〈リバイバル・アーカイブス〉2022.7.25~8.8
原本:2018年7月24日
2018.7.17.13:27 御所市北窪 髙天彦(たかまひこ)神社周辺 標高434m
背後の山は髙天彦神社の御神体山の白雲嶽 別称 高天山 標高694m
「神話の里」 天孫降臨伝説のある高天原一帯、無料駐車場があるのでここから周辺を歩きました。
田んぼのかえる 無事帰れますように...
画面をクリックすると高天彦神社横の福蛙が見れます。
「昔より此の村の道端に幸せを呼ぶ福蛙」。天然石でできているようです。
涼しそうに見えますが、 なんと気温が39度近くに上昇...13:33
磐之媛皇后の歌碑
このあたりは鴨氏、葛城氏の本貫地でもありますが、 磐之媛は葛城氏の襲津彦の娘で、仁徳天皇の皇后でありました。
履中天皇、反正天皇、允恭天皇のお母さんでもあります。
参道には樹齢数百年の杉並木が続きます。
式内社 高天彦神社
「延喜式」に 大和 葛上郡十七坐の一で高天彦神社とあります。
名神大社に列せられ 祭神は高見産霊尊(たかみむすびのみこと)別名 高天彦神。
御神体は 社殿の後方にそびえる白雲嶽。よって、本殿はありません。
大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社 であることから、 古代豪族、葛城氏ゆかりの神社と言われています。
葛城氏は始めこのあたりの台地に居住し、その後台地を降りて水稲農耕を始めました。そして、鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。これが葛城王朝といわれています。葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る、九代で滅びますが、武内宿祢によって復興 し大臣(おおおみ)は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されたといわれています。(諸説あります。)
社殿の左奥にある蜘蛛(くも)塚
蜘蛛塚は「土蜘蛛」を霊を祀ったものと云われています。「土蜘蛛」とはこの地域のの先住の人々のことで、自分たちに恭順せず敵対し支配下に入らなかった「まつろわぬ人々」を蔑視した言い方です。高天エリアには高天彦神社の土蜘蛛塚のほかに蜘蛛窟と呼ばれる土蜘蛛の史跡があります。
「高天原旧跡地」
「高天」はこの一帯の地名でもあり、高見産霊尊は「天孫降臨」に深くかかわった高天原の神であるために この地に いまも高天原伝説が伝承されています。
神霊の碑
領家帯の花崗・片麻岩帯にあるので、民家の石垣も全部花崗岩。
高天彦神社から橋本院に向かいます。
葛城の 高間(高天)の草野 はや知りて 標刺さましを 今ぞ悔しき 万葉集 巻七の1337
高天寺橋本院の駐車場に建てられています。
橋本院の観音堂の前で
これは自生種のヤマユリのようです。途中の林からも顔を出していました。
護摩堂の前、「修業大師 南無大師遍照金剛」とあります。
弘法大師の足元に咲いているオニユリがきれいでした。
高天寺橋本院は真言宗のお寺です。 高天寺は旧来行基菩薩が開基し、鑑真和上が住職に任命された事もあるという由緒あるお寺で、参拝する人々が絶えぬほど盛大かつ繁栄を極め、「高天千軒」と呼ばれていたこともありました。
しかし、南北朝時代に北朝方の畠山基国や高師直ら焼き討ちにあい、その後350年間荒廃しましたが、延宝五年(1677)高天寺の一子院橋本院として復興しました。
途中猪除けのフェンスはいくつもありました。
杉が植林された山道を通ります。
道が深くえぐれています。
というのも、山全体が花崗岩の風化土(真砂)で、次第に自然に削られたのではないかと思われます。
案内板は要所要所にあり、安心して歩くことができました。
シダの群生
美しい杉の植林
森の出口にあったミツバチの巣箱
近寄ったらにらまれた。
美しい田んぼが続きます。
吐田(はんだ)極楽寺(御所市極楽寺108)に着きました。
立派な鐘楼門とよく手入れされた庭先がきれいです。
仏頭山法眼院極楽寺は、浄土宗のお寺で、開山は一和僧都。開基は天歴五年(951)。
建治元年(1275)の頃、葛木城主 吐田五郎国資(はんだごろうくにより)は、所領を寄進してその境内に七堂伽藍完備し、西塔東塔天に聳え一世の美観を呈しました。
南北朝時代には、楠正成公の祈願の寺と云われ、河内、金剛、吉野の連絡の要としての重要な寺院でした。
戦国時代、天正十年(1582)に当寺の大檀那、吐田越前守遠秀が筒井順慶との会峰の戦に討死し、俄かに衰亡の影が濃くなりました。そして、慶長十九年(1614)再起を計るも果さず遂に戦いに敗れ、城を追われた一族は菩提所を最後の場と定め、当寺に入り火を放って悉く自刃して果てました。
天保七年(1836)ようやく再建がなり、現在に至っています。
お寺に水屋(手水鉢)がありました。
小楼門より本堂を望む。
ここからすこし下ったところに、極楽寺ヒビキ遺跡(御所市極楽寺)があります。
「御所で葛城氏の館跡発見さる!」「雄略天皇に焼き討ちを掛けられて滅ぼされた、葛城円(つぶら)の館跡か?」という新聞記事でも有名になりました。
他にも、南郷安田遺跡(水辺の祭祀跡)や南郷大東遺跡(大型掘立建物跡)のように多くの葛城氏に関わると思われる遺跡が見つかっています。
古そうなお墓。全部花崗岩でできています。先ほどの民家の石垣と同じように、地質が領家帯の花崗・片麻岩に属し、このあたりで取れる石が花崗岩であるからだと思われます。
〈比較〉南河内の古いお墓は花崗岩だけでなく、和泉砂岩も混じります。
花崗岩は金剛・葛城山地(領家帯花崗・片麻岩帯)、和泉砂岩は和泉山脈(和泉層群)から採取できます。
〈画面をクリックすると、花崗岩だけでなく和泉砂岩も混じる墓碑の大阪狭山市今熊の大三昧(おざんまい)墓地の無縁塔のようすが見れます。〉
南河内ではあまり見かけない形状の夫婦墓
いくつもありました。
こういうタイプもありました。材質は和歌山 三波川変成帯の緑泥片岩か?
一石五輪塔ですが、薄いんです。これも緑泥片岩か?
ほら、こんなに薄い。
いくつもありました。
石灯籠の宝珠と請花のような「お墓」
これは一体何を意味するものか分かりません。墓碑なのでしょうか?
あちこちにあります。カルチャーショック状態。
帰り道、うっすらけむる秋津島 大和三山の畝傍山が見えます。
山麓線(奈良県道30号線)に沿っての帰り道、「高天」の案内板が見えました。
そこを通り過ぎて、見上げると金剛山麓。
大和盆地がさらに遠くにかすみます。
ほどなく仁王さんが迎えてくれる菩提寺(御所市伏見454)に着きました。
菩提寺は、奈良時代、行基菩薩が駐留した所に建てられた道場「菩提院」の跡と云われています。
平安時代には弘法大師が参籠祈願し、勅願所として又修験道の道場として、子院三十余箇坊がならび建っていたといわれています。貞和年間(1350頃)一山兵火にかかり、数院だけが残ったとのこと。
江戸時代貞享年間(1685頃)本堂、仁王門を復興し、元文元年(1736)には本堂、鐘楼、仁王門と西ノ坊、東南院、千手院、来迎院、東室院、真藏院の六院が甍をつらねていたと云います。
菩提寺の歌碑 「かづらぎの 青葉背負ひて 仁王立つ」
葛城は「かつらぎ」とも「かづらぎ」とも読みます。
ため池からの分水 3つに分かれます。
八幡神社 御所市伏見字奥神417 に着きました。
103段の石段を上りつめて拝殿へ
応神天皇(誉田別尊-ほむだわけのみこと)を祭神として祀っています。このあたりから北のエリアは応神天皇とその子仁徳天皇(4C後半~5C初)以降、最大の氏族であった葛城氏の本貫地として栄えたといわれています。神社の境内外には多くの古墳があります。
一番古い棟札は天正4年(1576)とあり、度重なる修復の跡が見られますが、本殿、摂社は安土桃山時代の建築様式を色濃く伝えているということです。
八幡神社駐車場より ここは標高379m
三角の山の方向に向かいます。
八幡神社から高天彦神社に至る山道。最近完成したもののようです。
橋はなく、川の石ころの所を渡ります、迷いやすいので注意!
石はすべて花崗岩で、砂は真砂(花崗岩の風化した砂)。
蟻地獄発見。
地獄の主
道の脇に庚申塚がありました。
庚申さんの身代わり申(さる)たち
このあたりは花崗岩の風化地帯のようです。
元の場所に戻ってきました。やれやれ、気温も31度に下がりました。17:21
夕刻、金剛の峰の山裾、高天の一帯に静けさが戻りました。
撮影日:2018年7月17日
関連記事:葛城古道をゆく1 高鴨神社の灯籠 2018.7.5.
2018年7月24日 ( HN:アブラコウモリH )
当方、暑くて暑くて、当面は自宅の警備隊長を
しております。もう少し涼しくなればウロウロ
したいと思っています。
葛城古道の彼岸花、岩湧寺の秋海棠・・・・
早く涼しくなって欲しいナ