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大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈リバイバル・アーカイブス〉「柏原・八尾の旧大和川を訪ねて」

2018年07月15日 | 歴史

〈リバイバル・アーカイブス〉2022.7.18~8.1

原本:2018年7月15日

長瀬川両サイドの「アクアロード柏原」のカラーパネル(カラータイル?)と、内容の解説を紹介します。

今回のコースで確認したもので、一部未確認があります。

 

出自は、「新撰性氏録」左京神別に見える、柏原連か?

大阪府柏原市古町の大和川右岸にある取水口を水源(一級河川の起点)とし北流。大阪市城東区森之宮と城東区中浜の境界で第二寝屋川に合流する。了意川(りょういがわ)、百済川(くだらがわ)、河内川あるいは竜華川(りゅうげがわ)とも呼ばれていた。

以下の画像で、カーソル「指差し」マーク分の表示がある画像は,

クリックしてください。

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、河内国国分僧寺の寺院跡にあたる

かつて、柏原市内で出土した文化財の中に多鈕細文鏡という鏡がある。弥生時代の青銅鏡で、直径は21.7センチある。背面、中心線から少し上に二つの鈕(ちゅう=つまみ)が左右に並んでおり、背面の全体が鋸歯文(きょしもん)と呼ばれる、のこぎりの歯のような形の細線文様で覆われている。 この鏡は、大正14年(1925)4月のある日、大阪府中河内郡堅下村大県(現・柏原市大県)の高尾山山頂近くの松林の土中から、開墾作業中のA青年によって発見された。最終的には、博物館に収められることになるのだが、それまでに多数の人の手を渡り、各地を転々として、その度に価格が高くなるなど、数奇な運命をたどった。

生安寺の堂前の軒下に直径30センチぐらいの鰐口がかかっています。その鰐口の銘帯に「生安寺」と書いてなくて「河内国道明寺長福寺」と書いてあります。長福寺というのは昔、藤井寺市の「道明寺」の境内にあった寺です。この鰐口は1371年の鋳造です。

南詰に「夏目茶屋の渡し」跡の説明板が設置されている。かつては明治初期に大和川南岸に新しい街道(現・国道25号)が整備されるまではここで渡し船で対岸に渡り、亀の瀬経由で奈良方面に通じていた。かつて渡し場付近には茶屋があり、付近にナツメが植えられていたのが名の由来とされる。

 

文政13年(1830)、現在の柏原市国分に郷土の子弟教育のための学校・「立教館」が設立された。設立者は、国分出身の医師・柘植葛城(諱は常熈。通称は卓馬)という人物。設立当初は、明円寺(妙円寺)という寺の境内にあったようだが、その後、塾生(通学者)が増えて建物が手狭になったため、文久3年(1863)に新しく建て直されることになった。しかし、幕末の動乱の中、工事は遅れ、完成したのは、ようやく明治4年(1871)になってからのことだった。それが、現在、旭ヶ丘3丁目の関西福祉科学大学の敷地内に残る建物である。

 創建は成務天皇21年(151)と伝えられ、延喜式神名帳に記されている式内社です。往古は鐸比古命は奥之院高尾山頂に祭祀され高尾大明神と称し、また、鐸比売命は高尾山麓姫山に祭祀され比賣御前と称し、雨乞いの祈願所でした。

天平年間に行基が開創、本尊の薬師如来像は行基の作と伝わる。かつては『七堂伽藍を具備せし巨刹なり』といわれ、大規模な寺院だったが、織田信長の信貴山城攻略の際に兵火に遇い、その後慶安四年(1651年)に再建されるも往時のような規模にはならず、境内は縮小して現在は敷地わずか123坪となり、本堂、庫裏、廊下および不動堂があるのみとなっている

安福寺の境内に手水鉢として置かれていました。文字通り竹を割ったような形で、長さが約260cm、幅が80~90cm、蓋の縁に沿って幅11cmの帯 状に直弧文(ちょっこもん)の文様が刻まれています。発掘の記録は残っていませんが、安福寺の北側にある勝負山(かちまけやま)古墳とも呼ばれた玉手山3 号墳から出土し、移されたと伝えられています。石材は讃岐(香川県)の鷲ノ山(わしのやま)産の凝灰岩を使用したもので、同様の形態の石棺は大半が四国の 前期古墳から出土しています。

 

奈良県から大阪府へと流れる大和川。その府県境付近を「亀の瀬」といいます。大和川の川幅がもっとも狭く、流れも速くなっており渓谷としての景観を生み出しています

高井田横穴群は、大和川の北側にあり、南へ張り出す尾根の斜面を中心に広がる横穴群です。これまでに162基の横穴が確認され、未調査部分にも多数存在することはまちがいなく、実際の数は200基を大幅に上回ります。

浄井戸(じょいど)とも呼ばれる湧水地です。石神社(いわじんじゃ)の東側にある井戸で、生駒山地の岩盤を通って浄化された湧き水です。地元ではおいしい天然水として古くから親しまれてきました(今は、あまり飲用には適しません)。弘法大師(空海)がこの井戸を掘って、干ばつに苦しむ人たちを救ったという言い伝えがあります。

最も多く出土する遺物で、平成21・22年度の調査では、瓦だけで約12000点見つかっています。特徴的な瓦として、蓮華文様のある軒丸瓦、弧状の線のある軒平瓦や、仏像が描かれた平瓦、文字が書かれた平瓦などがあります。

奈良盆地から大阪平野への出入り口に位置する柏原の地は、戦略的にも重要な場所で、慶長20年(1615)に大坂夏の陣の戦端が開かれたのも、この地においてでした。市域内、玉手山の一帯が、その古戦場で、市立玉手山公園内やその周辺には、ここで討ち死にした豊臣方の武将・後藤又兵衛基次の碑や徳川方の武将・奥田三郎右衛門らの墓、両軍戦死者の供養塔などが残されています。

河内西国第七番札所本尊であり、融通念佛宗寺院となる前からこの地に祀られていたと伝わる観音像は、現在本堂の厨子の中に安置され秘仏となっているが、以前は山門をくぐって右奥の観音堂に祀られていた。

小高い丘陵部からは「河内嵐山」と称された大和川周辺の風景、応神天皇陵古墳・仲哀天皇陵古墳・允恭天皇陵古墳などを一望するビューポイントも。 後半は大和川を北へ渡って、主に江戸時代の旧跡巡り。 広い大和川河川敷公園のそばに、近世の治水や舟運の関連史跡などが残り、見飽きることがない。

立教館は文政13年(1830年)、頼山陽(らいさんよう)に学んだ国分村の柘植常熙(つげじょうき:葛城)が郷土の子弟にも教育を受けさせようと、地 元の有志を募って建てた私塾です。頼山陽も何度かここを訪れ講義を行いました。また、裏手を流れる大和川の眺めを賞賛し、「河内嵐山」と評したとも伝えら れています。

柏原市の市章は、柏原の「カ」と「ハ」を図案化したもので、大和川と石川の合流点に位置する当市のはてしない発展と親和を象徴したものです。

どこかの外車のMARKとは、違います。

竜田越奈良街道(たつたごえならかいどう)は、奈良に至る「奈良街道」の一つ。 大阪と奈良を結ぶ街道の一つであり、斑鳩町の竜田(龍田神社付近)を通る「竜田道」の一つである。 現在は国道25号が踏襲している。

坂戸牧とも書く。文徳源氏で白河院の北面の武士であった検非違使源康季の本拠で,この一族は坂戸源氏と称された。同氏が牧を領有しはじめたのは,遅くとも11世紀の末,康季の曾祖父河内守公則のころと考えられる。

近くを流れる石川を伯太川と云ったようで、安宿郡資母郷の伯太川沿岸で農耕に従事した田部すなわち田邊史の祖先である伯孫を祭ったものと推測されている。『柏原市史』に、円明、玉手の両地域は渡来系氏族の藩居した地で、田邊氏と飛鳥戸造一族が居住していたとある。

1704年の大和川付け替えとその後の新田開発等により、この辺り一帯は明治初期まで有数の綿作及び木綿生産地帯であった。しかし、1900年代初頭には、輸入綿増加等の影響により綿作は激減、稲作やぶどう栽培がおこなわれる。

戦前の産業としては、ブラシ毛植、貝ボタン製造などが農家の副業として行われていた。

大阪府柏原市雁多尾畑にあります浄土真宗大谷派の光徳寺は、JR西日本の大和路線、河内堅上駅が最寄り駅になります。駅から徒歩17分の距離にあります。本堂は別名を「雁林堂」(かりんどう)とも言います。「雁多尾畑」(かりんどおばた)の地名の由来ともいわれています。光徳寺は永延2年(988年)の平安時代に延暦寺の僧でありました法円によって創建されました。本尊は阿弥陀如来、二度の火災に会い現在に至っています。現在の建物などは再建後約240年を経過しています。

万葉集によると、奈良時代には築留(つきどめ)付近に「河内大橋(かわちおおはし)」と呼ばれる丹塗りの橋が架かっていたようです。その橋の東のたもととみられる安堂遺跡で、人面土器などを出土する井戸が発見されています。もしかすると、水にまつわる祭祀が行われていたのかもしれません。

平安初期の歌人、在原業平。六歌仙および三十六歌仙の1人で、秀麗な容貌で数多くの女性を虜にしたといいます。

彼が高安の河内姫のもとに行くときに通ったとみられる道を「業平道」と呼んでいます。

三田家住宅は奈良街道に面した町家で、裏は了意川(りょういがわ:平野川)に接し、柏原船(かしわらぶね)の積荷をそのまま荷揚げできる造りになってい ました。三田家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636年)に代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17 年に柏原に移り住んで柏原船の運航や肥料商を営みました。明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の大改築(大普請)が行われ、その屋敷がそれ以 後大きな改築を行われず今日まで遺されています。この時の普請関係の文書も多数遺され、建設時期が明確に示されるとともに当時の生活・経済状況も窺い知る 事が出来る貴重な資料として、文書類も合わせて重要文化財に指定されています。

東高野街道の真ん中あたりか?

 

 

 

 

お疲れ様でした。

最後まで見ていただいてありがとうございました。

辰じいでした。

 

〈行程地図と解説〉

【柏原地区】

 

〈クリックすると拡大します〉

 

【八尾地区】

 

〈クリックすると拡大します〉

行程地図を追加しました。

2018年7月18日 ( HN:アブラコウモリH )

 

 


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3 コメント

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Unknown (kusu)
2018-07-17 21:45:39
長編の編集お疲れ様でした、動画も混じりプロ並みの編集ですね、当日は蒸し暑い日で、少し疲れたが参考になる館外講習でした。
返信する
ありがとう (辰じい)
2018-07-17 22:28:02
早速のコメントありがとうございます。
パネル全数、確認できなかったのが心残りです。
近くですので、また行けるかも。
喜志グループ、途中下車で失礼しました。
先日、美具久留御魂神社で夏祭り「茅の輪巡り」
が、開催されました。(7/15)
また、UPします。
返信する
動画が入ると見やすいですね。 (油香森)
2018-07-18 04:57:40
館外学習の報告をありがとうございます。
動画が入ると見やすいですね。
編集もしていただいて、また新しいブログで楽しかったです。
当日の資料を追加させていただきました。
返信する

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