いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

「言葉伝わらない」発言は何も間違いではない!ただ・・・

2021-01-29 10:50:24 | 米屋の親父のつぶやき

 首相に対して「言葉伝わらない」と発言した野党議員。

 いつも「炎上」するように「演出」しているが、今回は「言い過ぎ」で謝罪するとは・・・

 

 「言葉伝わらない」という発言、決して何も間違いではない。

 以前から私はそう思っている。

 二回目の「緊急事態宣言」発令直前、もっと「言葉」を利用すべきだと思っていた。

 それを記事にもした。* 「今こそ「情報発信力」-コロナ対策」1/7

 

 当たり前の話だが、「言葉の伝達力」には限度がある。

 だからこそ「重要」なのである。

 

 首相答弁・政府発信の「伝達力」は、今の政府はとても弱い。

 いろいろと伝えなくてはならないという「非常事態」にも関わらず、「発信力」不足は明白。

 それをわかっていないのか?

 記事にも書いたが、「プロのコピーライター=言葉の魔術師」が知恵を出す絶好の機会だったのでは?

 まぁ、政府や官邸サイドの「危機意識不足」が最大の難点なのだが・・・

 

 いつも思う。

 「ブレーン不足」

 「プロ不足」に気づいていないとしたら、本当にレベルの低い話である。

 

 「ペンは剣よりも強し」

 この言葉を思い出してもらいたいものだ。

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-小澤征爾

2021-01-29 07:18:51 | MUSIC

 「小澤征爾」

 1935年9月1日生まれの85歳

 “人間力”で「世界のオザワ」に上り詰めたカリスマ指揮者  2018.06.12 柴田 克彦

 世界のクラシック音楽界で頂点に立つ指揮者の1人、小澤征爾。“音楽エリート” ではなく、苦労しながら努力と行動力、そして人間的魅力で世界に嘱望されるまでに至ったマエストロの軌跡を振り返る。

 2002年1月1日、小澤征爾はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の「ニューイヤー・コンサート」に登場した。60年もの歴史を誇り、約60カ国にテレビ中継されるこの世界的風物詩を指揮する初めての日本人だった。彼は、米国ビッグ5の名門、ボストン交響楽団の音楽監督を約30年にわたって務め、この年の秋からオペラ界の頂点、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任することになっていた。さらには、世界最高峰の2強、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とウィーン・フィルの定期演奏会にレギュラーで登場する数少ない指揮者の1人だった。これらは全て、西洋の文化であるクラシック音楽の分野で日本人が達成するには、あまりにハードルが高い、正真正銘の偉業である。無論、小澤以外に成し遂げた日本人指揮者はおらず、裾野に近づいた者さえごく限られる。

 日本人離れの行動力の原点
 小澤征爾は、1935年9月1日、満州国の奉天(現・中華人民共和国の瀋陽)に生まれた。山梨の貧しい農家の出で、苦学の末に歯医者となった父・開作は23歳の時に満州へ渡り、長春で歯科医を開業。その地で征爾の母となる若松さくらと結婚した。だが開作は、アジア民族の一体化を理念とする政治活動に没頭し、政治団体「満州国協和会」の創立委員として奉天に移り住んだ。そこで生まれた三男は、開作が知遇を得た陸軍大将・板垣征四郎から「征」、関東軍参謀・石原莞爾から「爾」を取って「征爾」と命名され、6歳の年まで満州で過ごした。大陸で生まれ育ったこと、さらには父譲りの行動力が、小澤の日本人離れした活躍の源にあるのではないか…そう思えてならない。

 小澤はいわゆる “音楽エリート” ではなかった。音楽との出会いは5歳のクリスマスに母が買ってくれたアコーディオンで、ピアノを始めたのが10歳の時。一家は41年に帰国して立川に住まいを移していた。もちろん当時、家にはピアノがなく、後に親戚から譲り受けた際も、兄たちが横浜から立川まで3日かけてリヤカーで運んだ。

 ピアニストになる夢はあっても、スタートがあまりに遅い。そんな折の49年12月、日比谷公会堂における日本交響楽団(現・NHK交響楽団)のコンサートで、ロシア出身のピアニスト、レオニード・クロイツァーがピアノを弾きながら指揮をする演奏を聴いて、初めて指揮に強い魅力を感じた。そして母さくらの遠縁に音楽教育者・チェロ奏者の齋藤秀雄(1902~74年)がいることが分かり、弟子入りを志願する。中学3年生の時だった。

 生涯の師、友との出会いを経て2大巨匠の下へ
 人生とは巡り会い。小澤の道のりをたどるとそれを痛感させられる。齋藤秀雄は、桐朋学園で多数の著名指揮者や弦楽器奏者を育てた大功労者だ。彼は小澤の生涯の師となった。

 もう1人、齋藤の指揮教室で巡り会ったのが山本直純(1932~2002年)。後にコマーシャルの「大きいことはいいことだ」のフレーズで名をはせた指揮者にして、映画『男はつらいよ』のテーマ音楽を手がけた作曲家である。小澤は最初、兄弟子にあたる山本に指揮を教わった。1952年小澤は斎藤が開設に関わった桐朋女子高等学校音楽科に入学、55年桐朋学園短期大学に進学した。やがて、「音楽をやるなら外国へ行って勉強するしかない」と強く思うようになった小澤に向かって、山本は「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ」と言って後押しした。そしてそれは実現した。

 59年2月、持ち前の行動力を発揮し、スクーターと共に貨物船で単身渡仏した23歳の小澤は、同年ブザンソン国際指揮者コンクールに挑んだ。実は応募の締め切りを過ぎていたのだが、つてを頼って紹介してもらった米国大使館の職員の口利きで参加がかない、見事優勝。これが飛躍の第1歩となった。

 まずは審査員だった巨匠シャルル・ミュンシュの一言でボストン交響楽団が毎夏米国マサチューセッツ州で主宰するタングルウッド音楽祭に参加し(60年)、それを機に、61 年レナード・バーンスタイン率いるニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に抜てきされた。またヘルベルト・フォン・カラヤンの弟子を選出するコンクールにも合格。そこで小澤は、20世紀後半の指揮界を二分するカラヤン、バーンスタイン両雄の薫陶を受けることができた。このような経験を持つ指揮者は、世界でも恐らく小澤しかいない。

 「N響事件」を経て新日本フィル結成へ
 小澤征爾は天才ではなく、努力の人である。「勉強、勉強、また勉強」が彼の生き方。そして小澤を知る者は、「彼ほど人懐っこく、人間に対する愛情が深く、義理固い人はいない」と言う。日々の努力にそうした人柄が加わったからこそ、良き巡り会いが生まれたに違いない。

 ただ日本では順風満帆ではなかった。1962年には、契約を結んだNHK交響楽団からボイコットされる「N響事件」が起きた。同年6月から半年間の指揮契約を結んでいたが、楽員から27歳の小澤に対し「生意気だ」「態度が悪い」などの感情的反発が生まれていたのだ。そこで翌年「小澤征爾の音楽を聴く会」が開催され、発起人に、浅利慶太、石原慎太郎、井上靖、大江健三郎、曽野綾子、武満徹、谷川俊太郎、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、三島由紀夫ら、驚きのビッグネームが並んだ。これも小澤の吸引力のなせる業だろう。しかし彼は事件を機に日本に見切りをつけ、世界にのみ目を向けた。事件は結果的に “世界のオザワ” 誕生を導いたといえる。

 72年には、縁あって首席指揮者を務めていた日本フィルハーモニー交響楽団が、フジサンケイグループからの支援を打ち切られる。急きょ米国から帰国した小澤は何とか存続を図ろうと奔走し、天皇陛下へ直訴までする。同年日本芸術院賞を受賞していたが、その授与式で「自分だけ賞をもらいましたが、今一緒にやっているオーケストラは大変な状況なんです」と思わず言ってしまったのだ。結局当時の “財団法人日本フィル” は解散(注:裁判闘争を続けながら自主運営団体として継続し、現在は公益財団法人として活動中)、小澤は山本直純と共に新日本フィルハーモニー交響楽団を結成する。その後長い間、日本では基本的に新日本フィルしか指揮せず、同楽団を起用した山本の公開テレビ番組「オーケストラがやって来た」に再三出演するなど、義理堅さを発揮した。

 クラシック界の頂点に駆け上がる
 世界における快進撃の始まりは、「N響事件」の翌年、1963年にシカゴ交響楽団が主宰する「ラヴィニア音楽祭」に急きょ代役で出演し、成功を収めたことだった。64年には同音楽祭の音楽監督に就任(68年まで)。65年にはトロント交響楽団の音楽監督に就任した(69年まで)。66年には「ザルツブルク音楽祭」ならびにウィーン・フィル、さらにはベルリン・フィルの定期演奏会にデビュー。70年には「タングルウッド音楽祭」の芸術監督(2002年まで)、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督(76年まで)に就任した。そして73年、ボストン交響楽団の音楽監督に就任し、2002年まで約30年間に及ぶ米国では異例の長期体制を築いた。

 79年パリ・オペラ座、80年ミラノ・スカラ座、88年ウィーン国立歌劇場にデビューし、オペラでも世界最高峰の舞台で活躍。2002年のウィーン国立歌劇場の音楽監督就任(2010年まで)に至る。膨大なディスクも録音し、中でも冒頭で言及した「ニューイヤー・コンサート2002」のライブCDは、日本で80万枚(世界で約100万枚)というクラシック界では空前絶後のセールスを記録した。94年にはタングルウッドにその名を冠した「セイジ・オザワ・ホール」が建てられた。

 日本での活動も徐々に活発化した。87年に齋藤秀雄の門下生を主体とする「サイトウ・キネン・オーケストラ」の活動を開始。同楽団は世界から一流と目される存在となった。90年には水戸室内管弦楽団の芸術顧問に就任。92年には「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(2014年から「セイジ・オザワ松本フェスティバル」)の総監督に就任し、同音楽祭は垂涎の内容で人気を集めた。98年には長野冬季オリンピックの開会式で、世界5大陸を結ぶベートーヴェン「第九」を指揮。2000年には若手音楽家を育成する「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」を始めた。

 “人間力”で最高の音楽を引き出す
 指揮者は、自ら音を出さない不思議な音楽家だ。実際に音を出すのは、おのおのが一家言持つ100名ものプロフェッショナル演奏家集団である。彼らに意を伝え、持てる能力を発揮させ、1つの音楽を形作るには、技術や知識以上に人間的な魅力やカリスマ性を必要とする。指揮法を体系化した齋藤秀雄譲りのバトン・テクニックは素晴らしい。しかし彼の本領は、人柄に努力と経験が加わった “人間力” に尽きる。

 小澤のカリスマ性を示すエピソードがある。2015年、新日本フィルの創設期を共にしたティンパニ奏者の山口浩一が亡くなる直前、小澤は彼を見舞いに訪れた。山口はほとんど意識がなく、周りで見守る人たちが「分かったら手を握って」と言うと、辛うじて握り返す程度だった。ところが小澤が声をかけると、パッと目を開け、会話までしたという。

 1986年2月13日、東京文化会館における小澤指揮/ボストン交響楽団によるマーラーの交響曲第3番は、筆者にとってこれまで経験した最高のコンサートだった。終始引き付けられた末の深い感銘を、30年以上たった今でもありありと思い出す。この体験は生涯まれな “ギフト” だった。小澤の音楽は熱い。彼はきっと同様の感銘を皆に与えてきたであろう。ここ数年は健康状態を鑑みながら活動している。今秋には83歳を迎える小澤。だがまだまだギフトを与え続けてほしいと願わずにはおれない。(2018年6月 記)

*https://www.nippon.com/ja/features/c03707/?pnum=2 より

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<日本酒> 福島 会津吉の川/吉の川酒造店

2021-01-29 07:09:46 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(仙台国税局)】
 〈福島〉 会津吉の川/吉の川酒造店

 「吉の川」 合資会社吉の川酒造店
 「本当の地酒」喜多方市の吉の川酒造店の酒は、一言で言えばそう呼ぶのが相応しいように思う。
 吉の川酒造店を営む冠木家では、当主は代々「吉郎次」を襲名してきた。初代は江戸末期に分家し、油などを商っていたが、明治3年に二代目吉郎次が酒造株を取得し、酒造りを始めた。「吉の川」の名前は、吉郎次の「吉」の字をとったもので、ラベルの特徴ある髭文字も地元に愛され続けている。
 吉の川酒造店の歴史を振り返る時、特筆すべきは五代目の房八氏ではないだろうか。「うちでは代々、地元喜多方全体でよい酒造りを目指してきました」と言うのは、七代目となる冠木孝専務だ。「私の祖父である五代目も、醸造技術の向上を目指し、さらに地元の酒の改良のために尽力したと聞いています」この房八氏の努力は実を結び、吉の川に大きな名誉をもたらす。昭和11年に受賞した「名誉賞」である。この賞は、隔年に開かれていた全国の品評会で3回連続入賞した蔵元に贈られるもので、福島県内で受賞した蔵は二つしかない。「祖父がこの賞を受賞して喜多方に戻って来た時には、駅前で大勢の人が迎えられ、祝賀パレードが行われたそうです」と、冠木専務。
 吉の川の酒造りには、そんな代々受け継がれてきた情熱とこだわりが生き続けている。地方の蔵元の多くが吟醸や大吟醸などの特定名称酒に力を入れ、首都圏など広く全国にその販路を開く中で、吉の川はそのほとんどを地元、しかも喜多方で販売している。
 「地元で売る」ということは、「地元で認められる」ことである。地元の人に、毎日の晩酌に飲んでもらう酒こそが吉の川の目指す酒だ。醸造する酒の七割が普通酒であるのもそのためである。
 「地元を大事にしたい」と専務が強く意識したのは、まだ家業である酒造業を継ぐかどうか迷っていた頃のことだという。「全国どこに行っても、大阪の人がいるんですね。そして、どの大阪人も関西弁を堂々と喋り、地元大阪の食べ物などの自慢をするんです。それを見て、自慢できる故郷があるのはいいなと思いました。自慢できる故郷を作りたいと」
 吉の川では、米はほとんど地元の米を用い、それを自家精米する。もちろん水は飯豊山の恵み、豊かな伏流水だ。明治、大正時代に造られた蔵では、ほとんどの工程が昔ながらの手法で行われる。燃料こそ変わったが昔ながらの釜を用い、強い蒸気の釜でふかす。麹もすべて手作り。酵母も香りが違うという泡の立つ酵母で、その泡を消すのも人力で行う。全ての作業に手を抜くことがない。「手をかければかけるだけ、味に跳ね返ってくると思っています。また、機械では見極められない細かな部分は、やはり人間の目で見て判断することも大切です」と専務。一旦造りに入ると、蔵人は泊り込みで作業に当たるという。
 そんな、まさに蔵人が心血を注いで醸した酒は、キメの細かさと香りの良さに定評がある。
 普通酒も、酒造好適米を七割以上用いるなど、原料からして気を配る。また、純米酒は契約栽培で作られた低農薬の五百万石を原料にしており、清酒鑑評会に2年連続入賞するなどこちらも評価が高い。しぼりたて生酒原酒は、12月のまさに寒のさなかに仕込む、人気の商品である。
 「昔から『酒屋万流』と言われ、それぞれの蔵元にそれぞれの造りがあり、それぞれの味があります。酒の原料は米と水と単純ですが、二つとして同じ味の酒を醸す蔵元はありません。それだけ目に見えない部分が大きいということだと思います。私は今の造りを変えることなく、ていねいな酒造りをしていきたいと考えています」
 地元の原料をていねいに地元で醸す。そして地元の人に愛され、地元の人の誇りになる。これぞ「本当の地酒」と言えよう。

*http://www.kennan-syuhan.co.jp/brewery/024.html より

*http://uekiya-shoten.shop-pro.jp/?pid=102355374 より

 合資会社吉の川酒造店 喜多方市字一丁目4635

 ブランド一覧

 「吉の川」大吟醸・純米原酒・純米吟醸 など

 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 35. 新里ねぎ

2021-01-29 07:04:25 | 食品

 登録番号 第35号 新里ねぎ

 特定農林水産物等の区分 第2類 野菜類 ねぎ

 特定農林水産物等の生産地 栃木県宇都宮市新里町

 登録生産者団体 新里ねぎ生産組合

 特定農林水産物等の特性 軟白部が弓形に曲がった伝統野菜の曲がりねぎ。柔らかく甘みが強い。高値で取引されており、年末年始の贈答品等としても利用される。

 地域との結び付き 生産地の土壌(小石混じりの粘性質の高い黒く粗い土壌)及び気候(南側に山が少なく日照に恵まれ、また冬期の冷気を受けやすい気候)が成長の促進と甘みの増進に好適。品種や栽培方法を変えずに、江戸時代末期から100年以上にわたり継続して栽培。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i35.html より

 

 「新里ねぎ-にっさとねぎ」は、栃木県宇都宮市新里町で古く江戸時代から自家採種栽培されてきた在来種の曲がりねぎです。食味は、他の一般的な一本ねぎや近代育種技術による曲がりねぎと比べ、柔らかく、甘みが強く、青葉も美味しく、生で食べても辛味が少ないのが特徴です。在来種の新里ねぎは成長時期が遅く、11月から葉が青々として成長が加速し12月の末頃まで成長します。これも、長年この地の栽培で培われた在来種の特徴だと考えられており、食したときの柔らかさをもたらす要因と言われています。
 形状的には他の産地の一般的な一本ねぎと違って、軟白部が弓形に曲がり、葉の付け根の重なり段が狭く、また緩く重なっています。葉は柔らかく折れやすく、うろ(葉の中の透明なぬるぬる部分)が豊富です。

 「新里ねぎ」の生産は、11月頃又は2月頃に在来種の種を播いて苗を育てることから始まります。種は、産地で伝統的に栽培されている新里ねぎから、系統の特徴を残したねぎを選抜して採種されたものです。4月から5月頃になって苗が成長すると、圃場の畝に沿って1列に植え替えます。7月から9月頃になると、踏返しと言われる二度目の植え替えを行います。畝に沿って成長したねぎの直近をほり、掘った溝に沿って直立しているねぎを、根ごと溝に押し倒して斜めにして根元に土をかけます。その後成長に伴い、収穫前までに白身の部分に3回から4回土をかぶせ、弓形に曲がった軟白部をつくります。収穫は、寒さが厳しくなり甘味が増した12月から3月頃までの時期になります。

 この生産地は、凝灰岩土質の山崩れにより平地が誕生した平地で、小石混じりの粘性の高い黒く粗い土質です。水分を含んだ後乾燥すると固まってしまう粘土質のため、特に昔は鍬を使っての手作業では深く掘ることができませんでした。そのため、二回目の植え替えは、浅く掘った溝にねぎを斜めに寝かせて植えるようになりました。白身の成長と共に徐々に土をかけることで、植物が垂直に立ち上がろうとする性質と相まって、軟白部が弓形に曲がった形となります。「新里ねぎ」の植え替えは2回行われることになりますが、植え替え後、外葉が枯れ内側から新しく葉が成長するため、新しい細胞組織は柔らかい状態になります。このように「植替え」と「曲げる」という栽培でのストレスを受け、新里ねぎは甘味と柔らかさを増すと言われています。
 また、この土質は肥料の養分を植物が吸収しやすいものであり、土に混じった小石の保温効果により、冬期の土温を高く保つことができるため、成長を促していると言われています。
 地形的には、南側に山が少ないため日照時間が長くなり、冬期の成長には好条件です。また、降雪凍結した日光連山の冬期の冷風を受けやすい地形のため、夜間の冷気でねぎの甘味が増す条件にもなっています。

 新里ねぎは、伝統的な品種・栽培方法を守り、江戸時代末期より、採種から収穫まで生産地で行われてきています。元々は自家用として栽培されていたようですが、戦後になり贈答用や青果市場出荷用として栽培量が増えて、その美味しさが地域を超えて知られるようになっていきました。
 その後、栽培しやすい品種のねぎの登場で生産が伸び悩んだ時期もありましたが、2010年頃より、新里ねぎの価値が再度広く一般に知られるようになりました。農産物直売所や道の駅の売店等において高価格で取引されることから、若手の生産者が増え、新里ねぎの生産量も増えてきています。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/35.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 25.回答 26.出題

2021-01-29 06:57:10 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 鳶飛魚躍-えんぴぎょやく-万物が自然の本性に従って、自由に楽しんでいることのたとえ。また、そのような天の理の作用のこと。また、君主の恩徳が広く及び、人々がその能力などによって、それぞれ所を得ているたとえ。鳶が空に飛び魚が淵におどる意から。▽「鳶飛び魚躍る」と訓読する。

 


 問2 紫電一閃-しでんいっせん-事態の急激な変化の形容。研ぎ澄まされた剣をひと振りするとき、一瞬ひらめく鋭い光の意から。▽「紫電」は研ぎ澄まされた剣をひと振りするときにひらめく鋭い光。「一閃」は一瞬のひらめき。さっとひらめくこと。

 


 問3 窮鼠噛猫-きゅうそごうびょう-弱者でも追い詰められて必死になれば、予期していない力をだして、強者を倒すことがあるということのたとえ。猫に追い詰められて、逃げることが出来なくなった鼠は猫に噛みつくという意味から。「窮鼠猫を噛む」とも読む。

 


 問4 憐香惜玉-れんこうせきぎょく-女性をとても大切に愛でること。「憐」と「惜」は大切にするという意味。「香」や「玉」は女性のたとえ。

 


 問5 落月屋梁-らくげつおくりょう-友人を思う切ない心情のこと。「落月」は沈んでいく月のこと。「屋梁」は屋根を支えるはり、または屋根のこと。中国の詩人杜甫が江南に流された友人の李白を思い、「家の屋根に落ちかかる月に君の面影を見た」と詩を詠じたことから。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 鎧袖一触

 

 問2 甑塵釜魚

 

 問3 吉祥悔過

 

 問4 蓮華往生

 

 問5 雷轟電撃

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より 

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 秋田 樺細工

2021-01-29 06:48:55 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「樺細工」

 「樺細工(かばざいく)」は、日本の伝統的な木工工芸品。桜の樹皮を利用して作られるものであり、茶筒や小箱、煙草入れなどに利用される。樺細工という名前であるが、実際に樺類が利用されることはない。*Wikipedia より

*https://kougeihin.jp/craft/0603/ より

 

 樺細工って何?
 ヤマザクラ類の樹皮を用いて作られる工芸品を樺細工(かばざいく)といいます。独特の技法によってヤマザクラの樹皮特有の光沢を生かした、渋くて奥深な色合いが、名実ともに伝統的工芸品として広く愛用されています。代表的な製品として茶筒・茶櫃等のお茶道具類、文箱、茶だんす、ブローチ、タイピンなどがあります。

 サクラの皮なのに樺?
 ヤマザクラの樹皮を使うのにどうして「樺細工」というのでしょうか。「樺」の字から白樺を連想されるの方がいらっしゃいますが、使っている材料はオオヤマザクラ及びカスミザクラの樹皮だけです。どうして「カバ細工」と言うようになったのかはいろいろな説があり、はっきりしたことはわかりません。角館でも、むかしは「サクラカバ」と呼んでいたのが、今ではカバといえば桜の樹皮をさすようになりました。桜皮を使っていることをわかりやすく示すために、「桜皮細工」と書いて表示している場合もあります。

 樺の語源は、古く万葉集の山部赤人の長歌にたどることができます。ここではヤマザクラを「かには(迦仁波)」と表現しているが、これが後に「かば(樺)」に転化したものと思われます。 またヤマザクラを樺とした使用例は、万葉集以後早くも平安中期、紫式部が著した「源氏物語 幻」の一節に見られます。

 「外の花は、一重散りて、八重桜咲く花盛り過ぎて、樺桜は開け、・・・」

 この樺桜は白色単弁、開花時期から推察してカスミザクラと考えられますが、いずれにしろ、この時代山桜を樺と言い表していたと想像される史料のひとつです。

 以上のようなことを考え合わせると樺という字には山桜の意味が包含されており、この皮を原材料にして作った工芸品が樺細工です。

 樺細工に使用される語源やサクラの種類
 樺細工の歴史
 角館の樺細工は、天明年間(1781~1789)にかけて佐竹北家の手判役、藤村彦六によって御処野家(現在の合川町鎌沢)から伝授されたことから始まりました。藩政期は藩主の手厚い庇護があり、下級武士の手内職ではありましたが、侍らしく妥協を許さない一品入魂の作風で、印籠、眼鏡入、根付、緒締などの製作を手がけました。

 明治以降は、有力な問屋の出現が樺細工を安定した産業に導いていきました。特に長松谷商店は販路拡張、製品の大量生産化、工具の改良などで産業の底上げを図りました。また職人育成にも力があり、経徳斐太郎、黒沢清太などは、その後の時代に影響を与えた、「木地もの」という技法を確立しました。

 大正期以降は名工「小野東三」が時代をリードしていきました。特に昭和17年からの3年間、柳宗悦らの指導のもと、優秀な弟子たちと臨んだ日本民芸館における伝習会での成果は、今日の樺細工の礎を築いたといっても過言ではありません。

 *https://www.city.semboku.akita.jp/sightseeing/densyo/kaba.html より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-秋吉敏子

2021-01-28 07:53:08 | MUSIC

 「現役ミュージシャン」などという括りにしていいものかと悩んだ「音楽家」もたくさんいます。

もちろん、まだまだたくさんのミュージシャン・音楽家がいるわけですが、やはり外せない人をちょっと年齢的には上になりますがご紹介を。決して忘れていたわけではありませんのであしからず(笑

 

 「秋吉敏子」

  1929年12月12日生まれの91歳!

 

 秋吉敏子:ジャズ史に輝くピアニスト・作曲家 音楽 文化 2018.11.15 小川 隆夫 

 日本人でただ一人、ジャズ界最高の栄誉とされる「ジャズマスター賞」を受賞した世界的なジャズピアニスト。1956年に単身渡米し、以来米国を拠点に精力的な活動を続けている。

 いまや日本のジャズミュージシャンも世界を股にかけて活躍する時代になった。しかしそれは比較的最近の話で、1950年代から60年代にかけてそんなことはあり得なかった。その時代、唯一と言っていい存在がピアニストの秋吉敏子だった。

 本格的なジャズに開眼
 1929年12月12日に満洲・遼陽で生まれ、小学1年生でピアノを習い始めた彼女は、終戦後、大分県に引き揚げ、16歳の時に別府の駐留軍キャンプでジャズピアニストとしての活動を開始する。仲間のミュージシャンに勧められて上京したのが48年のこと。その頃の東京には、終戦後ということであちこちに駐留軍のキャンプがあった。そこでは夜ごとにさまざまなエンターテインメントが提供され、楽器が弾けるならいくらでも仕事があった時代だ。その中で彼女ももまれていく。

 「バンドはたくさんありました。今のようなフリーランスの時代じゃないから、ミュージシャンは一つのバンドに属しているわけです。いろいろなところにダンスホールがあって、日本人用、アメリカ人用という具合に数が多かった。だから、それだけミュージシャンが必要だったのだと思います。ほとんどが海軍や陸軍の軍楽隊出身。そういう連中の若い人、それと昔、上海あたりのボートで演奏していたミュージシャンたちが親玉みたいな感じでやっていた時代です」と秋吉は当時を振り返る。

 しかしそうした仕事に飽き足らず、秋吉は米国から届けられた最新のレコードを聴きながら、本格的なジャズの演奏に開眼していく。

 日本では、ダンス向けのスウィング・ジャズに人気があり、戦時中に米国で登場したビバップと呼ばれるモダン・ジャズには関心の目が向いていなかった。ミュージシャンにも、それがどのような理論と仕組みで演奏されているのか分からない。まさに手探りの状態で、秋吉を中心とした一部の熱心なミュージシャンは、最新の輸入盤が置かれているジャズ喫茶に通い、それらのコピーに励んでいた。ところが、「そういう演奏はお客さんに受けない。だから、何度も店をクビになった」そうだ。

 それでも秋吉はめげない。最新のジャズを演奏するグループとして彼女が結成したコージー・カルテットには若き日の渡辺貞夫もその後に参加することになる。「お金にはならなかったけれど、好きな演奏ができる喜びの方が大きかった」

 オスカー・ピーターソンとの出会い
 秋吉に大きなチャンスが巡ってきたのは、1953年に「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」と呼ばれるライブイベントが開催され、超一流のミュージシャンによる一座が米国から来日した時だ。その中の一人が、人気ピアニストのオスカー・ピーターソンである。

 「当時の日本にはジャズを聴かせる場所がなかった。みんなダンスホールでしたから。53年10月に日本で最初のライブハウス、いわゆるジャズ喫茶が西銀座にオープンして、名前がテネシー・コーヒーショップ。その店に自分のバンドで出ていて、渡辺貞夫さんがまだ10代で、私のところに入ったばかりの時です」

 そこに遊びに来たのがピーターソンだった。

 「彼は私の演奏をすごく気に入ってくれて、それで彼のプロデューサーであるノーマン・グランツに推薦してくれたんです。その結果、レコーディングの運びになりました」

 こうして生まれた『アメイジング・トシコ・アキヨシ』が米国で発売されたことにより、秋吉はバークリー音楽院(現・バークリー音楽大学)に奨学生として留学する。


 「54年にレコードが向こうで出たんです。当時、日本人がジャズを演奏すること自体珍しいし、それも女の子となるとましてや、ですよ。それで、端的に言ってしまうと、学校が宣伝材料で呼んでくれたんです。あのころのバークリーは340人ぐらいの小さな学校ですから、生徒を増やすには宣伝が必要だと。だから、レコードが出ていなかったらダメだったと思います」

 とはいっても、それだけの実力があったからこその留学である。秋吉の言葉通り、日本の若い女性が激しくビバップを演奏する姿は注目を集め、本場でも大きな話題を呼ぶ。留学中から、彼女は「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」や、学校があるボストンの人気クラブ「ストーリービル」などに出演し、キャリアを重ねていく。卒業後は拠点をニューヨークに移し、本格的な活動を開始している。

 「自分のトリオとカルテットが中心で、あとはベースの巨匠として知られていたチャールズ・ミンガスのグループなどで演奏していました」

 ジャズ界の最高栄誉に輝く
 次なる転機が訪れるのは、1973年に夫のルー・タバキンと秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドを結成した時だ。

 「ルーはテレビの『トゥナイト・ショー』で演奏するようになっていたんです。ある時、番組の収録場所がニューヨークからロサンゼルスに変わったので、私たちも移ったわけです。ロサンゼルスにはスタジオ・ミュージシャンが多く、ジャズがあまり盛んではなかった。でも、ミュージシャン・ユニオンの建物の中にリハーサルルームがあって、これが50セントで3時間借りられる。安いでしょ? 私は67年にニューヨークのタウンホールで自主コンサートをやったんですが、その時ビッグバンド用に5曲を書き下ろした。そのことをルーが知っていて、『自分がミュージシャンを集めるから、君の曲でもやってみよう』というわけね。そういうことでビッグバンドが始まったけれど、最初、このバンドで仕事をしようという考えは誰にもなかった。でも私たちの演奏が人の噂(うわさ)になって、だんだん仕事が来るようになりました」

 秋吉は、原則的にこのビッグバンドで自作の曲しか演奏しない。そこに作曲家としての自負と自信がある。日本で大きなセンセーションを呼んだビッグバンド1作目の『孤軍』は、やや遅れて海外でも発売される。これがさまざまな賞を受けたことで、世界中のコンサートに呼ばれるようになった。


 以後は、世界中で精力的な活動を重ね、99年には日本人でただ一人「国際ジャズ名誉の殿堂」入りを果たし、2006年にはジャズ界で最高栄誉となる全米芸術基金の「ジャズ・マスター賞」を受賞している。そして今年米寿を迎えた秋吉は、とどまることを知らない創造性でいまも多くのファンに素晴らしい演奏を聴かせている。

*https://www.nippon.com/ja/features/c03708/ より

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<日本酒> 福島 会津宮泉/宮泉銘醸

2021-01-28 07:51:28 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(仙台国税局)】
 〈福島〉 会津宮泉/宮泉銘醸

 

 「冩樂」と「會津宮泉」の両銘柄で「SAKE COMPETITION」純米酒部門1位に輝く!福島県・宮泉銘醸の躍進に迫る 2018.12.14

 

 数ある日本酒コンテストのなかで、もっとも出品数の多い「SAKE COMPETITION」。全8部門のうち、最大の出品数があるのは純米酒部門です。

 数多の酒蔵がしのぎを削る純米酒部門で、1位を2度、しかも二枚看板である「冩樂(しゃらく)」「會津宮泉(あいづみやいずみ)」の両銘柄で栄冠を獲得したのが、福島県会津若松市にある宮泉銘醸です。

 栄光の背景にはどんな努力があったのでしょうか。現地で探りました。

 現在の状態とはかけ離れていた
 昭和30年に宮森啓治酒造場として創業した宮泉銘醸は「會津宮泉」を主力銘柄とした酒造りを続けてきました。

 3代目・宮森泰弘さんの長男として生まれた現社長の義弘さんは、若い頃から跡を継ぐつもりでした。ただ当時は、酒造りを杜氏に一任し、自分は経営を見ていればいいという気持ちだったそうです。

 大学を卒業してすぐに実家へ戻るつもりでしたが、父の泰弘さんは「まだ帰ってくるな」の一点張り。ようやく「帰って来い」という連絡があったのは、義弘さんが26歳の時でした。

 蔵に帰ってみると経営状態は芳しくなく、何年も赤字が続いていました。当時の生産量はわずか180石。設備の老朽化は著しく、毎年同じ普通酒をただ漫然と造っている状況でした。

 また、酒造りに使用する米は一般加工米や等外米で、農家の顔が見えるような米は皆無だったそうです。

 出品酒の技術を反映させた市販酒を造りたい
 作業中の写真義弘さんは帰郷する直前、日本各地のお酒を飲む機会があったそうで、実家のものとは比べ物にならないほどの美酒に出会い、衝撃を受けました。

 そのひとつが、同じ福島県にある廣木酒造本店の「飛露喜」でした。

 同郷の酒蔵が素晴らしいお酒を造っていること、さらに、蔵元自身が杜氏を兼任していることを知り、義弘さんも「酒造りを学んで、みずから酒質設計をしなければならない」という思いを募らせます。

 その後、福島県清酒アカデミーで3年間、勉強しました。

 それまでにも全国新酒鑑評会で何度か金賞を獲得していた宮泉銘醸ですが、「出品酒で培った技術が他のお酒にまったく反映されていない。出品酒の造りで学んだ知識をすべて投入した市販酒を造って、世に問いたい」と義弘さんはさらに思いを強めていきます。

 そして2007年のシーズンから、純米酒と純米吟醸酒をみずからの手で造ることにしたのです。

 「冩樂」を引き継ぎ、蔵の改革へ
 冩樂と會津宮泉のボトル酒造りをすると決めたものの、どんな味わいのお酒を造るかは手探りだったといいます。

 「昔から淡麗辛口の日本酒が苦手で、醸造アルコールを強く感じる普通酒も飲めませんでした。当時の會津宮泉のようなお酒は敬遠していたんです。結局、口に合ったのは『飛露喜』や『十四代』でした。ただ、すべてを真似しても個性がないので、両銘柄よりも甘味と酸味がバランス良く広がるお酒にしようと考えました」と、義弘さんは振り返ります。

 手塩にかけて醸した新商品を販売するにあたって、新しい銘柄を決めなければなりません。

 その時、同じ会津若松市にある本家筋の酒蔵を引き継いでいた会社が廃業することになってしまい、「銘柄を引き取ってほしい」という話になりました。そこで、その蔵の「冩樂」を継承し、宮泉銘醸の新ブランドとしたのです。

 同年の夏、義弘さんは福島県酒造組合が主催する東京でのイベントに新商品を持参したところ、いきなり大きな評判を呼びました。

 義弘さんは「使っている酒米などについて胸を張って説明できるのが初めての体験で、とてもうれしかったのを覚えています。多くの人に『美味しい』と言っていただき、『やり方は間違いない。あとは磨きをかけていけばいいんだ』と確信しました」と、当時の様子を思い返します。

 その後、酒造りの軸足を特定名称酒に移し、仕込みの単位を小さくするなどの改革を進める一方で、酒質向上に繋がる設備改善にも矢継ぎ早に取り組みました。

 「父がすべてを任せてくれたので、やりたいことに次々と着手することができました。醸造のみを任されて、経営は父が握っているという状態だったら、こんなスピードでの改革はできなかったと思います」

 酒質が年々向上し、売上も伸びていくのに伴い、さらなるレベルアップを求めて、蔵の建物全体を空調で管理できる状態にしました。

 搾ったお酒に火入れをする場合は急速に温度を上げて、目標の温度に達したところで急冷し、お酒へのダメージを最小限に抑えています。

 さらに、もっとも神経を使う原料米の水分量については、洗米・浸漬した直後だけでなく、翌朝に米を蒸す直前・直後にも測定し、さらに、麹室に米を引き入れた後はロードセルというセンサーで、刻一刻と変わる麹の重量を常に管理しています。

 さまざまなデータと照らし合わせながら、完成した麹の出来をチェックすることで、理想の麹が常に再現できるような体制を整えたのです。

 「會津宮泉」も育てて恩返しがしたい
 冩樂と會津宮泉の腰掛け「冩樂」がデビューした当時、「冩樂」の製造責任者は義弘さん、「會津宮泉」はそれまでの杜氏がひきつづき担うという2人杜氏の体制でした。

 しかし、「冩樂」が軌道に乗って余力が生まれてきた2012年、杜氏が北海道の酒蔵へ移籍することになりました。これを機に、義弘さんが酒造りのすべてを統括することになります。

 その頃、「冩樂」の売上が伸びる一方で、「會津宮泉」は10年前と変わらない状態でした。製造量を徐々に減らして、「冩樂」の酒蔵にしてしまう選択肢もあったそうです。

 しかし、「酒蔵の屋台骨だった『會津宮泉』を守り続けてきた杜氏や蔵人、そして蔵元への感謝を忘れてはならない。恩返しをするつもりで『會津宮泉』を『冩樂』に負けないお酒に育てる」と、義弘さんは蔵人に宣言しました。

 それから、酒造りの全行程をすべて「冩樂」と同じレベルに切り替えていったのです。

 作業中の写真義弘さんによると、現在の「冩樂」と「會津宮泉」はまったく同じレベルにあるのだとか。

 異なるのは味わいの方向性。「冩樂」は、ふくよかな甘味を酸味が下支えしアクセントをつける味わいですが、「會津宮泉」は酸味を抑え、さっぱりとした後味と旨味を出しているそうです。

 また、「冩樂」には多くのファンがいるため、味わいを再現することが重視されているのに対し、「會津宮泉」は新たに挑戦したいと思った造りを試験的に商品化するのに活用する面も強まっています。

 「冩樂」は全国の特約店のみで販売しているため、宮泉銘醸に足を運んでも直売所で購入できるのは「會津宮泉」のみ。しかし、日本酒ファンの間では「蔵に行くと、宮泉銘醸の未来を感じられるようなお酒が買える」と、密かな話題になっているのだそう。

 會津宮泉を持っている写真「冩樂」は2014年の「SAKE COMPETITION」で、純米酒と純米吟醸酒の両部門で1位に輝き、脚光を浴びました。

 そして、2018年には純米酒部門で「會津宮泉」が1位、「冩樂」が5位になりました。多くの酒蔵が主力銘柄のほかに、伝統的な地元向けの銘柄をもっていますが、それが1位に輝くのはとても珍しいことです。

 宮泉銘醸の躍進は驚くべきもので、今後、多くの酒蔵のお手本になることでしょう。

(取材・文/空太郎)

*https://jp.sake-times.com/knowledge/sakagura/sake_g_miyaizumi より

 宮泉銘醸 株式会社 福島県会津若松市東栄町 八番七号

 ブランド一覧

 「冩樂」純米大吟醸 極上二割・純米酒・純米吟醸 など

 「會津宮泉」純米酒・吟醸 など

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 34. すんき

2021-01-28 07:49:30 | 食品

 登録番号 第34号 すんき 

 特定農林水産物等の区分 第17類 野菜加工品類 野菜漬物のうち、(一)から(八)までに掲げるもの以外の野菜漬物(乳酸発酵漬物(無塩))

 特定農林水産物等の生産地 長野県木曽郡(木曽町、上松町、南木曽町、木祖村、王滝村、大桑村)、塩尻市の一部(旧楢川村)

 登録生産者団体 すんきブランド推進協議会

 特定農林水産物等の特性 木曽郡の伝統野菜である赤蕪の茎葉等を原料に無塩で乳酸発酵させた国内外でも珍しい漬物。べっこう色で乳酸由来の酸味が特徴。

 地域との結び付き 標高が高く寒さの厳しい気候・風土が赤蕪栽培に適している。塩が貴重な時代に山深い地で冬季の野菜を保存する必要があったことから、塩を一切使わない製法が発達。300年以上続く木曽地域の伝統食。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i34.html より

 

 「すんき」は、長野県木曽郡に古くから伝わる伝統食で、この地域の伝統野菜である赤蕪の茎葉若しくは茎葉と葉の付け根部分にあたる胚軸の一部を原料として、複数の植物性乳酸菌によって発酵させる、国内外でも極めて珍しい無塩の乳酸発酵による漬物です。

 「すんき」の外観は、長野県で良く漬けられる野沢菜漬けに似た、べっこう色をしています。赤みを帯びた胚軸の一部を刻んで入れるため、その赤みによって漬け汁が薄いピンク色を呈している場合もあります。
 乳酸菌発酵による独特の酸味があり、そのまま食することもありますが、木曽郡では古くから、味噌汁に具としてすんきを入れた「すんき汁」や、温かいそばの上にすんきをのせた「すんきそば」が食べられています。
 また「すんき」は、木曽郡では古くから健康維持に効果があると言われており、最近では、整腸作用や抗アレルギー作用などの機能性が注目され、研究が重ねられています。1950年に世界初となる「すんき」の乳酸菌についての論文が発表されて以来、栄養成分や機能性等についての研究が行われ、その乳酸菌の免疫調整機能や疾病予防作用が報告されています。

 「すんき」の作り方は、赤蕪の茎葉若しくは胚軸の一部を湯通しし、「すんき種」を加えて漬け込みます。「すんき種」は乳酸発酵のスターターであり①前年に製造したすんきを冷蔵、冷凍、又は乾燥したもの、②前年に製造したすんきの漬け汁を冷蔵したもの、③すんきから分離培養された4種類の乳酸菌を利用します。漬け込んだ後、概ね1日後までは保温した状態を保ち、良好な発酵が確認されたら冷涼な場所に置いて、じっくり発酵させます。
 最初の漬け込みにはすんき種を利用し、出来上がった「すんき」を種としてさらに漬け込みを行う作業を数回繰り返して、漬け込み量を確保します。

 発祥の地である木曽郡木曽町開田高原及び木曽郡王滝村は標高が1000m~1300mと高く、年平均気温がそれぞれ7.4℃、10.5℃と寒さの厳しい地域であり、原料となる赤蕪の品質にも影響を与えていると考えられます。特に、収穫期を迎える直前の10月終わりから11月頃に、赤蕪畑に2、3回、霜が降り霜に当った赤蕪が、美味しいすんき作りには重要であると経験的に知られています。
 「すんき」は江戸時代から今日に至るまで日常的に食されてきた伝統食ですが、かつて塩が貴重な時代に、山深い信州木曽の地で冬に不足しがちな野菜を保存するために、塩を一切使わず、乳酸によって保存性を高める食品として発達したと考えられています。元々家庭の味として伝承されてきた「すんき」ですが、1972年には地元の農業協同組合が販売を開始し、地域資源として広く見直されるようになった1985年ころから、木曽郡内の農産加工組織等によって「すんき」が広く商品化されるようになりました。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/34.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 24.回答 25.出題

2021-01-28 07:41:25 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 栄耀栄華-えいようえいが-財産や権力を得て、ぜいたくの限りを尽くすこと。また、おごりたかぶること。

 


 問2 改弦易轍-かいげんえきてつ-意味 法律や制度を変えること。「改弦」は弦楽器の弦を張りかえて調子を改めること。「易轍」は車輪の軸幅を変えること。「弦を改め轍を易う」とも読む。「改絃易轍」とも書く。

 


 問3 自家撞着-じかどうちゃく-同じ人の言動や文章などが前後で矛盾していること。自分で自分の言行に反することをすること。▽「自家」は自分、自分自身のこと。「撞着」は突き当たること。矛盾すること。「撞着」は「とうちゃく」「どうじゃく」とも読む。「着」は「著」とも書く。

 


 問4 鳩首凝議-きゅうしゅぎょうぎ-人々が集まり、額を寄せ合って熱心に相談すること。▽「鳩」は集める意。「鳩首」は頭を集めることで、人々が集まり額を突き合わせる意。「凝議」は熱心に議論すること。「凝」はこらす、集中する意。

 


 問5 鴻雁哀鳴-こうがんあいめい-流浪の民が、その苦しさを訴えることのたとえ。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 鳶飛魚躍

 

 問2 紫電一閃

 

 問3 窮鼠噛猫

 

 問4 憐香惜玉

 

 問5 落月屋梁

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より 

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