智慧を発揮して不変不易の理想境界へ至ろうとします。これを「妙を悟る」といいます。まず、妙を悟ってこそ「道の真諦」を発揮でき、輪廻と煩悩、因果と恐懼を脱れて人々に人生の最高幸福を悟らしめることができ、この工夫に到達できる人の學は最高至極と言えます。

以上が性心學の大切を述べた論説で理論上,學問の根幹をなしているものであります。
 




道(真理)の伝承

2013-07-01 01:35:38 | 道・真理・ Deshi A
2013年4月29日

人類の秘法(道=真理)がどのように伝えられてきたか、各宗教の経典に伝承されていますが、時代が下るとその解釈は有名無実となってしまいました。老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が法灯(キリスト教の『聖霊と火』によるバプテスマ)を伝授しました。

老子は、道徳経、第一章の中で「道可道、非常道、名可名、非常名、無名、天地之始、有名、万物之母、故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其竅、此両者、同出而異名、同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門、」

道というは、常にいうその道ではない。その名でもない、名が無いが、「天地の始め」であって、その名をあえて、「万物の母」という。つねに無欲である故にその妙を観る。「天地の始め」であり「万物の母」この両者は、同じ根源から出ているが、名を異にしている。これを玄(玄関)という。玄の中の玄を、あらゆるものを生み出す神秘の中の神秘、それを衆妙の門という。(衆妙の門:多くの人々に付与された命の微妙な出入り口)

釈迦は、弟子スプーティに「解脱に至る道(真理)は、どのような道でしょうか。」と問われ、「解脱に至る道によって解脱を得るのではない。また道でないものによって解脱を得るのではない。スプーティよ、解脱がそのまま道であり、道がそのまま解脱である。一(真理)を得ることが、その一切である。」と答えました。

また、摩訶迦葉に法灯を伝え「吾に正法眼蔵あり、涅槃の妙心、実相無相にして微妙の法門、不立文字、教外別伝、これを摩訶迦葉に附嘱す。」【粘華微笑、玄嚢鼻直】と説法し、正しい法が目の蔵(老子:谷神)にある。それは涅槃(天国)への妙なる心のように、あるといえば無い、無いようである、微妙な法門である。文字を立てず(文字 に表すことはない)、教えの外に別に伝える(誰にでも教えるものではないし、教えるというものでもない)、一人から一人に単伝独授するもので、これを摩訶迦葉に附嘱(一指相伝)し、その機微を顕しました。そして鼻を捻って微笑し(粘華微笑)それは鼻の玄嚢の直すぐ上である、と記しました。

どの経典でも、これは名のつけようもなく、経典の文字をいくらあさっても解るものではないと伝えられています。