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やっていないことを証明するのは難しい。

2005年04月06日 | ニュース系
昭和36年3月28日に三重県名張市で起きた「名張毒ぶどう酒事件」の被告死刑囚の再審開始が決定されました。
有罪の状況証拠や物証、そして自白の信用性に疑問がある、ということらしいです。

しかし、だからといって今更何十年も前の事件に関する確かな物証が新たに出てくるとは考えにくいし、こういう長期間にわたる裁判の話を聞く度、もう少し早い時期にこういう判断はできないものなのか、と思ってしまいます。
そしてもしも冤罪ということになるのなら、では本当の犯人は誰なのだろう、という疑問が湧きます。
というか、ほんとうの犯人を逮捕してはじめて完全にその冤罪事件は終わると思うのだけれども、冤罪事件で真犯人が捕まったという話はあまり聞きません。
たいていは「疑わしきは罰せず」で、まるで解決シーンのないミステリー小説のように終わります。

そもそもが、やったことを証明するのはたやすいですが、やっていないことを「やっていない」と証明することは、とても難しいです。
この死刑囚が本当にやっていないのか、それとも本当はやったのか、それはわかりませんが、いずれにせよ、流れた月日が長すぎます。
事件発生時刻に第三者による確実な目撃情報があるとか、確固たるアリバイがない限り、やっていないことを証明することはできません。
そしてそんなアリバイがちゃんとあるのなら、逮捕されることはありません。

死刑制度自体は、とてもデリケートな問題なので、一概に良いとか悪いとかはいえません。
アカの他人に対してなら、「理由はどうであれ、人が法を振り翳して人を殺めるのは傲慢なのでは?」と思うけれど、身の毛もよだつような残忍な殺人事件を起こした犯人に対してであれば、生理的に「死刑でも甘い」と思うこともあるし、もしも身内が被害にあったなら、「絶対死刑にしてくれ」と願ってしまいそうです。
それでも個人的には、「死刑」より、絶対に仮釈放も恩赦もない完璧な終身刑のほうが、罪に対する刑罰としては有効のような気はします。
たとえば外国のように「禁固300年」とか。

余談になるけれど、小説にも題材に冤罪を扱った作品は多く、ぼくの好きな作家、島田荘司さんの作品にも『涙流れるままに』という大長編があります。
これはミステリー仕立ての、壮大なお涙頂戴路線の物語ではあるけれど、読み応えがあります。
また同じ作者の作品には、ノンフィクションで小説ですらないのですが、冤罪をテーマにロス疑惑の三浦さんのことを書いた『三浦和義事件』があります。
これも分厚い本ですが、なかなか興味深い内容です。

参照記事:Yahoo!ニュース