いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

GINZA SIXにみる商業施設の崩壊

2021-01-20 16:09:25 | 米屋の親父のつぶやき

 「GINZA SIX」のテナントが大量閉店というニュースが流れた。

 2020年12月27日から2021年1月19日にかけて、19店舗が閉店と。

 さらに、「約40店舗のOPEN情報を1月下旬にお知らせいたします。ご期待くださいませ」と案内されている。

 

 「GINZA SIX」は、2017年4月20日グランドオープンした。

 元は「松阪屋銀座店」。「老朽化&再開発」のためとはいえ、やはり「商業施設は松阪屋を中核」とみられたが、「松阪屋」は撤退に。

 まぁ「百貨店の衰退」を象徴するものだったが・・・。

 

 ネットでは「松坂屋銀座店を懐かしむ声」があるというが、それなら「存続のため」にいっぱい買い物したとでも言うのか?(笑

 客離れ・百貨店離れが大勢を占める中、なんとも無責任な発言だこと(笑

 

 19店舗以外にその期間以外に閉店したお店もあったってこと?約40店舗がOPENさせる予定なのだから・・・もしかして「区画」を切り刻んで「小型店舗」としてOPENさせるのか?

 

 「コロナ禍」で一気に「高い家賃」の物件では全国各地で起こっているであろう話。

 これは「氷山の一角」とみて間違いないだろう。

 それでなくても「人ごみ」のある商業施設から足が遠のいているので、「見て回る」わけにもいかず確認できないが(笑

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<言 葉> 「黙○」

2021-01-20 09:27:16 | 言葉

 「黙」がつく言葉はたくさんある。

 

 「黙座・黙坐」-だまったまますわっていること。

 「黙殺」-無視して取り合わないこと。

 「黙止」-黙ったままでいること。

 「黙示」-1 暗黙のうちに意思や考えを表すこと。 2 隠された真理を示すこと。特に、キリスト教で、神が人意を越えた真理や神意などを示すこと。啓示。 

 「黙思」-だまって思いにふけること。黙考。

 「黙視」-だまって見ていること。関係せずに見守ること。

 「黙識」-だまって、心の中で会得すること。

 「黙従」-異議を言わずに服従すること。

 「黙然」-口をつぐんでいるさま。

 「黙想」-黙って考えにふけること。黙思。

 「黙諾」-はっきりと言葉には出さないが、それとなく承諾の意を表すこと。黙許。

 「黙祷」-無言のまま心の中で祈ること。

 「黙読」-声に出さずに読むこと。

 「黙認」-暗黙のうちに認め許すこと。過失などをそのまま見逃すこと。

 「黙念」-無言で考えにふけるさま。

 「黙拝」-無言で拝礼すること。

 「黙秘」-何も言わないでだまっていること。

 「黙々」-だまって一つの事をしつづけるさま。

 「黙約」-当事者の間で暗黙のうちに取り決めた約束。

 「黙礼」-黙って礼をすること。

 「黙過」-知っていながら黙って見すごすこと。

 「黙許」-知らないふりをしてそのまま許すこと。黙認。

 「黙契」-無言のうちに合意が成り立つこと。また、その合意。

 「黙考」-黙って考えること。

 goo辞書には上記などがある。

 「黙(る)」+「考(えたり)」「思(ったり)」「視(たり)」いろいろな動詞がついて言葉を成す。

 

 今年の新語・流行語にもしかしたらノミネートされるかも?という言葉が誕生した。

 それは・・・

 

 「黙食」

 

 「黙って食べろ!」

 いやいや命令形ではなく、「黙って食べてくださいね」という要請・協力を求める言葉である。

 これは博多市にあるカレー屋さんが「仕方なく」掲示したもの。

 小学生の頃、よく先生が「黙って食べろ!」と言っていたが、「給食の時間」は楽しいもの。友達と机を合わせて、少しはワイワイしたいものだったが・・・ やはり「行儀が悪い」や「人の食事の妨げになる」といった理由でかよく言われたものだ。

 「カレー屋」さんも苦肉の策だったようだ。

 こんなことお願いもしたくないが、これだけ「飲食店が悪者」にされ、営業を続けていくためには「店舗内で感染」は絶対避けなければなるまい。

 「黙って○○する」という言葉は前述のようにたくさんあるが、またひとつ「追加」されるかも?

 

 あっ!

 あと「黙聴」という言葉もある。

 ただし「黙って+聴く」のではなく・・・

 読み方は「だまてん」。そう麻雀用語の「だまてん」。

 意味は、《「黙」は「黙って」、「聴」は「聴牌 (テンパイ) 」の略》マージャンで、聴牌しているのにリーチを宣言しないこと。また、その状態。闇聴 (やみテン) ですのであしからず(笑

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-ローリング・ストーンズ *追記あり

2021-01-20 06:31:23 | MUSIC

 前回は78歳を迎えた「ポール・マッカートニー」でしたが、このあたりからは結構たくさんの現役ミュージシャンが今も活躍中。

 また、ソロではなく「グループ、バンド」もいます。

 今回ご紹介するのは「ローリング・ストーンズ」。

 あまりにも有名ですが、御年77歳の「ミック・ジャガー」を筆頭に「キース・リチャーズ」「チャーリー・ワッツ」「ロン・ウッド」で今も活躍中!

 

 「ローリング・ストーンズ」

 1962年4月のロンドンで結成。もう58年?

 

 ザ・ローリング・ストーンズの伝説を、5人の偉人とともに紐解く The Rolling Stones『HONK』 テキスト 柴那典 編集:川浦慧(CINRA.NET編集部) 2019/04/25

 50年以上現役で、第一線で輝き続けるロックンロールバンド。比肩する存在はどこにもいない
The Rolling Stonesがいかに偉大なバンドであるか。彼らの鳴らすロックンロールがどんな風に格好いいのか。どんな名曲の数々があって、どんな風にロックの歴史を形作ってきたのか。

 そういうことについては、この原稿では書こうとは思っていない。すでにいろんな人がそれを言葉にしている。音楽評論家だけでなく、幅広い世代のミュージシャンが「The Rolling Stonesのどんなところに憧れたのか」を語っている。その中にはTHE BAWDIESやGLIM SPANKYやOKAMOTO'Sのような若い世代のバンドもいる。そのヒストリーを詳しく解説した本やムックもある。なにより、彼らの鳴らした音を聴けば、きっとそのエネルギーがダイレクトに伝わる。

 4月19日には最新ベスト盤『HONK』もリリースされた。The BeatlesやQueenやLed Zeppelinなど歴史に語り継がれるバンドは他にもたくさんいるが、50年以上現役で、第一線で輝き続けるロックンロールバンドとして、彼らに比肩する存在は世界のどこにもいない。

 なにより、今も彼らは世界中をツアーしステージに立っている。3月には、FLORENCE AND THE MACHINEのフローレンス・ウェルチをフィーチャーした“Wild Horses“の昨年5月のライブ映像がYouTubeにも公開された。ベスト盤『HONK』のCD3枚組デラックス・エディションのボーナスディスクに収録されるライブ音源からの1曲だ。


 The Rolling Stonesは「今」のロックバンドであり続けている。彼らが体現しているのはノスタルジーではなく、その伝説は2019年の現在も日々更新されている。だから、結局のところ「彼らの鳴らすロックンロールがどんな風に格好いいのか」については、言葉を連ねるより、それを体感するのがいちばんいい。

 アート、デザイン、映画、ファッション、テクノロジーの歴史との密接な結びつきを体感する展覧会
 ここで書こうと思っているのは、The Rolling Stonesが、アート、デザイン、映画、ファッション、そしてテクノロジーの歴史と密接に結びついてきた、ということ。彼らの魅力は音楽そのものだけにとどまらず、さまざまなクリエイターを巻き込み、コラボレーションを繰り広げ、そうしてひとつの文化を作り上げてきたところにあった、ということだ。

 2019年3月15日から5月6日まで、TOC五反田メッセで『Exhibitionism-ザ・ローリング・ストーンズ展』が開催されている。筆者がそこを訪れて強く感じたのも、そういうことだった。

 同イベントは、2016年4月ロンドンを皮切りに世界主要都市で開催されてきたThe Rolling Stones初の大規模な世界巡回展。メンバーの使用楽器やステージ衣装などファン垂涎のアイテムも多数展示されていたが、とても興味深かったのは、そこを通して「ポップアートの歴史としてのThe Rolling Stones」に触れることができる、ということだった。

 The Rolling Stonesと20世紀の5人の偉人
 そこで、ここからは、何人かの重要人物の名前を挙げつつ、The Rolling Stonesが彼らとどういう仕事を成してきたかを辿っていきたい。

 最初の重要人物はグラフィックデザイナーのジョン・パッシェ。彼の名前を知らなくても、The Rolling Stonesのシンボルである「ベロマーク(Lips and Tongue)」にピンとこない人はいないだろう。世界でもっとも有名なロゴマークのひとつとも言えるあの唇と舌のデザインを担当したのが彼だ。

 あのマークが最初に世に登場したのは1971年に発表されたシングル『Brown Sugar』でのこと。当時のジョン・パッシェはまだ美大生だった。彼を見出したのがミック・ジャガー。ミックと、ミュージシャンになる前には広告会社でグラフィックデザイナーとして勤めていたという経歴を持つチャーリー・ワッツがメンバーにいたからこそ、バンドは音楽だけでなくアートやデザインにも類まれなるクリエイティビティーを発揮することになった。

 ジョン・パッシェは、デビュー当時所属していたデッカ・レコードとの契約が終了しバンドが設立した「ローリング・ストーンズ・レコード」のために依頼され、ミック・ジャガーの印象的な口元にインスピレーションを受けてロゴを考案する。当時はこんなに歴史に残るデザインになるとは思ってもいなかっただろう。

 20世紀のポップアートを代表するアーティスト、アンディ・ウォーホル
 2人目はアンディ・ウォーホル。20世紀のポップアートを代表するアーティストである彼は、The Rolling Stonesとも数々の仕事を共にしている。中でも有名なのは1971年のアルバム『Sticky Fingers』のジャケットだろう。ジーンズを穿いた男性の股間のクローズアップに本物のジッパーを取り付け、その中にはブリーフを穿いた男性の股間の写真が封入されているデザインは、大きな反響を呼んだ。

 それ以前にも彼らとは深い交流があった。1960年代当時にアンディー・ウォーホールが活動していたニューヨークのアトリエ「ファクトリー(The Factory)」には、ミック・ジャガーやルー・リード、ジム・モリソン、ボブ・ディランなども頻繁に集い、たびたびパーティーが開催されていたという。

 世界の映画界に大きな影響を与えてきた、ジャン=リュック・ゴダール
 3人目は、ジャン=リュック・ゴダール。世界の映画界に大きな影響を与えてきた彼も、The Rolling Stonesを題材にした作品を監督している。それが1968年に公開されたドキュメンタリー映画『ワン・プラス・ワン』だ。

 アルバム『Beggars Banquet』(1968年)に収録された“悪魔を憐れむ歌”のレコーディング風景をカメラに捉え、その過程と当時の時代性を象徴する数々の政治的なアジテーションが交錯するかのように描かれた本作。映像の中には、この1年後にバンドを追われ、非業の死を遂げることになるブライアン・ジョーンズの姿も収められている。

  4人目はマーティン・スコセッシ。数々の名作に携わり、The Bandの『ラスト・ワルツ』など音楽ドキュメンタリーも手掛けてきた映画界の巨匠も、The Rolling Stonesをフィルムにおさめている。その作品は2008年に公開された『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』。収容人数2800人の劇場「ビーコン・シアター」を舞台にThe Rolling Stonesが行ったライブの模様を舞台裏も交えて収録したドキュメンタリーだ。ゲストに登場したのはバディ・ガイ、ジャック・ホワイト、クリスティーナ・アギレラ。すでに「大御所」としてシーンに君臨するようになった時代のThe Rolling Stonesが、どんな風にひとつのライブをドラマにしているかが描かれる。

 そしてもう1人は、ビル・ゲイツ。マイクロソフトを率いた彼が「Windows 95」をリリースした時に、グローバルなプロモーションのために起用したのがThe Rolling Stonesの“Start Me Up”だった。


 それまでThe Rolling Stonesの楽曲が企業広告に使われたことは一度もなかったが、ビル・ゲイツがミック・ジャガーに電話で直談判して契約が決まったと言われている。

 彼らは誰よりも先に最先端のテクノロジーと蜜月関係を結んだロックバンドでもあった。まだ回線も貧弱で、一部の大学と企業でしかインターネットが使えなかった1994年の時点で、The Rolling Stonesはテキサス州ダラスのライブのインターネット生配信を試みている。

 こうして見ていくと、The Rolling Stonesが、単なるひとつのロックンロールバンド以上の存在感を持っていること、その足跡が、20世紀から21世紀にかけてのポップアートとテクノロジーの歴史と直結しいることがわかるだろう。

 彼らがデビューした1960年代当時は、まだロックが若者たちの反抗の象徴として勃興していた頃である。その頃から、アートとデザインの力でロックンロールバンドを強力な「ブランド」として育て上げる発想を誰よりも先に持っていたのがThe Rolling Stonesというバンドだった。

 だからこそ、1960年代から1970年代にかけて「伝説」となったその後も、2010年代の今に至るまで現役でキャリアを積み重ね、自身を新しく更新し、今も第一線で居続けるのだろう。

*https://www.cinra.net/column/201904-therollingstones より

 

 「ミック・ジャガー」-ボーカル

  1943年7月26日生まれの77歳

 「キース・リチャーズ」-ギター

  1943年12月18日生まれの77歳

 「チャーリー・ワッツ」-ドラマー

  1941年6月2日生まれの79歳←最年長!

 残念ながら2021年8月24日逝去されたと。ご冥福をお祈りします。 

 「ロン・ウッド」-ギター

 1947年6月1日生まれの73歳

 

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<日本酒> 福島 さかみずき/たに川酒造

2021-01-20 06:23:20 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(仙台国税局)】
 〈福島〉 さかみずき/たに川酒造

 

 福島県郡山市の中心部郊外に蔵を構える若関酒造は幕末に近い文久年間(1861-63)創業で、蔵元は代々「平四郎」を襲名する老舗蔵でした。やがて昭和36年に福島県中通りにある「菊酒銘醸」、「たに川酒造」、「小泉酒造」の3社が共同瓶詰め会社を設立し、今に至ります。
酒銘の「さかみづき(酒みずき)」とは万葉集に登場する大伴家持の長歌の一節に由来し、「酒の宴」を意味します。

薄いコハク色で野趣的な芳醇な香り、どっしりとした飲み口は吟醸酒というよりも純米酒それも山廃造りのそれに近い雰囲気ですが、旨口で後味もやさしく、ゆるやかなキレで着地します。全体的にまとまりがあり、地酒特有の独特な個性が好きな方には盃がとまらないと思います。ちょっと個性がありますが、おいしいお酒です。

*https://tztom.exblog.jp/17681628/ より

 

 蔵の歴史は、文久年間の創業に遡る。社長は代々「平四郎」を襲名、現社長は六代目となる。ずっと、地元に愛される酒を醸し続け、昭和36年に県内中通りの蔵元3社が瓶詰め部門を協業化し、現在の会社の形になったそうである。
 「若関」の銘柄は、いつまでも雄々しく酒造業界に躍進したいという願いを込めて付けられた名前。一方、吟醸酒などに冠する「さかみずき」の名は万葉集に登場する大 伴家持の長歌の次の一節に由来する。

   ほととぎす 来鳴く五月の
   菖蒲草 蓬縵き 酒みづき 遊び慰ぐれど

    (ほととぎすが来て鳴く五月の
     あやめ草や蓬(よもぎ)を髪飾りにして、
     酒を飲み、遊んで気分を紛らわ そうとするが・・)

 「酒みづき」とは酒宴のことだという。美しい響きの言葉だ。
 今でこそ地産地消が声高に謳われ、多くの酒蔵が地元にこだわる酒造りを行う中で、山田社長はもう一歩突っ込んだ地元へのこだわりを目指す。「現在、蔵で働く従業員はすべて地元の人です。
 村松杜氏も郡山市湖南町の生まれ。長年酒造りを経験し、さらに県の酒造アカデミーで杜氏の技術を学びました。地元のことを良く知り、地元を愛する人の手で地元の酒を造っています」
 若関酒造の酒に使われる水は、阿武隈山系の湧水を引いた井戸水。近くには宇津峰山の山中に「御井戸 の清水」があり、名水の誉れ高い。聞けば酒造業の前には製糸業を営んでいた歴史もあるそうで、なるほど水に恵まれた場所であることに間違いはない。
 また精米など酒造りの工程において、随所で細かな管理を徹底している。「一つ一つの作業を、自分達の目と手が届く範囲で丁寧に行っています」その丁寧さは酒造りはもちろん、その先の流通に至るまで行き届く。配送に用いる梱包材の再利用など、できる限り手をかけ、心を配る。
 「言い尽くされた言葉かもしれませんが、『和醸良酒』こそ酒づくりの原点だと思います」と、山田社長は言う。「酒づくりにおけるすべての環境、米や水などの原料はもちろん、造り手の気持ち、造り手同士の意思の疎通など、あらゆるものが良い状況にあり、そして、楽しく酒造りができれば、まちがいなく良い酒が生まれます。お米一つをとっても、飯米にならずに縁あって当社に来て若関の酒になるんです。そういう縁を考えると、大切にしよう、いいお酒にしようと思うんです。人も物も同じです。あらゆるものとの縁を大切にしたいと思っています」

 若関酒造の酒は、飲み方や食との組み合わせも大切にしている。たとえば若関の普通酒は冷でも燗でも飲みやすい飲み口。洋食にも合わせられるといい、業務店などでも広く利用されている。また、吟醸「さかみずき」は吟醸酒ながらぬる燗もおすすめとのこと。その他、こちらも年間を通して幅広い利用のある生貯蔵酒など、多彩な商品が揃う。それぞれ飲み方のアドバイスなども行いながら、消費者のニーズに応え、より愛される酒づくりを目指している。

 山田社長は現在、郡山酒造協同組合の理事長を務める。加盟6社のセット商品の販売やイベントの開催など、地元の日本酒の普及を目指している。そんなイベントの中でも地元食材を使った料理を出すなど、食と酒との組み合わせを大事にする。

 「酒は主役でなくていいと思っています。料理を引き立て、場を盛り上げる脇役でいいんです。食との組み合わせも、こうでなければならないということでなく、むしろどんどん新しいことに挑戦していいんです」山田社長は、食生活も含めてお酒の復活を目指していきたいと言う。

*http://www.kennan-syuhan.co.jp/brewery/043.html より

*https://item.rakuten.co.jp/marp-mori/1018526/ より

 たに川酒造株式会社 福島県郡山市田村町谷田川町大田113

 ブランド一覧

 「さかみずき」大吟醸・吟醸酒 など 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 26. 米沢牛

2021-01-20 06:12:35 | 食品

 登録番号 第26号 米沢牛


 特定農林水産物等の区分 第6類 生鮮肉類 牛肉

 特定農林水産物等の生産地 山形県置賜地域(米沢市、南陽市、長井市、高畠町、川西町、飯豊町、白鷹町、小国町)

 登録生産者団体 米沢牛銘柄推進協議会

 特定農林水産物等の特性 

 (1)品質
  米沢牛は、出荷時の月齢が生後32か月以上の黒毛和種かつ未経産雌牛の牛肉である。その品質は、公益社団法人日本食肉格付協会の「牛枝肉取引規格」による格付結果において、肉質等級3等級以上である。

 (2)社会的評価
  米沢牛は、品質の高さ、食味の良さから、しばしば日本三大和牛と称されるが、その背景には、長きにわたる伝統の蓄積がある。
 明治初期に米沢市内に最初の牛肉店が開店されて以来、米沢牛は、その品質が高く評価され、おもてなし料理のための肉として扱われてきた。現在でも、米沢周辺に訪れる観光客は、米沢牛のステーキ・すき焼き・しゃぶしゃぶを楽しみにするほどの目玉商品となっている。また、明治32年の奥羽本線開通に伴って米沢駅で販売開始された米沢牛駅弁は、これまで120年の歴史を経た現在でも販売され、高い人気を博している。このように、米沢牛は消費者の間に広く認識され、我が国の牛肉食の文化における存在感は小さくない。
  米沢牛の社会的評価の高さを反映する指標としては、取引価格がある。東京都中央卸売市場食肉市場の和牛めす枝肉(A4、A5)平均価格と比べると、米沢牛のそれは、2割程度高い(平成25~27年度)。
  さらに、民間調査機関による百貨店・スーパーの牛肉仕入れ担当バイヤーを対象にした調査によれば、米沢牛の「品質」と「味」は、国内主要ブランド牛の中において、高い評価(品質:2位、味:3位)を受けている。(日経リサーチ調べ。平成27年11月30日 日経MJより)

 地域との結び付き -

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/26.html より

 

 「米沢牛」は、山形県置賜地域を生産地とする、出荷時の月齢が32か月以上の黒毛和種かつ未経産雌牛の牛肉で、その品質は、「牛枝肉取引規格」による格付において肉質等級3等級以上です。品質の高さ、食味の良さから、しばしば日本三大和牛と称されますが、その背景には、長きにわたる伝統の蓄積があります。
 明治初期に米沢市内に最初の牛肉店が開店されて以来、米沢牛は、その品質が高く評価され、おもてなし料理のための肉として扱われてきました。現在でも、米沢周辺に訪れる観光客は、米沢牛のステーキ・すき焼き・しゃぶしゃぶを楽しみにするほどの目玉商品となっています。また、1899年の奥羽本線開通に伴って米沢駅で販売開始された米沢牛駅弁は、長い歴史を経た現在でも販売され、高い人気を博しています。このように、「米沢牛」は消費者の間に広く認識され、我が国の牛肉食の文化において確たる存在感を得ています。市場においては2割程度高く取引されており、社会的評価の高さが反映されていると言えます。

 明治維新により米沢藩は廃止され米沢県となり、初代県知事上杉茂憲は、1871年、興譲館(こうじょうかん)に英国人教師チャールズ・ヘンリー・ダラス氏を招き、英語・地理を教授させました。「興譲館」は、米沢藩第九代藩主上杉鷹山が開校した藩校です。4年後にダラス氏が任期を終え米沢を離れる際に、添川村(現在の飯豊町)産の一頭の牛を横浜居留地へ持ち帰りました。その牛肉を味わった人々がその旨さを口々に褒め称えたことから、ダラス氏は米沢の家畜商と横浜の問屋を契約させ「米沢牛」として売出しました。これが評判となり「米沢牛」が全国に知れわたる端緒となりました。
 また、ダラス氏の勧めで1875年に米沢市内に最初の牛肉店が開店して以来、多くの牛肉販売専門店が次々と開業しました。明治以降、米沢では絹織物が産業として興っており、京、大阪など関西地方から織物の買い付けに訪れた商人を相手に米沢牛の「牛鍋」をご馳走することが多かったと伝えられています。牛肉の味に慣れていた関西の人々を魅了したことが、米沢牛の評判を全国的に広めるきっかけになったと考えられます。
 明治中頃(1890年代)までには、米沢及び周辺に放牧場やと畜場が設置されるなど、産業としての米沢牛の生産が軌道に乗り、大正初期(1910年代)には年間300頭を超すと畜頭数となりました。このように、米沢の地において米沢牛の需要が伸びたことにより、米沢周辺で肉牛肥育が盛んになっていきました。
 1978年12月、置賜地域の肉牛生産者の肥育技術の研鑽・向上を図るため、「置賜牛枝肉共進会」が初めて開催され、現在も「米沢牛枝肉共励会」と「米沢牛枝肉共進会」に分かれた形で継続しています。
 1980年代、肉牛の取引は、主流であった生体取引から、枝肉取引に次第に移行する中、1988年、米沢牛の安定的な東京食肉市場への枝肉出荷に向け「米沢牛出荷組合」が結成されました。さらに1992年には、米沢牛の更なる銘柄確立のため、行政・関係団体一体となって「米沢牛銘柄推進協議会」が発足し、米沢牛の統一基準が定められました。このような活動に支えられ、「米沢牛」の地域ブランドとしての信頼性が確立されています。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/26.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 16.回答 17.出題

2021-01-20 06:00:07 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 氷消瓦解-ひょうしょうがかい-物事が崩れてばらばらになること。または、完全に無くなること。氷が解けて消えるように、屋根の瓦の一部分の崩壊から全体が次々と崩れるように、ばらばらになるという意味から。「氷と消え瓦と解く」とも読む。「氷」は「冰」とも、「消」は「銷」とも書く。

 


 問2 兎死狗烹-としくほう-うさぎが死んでしまえば、それを捕らえるのに用いられた猟犬は不必要となって、煮て食べられてしまう意。戦時に活躍した武将は、ひとたび太平の世となると、用なしとして殺されてしまうことをたとえた言葉。また、後に広く、利用価値があるときだけ用いられ、無用になると捨てられてしまうことのたとえ。▽一般に「兎死して狗烹らる」と訓読を用いる。

 


 問3 燕雁代飛-えんがんだいひ-入れ違いになること。または、互いに隔てられていることのたとえ。燕が南から渡ってくる季節には、雁は北へ渡り、雁が北から渡ってくる季節には、燕は南に渡るために出会うことはないということから。「燕雁代わって飛ぶ」とも読む。

 


 問4 椀飯振舞-おうばんぶるまい-盛大なごちそうのことや物を与えたりご馳走したりすること。「椀飯」は椀に盛った飯、またはそれを出してもてなすことで、 江戸時代には正月に親戚などを招待して、酒宴をすることなどをいった。

    類義語-大盤振舞-おおばんぶるまい

 


 問5 荊妻豚児-けいさいとんじ-自分の妻子のことを謙遜していうことば。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 白衣蒼狗

 

 問2 斗酒百篇

 

 問3 掩耳盗鐘

 

 問4 遠塵離垢

 

 問5 嘉言善行


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 岩手 南部鉄器

2021-01-20 05:48:12 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「南部鉄器」

 「南部鉄器(なんぶてっき)」は、岩手県南部鉄器協同組合連合会の加盟業者によって作られている鉄器。74の事業所に730名(推計)の従事者がおり、年間生産額は約92億円。

 1975年(昭和50年)2月17日に通商産業大臣指定伝統的工芸品(現・経済産業大臣指定伝統的工芸品)に指定された。伝統工芸士は21名しかいない。

 戦後占領期に施行された中小企業等協同組合法に基いて、江戸時代には南部氏・南部藩(盛岡藩)領内だった岩手県盛岡市、花巻市石鳥谷町、および、岩手郡雫石町の鋳物業者が1949年(昭和24年)3月1日、「南部鉄瓶商工業協同組合」(現「南部鉄器協同組合」、岩手県盛岡市)を設立した。また、同法に基いて、江戸時代に伊達氏・仙台藩領内だった胆江地区の鋳物業者が1954年(昭和29年)11月、「水沢鋳物工業協同組合」(岩手県水沢市…現・岩手県奥州市水沢)を設立した[3]。両者により、1959年(昭和34年)に県内統一組織である「岩手県南部鉄器協同組合連合会」が設立された。

 旧仙台藩にある「水沢鋳物工業協同組合」は「仙台鉄器」とは呼ばず、旧南部藩(南部地方)の「南部鉄器協同組合」の名称を用いて、両者とも「南部鉄器」と称する。つまり、盛岡市の南部鉄器は南部藩由来の南部鉄器であり、奥州市の南部鉄器は岩手県の南側にあるので南部鉄器と呼んでいるのである。

 歴史
 南部鉄器と総称されているが、水沢の南部鉄器と、盛岡の南部鉄器の歴史は異なる(明治・大正の南部鉄器以降は共通で著す)。

 水沢の南部鉄器
 平安後期に、江刺郡豊田館にいた藤原清衡が近江国(滋賀県)より鋳物師を招いて始めた。これが、次第に南下して羽田に伝わったと語り継がれている。この近隣には、後背地にあたる北上山地の砂鉄、木炭および羽田の北上川旧河川跡から出る質の良い砂と粘土などの鋳型材料が容易に手に入れられることから鋳物業が栄えた。中世の鋳物師は「歩き筋」と呼ばれるように、必要に応じて地域を転々することが常である。需要主である清衡が平泉に移ると彼らも一緒に移った。実際、奥州藤原氏の時代の遺跡からは鋳型が出土しており、中尊寺を始めとする寺院などの備品も鋳造していた。奥州藤原氏の滅亡以降は日用品を細々と鋳造した。

 羽田に鋳物師が定住するようになったのは室町時代初期で、黒脇千葉家に養子に入った京都聖護院の長田正頼という鋳物師がその始めだったといわれている。後に千葉家は奥州総奉行葛西氏に召し抱えられる。以後、長田正頼の弟子や関西から訪れた鋳物師たちが羽田に住み、定着していった。

 江戸初期には地域に鋳物業が定着していく。1683年(天和3年)に鋳物業を興した及川喜右衛門光弘という人が、中興の祖と讃えられている。以後、仙台藩の庇護を受け、鉄鍋、鉄釜を中心に、仏具なども生産し、幕末には大砲も鋳造している。

 盛岡の南部鉄器
 盛岡の鋳物は、慶長年間(1596年-1615年)に盛岡藩主南部氏が盛岡城を築城した頃に始まったといわれている。それからは、歴代藩主庇護の下、育まれてきた。藩の鋳物の受注はこの4家がほぼ担っていたため、盛岡の南部鉄器の歴史は、有坂家、鈴木家、藤田家、釜師小泉家の歴史とも言える。

 有坂家
 初代は京都の人で、7代目のとき甲州に、13代目のときに、盛岡に移住してきた。

 鈴木家
 甲州から1641年(寛永18年)に、藩に召し抱えられた鈴木縫殿家綱を祖とする。製造したのは梵鐘や燈籠などの大作が知られていて、幕末には大砲も製造している。1646年(正保3年)には盛岡城の時鐘も製造している。これは、後に花巻城に移されるが今も現存している。

 藤田家
 甲州の出で、2代目から盛岡に移住。鍋類を主に製造し、その品質の良さから「鍋善」と呼ばれ、後に藩に召し抱えられた。

 小泉家
 藩主が茶の湯を好んだことから、1659年(万治2年)に召し抱えられ、茶釜を製作する。祖は京都出身の小泉五郎七清行といわれている。本業は茶釜だったが、現在も残る1679年(延宝7年)の時鐘を始めとする多くの製品に名を残している。

 また三代仁左衛門は南部鉄瓶の創始者と伝えられ、四代仁左衛門は、大砲鋳造の技術を江戸で学んだ。

 明治・大正の南部鉄器
 水沢、盛岡とも、仙台藩、盛岡藩の庇護の下、発展してきたが、この後ろ盾が明治維新により消え去り、衰退を余儀なくされる。しかし、生産と流通の体制が整い、展覧会にて入賞するなど名声が高まると、各地からの注文が増える。さらには、1890年(明治23年)の水沢、盛岡を経由していく東北本線開通と相まって、一気に販路拡大となった。

 明治末には、再び停滞気味になるが、1908年(明治41年)の皇太子(後の大正天皇)東北行啓の際、八代小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演して見せて話題を呼んだことをきっかけに、県や市を挙げての取り組みが始まる。

 1914年(大正3年)には、旧盛岡藩主南部利淳が「南部鋳金研究所」を開所。人材育成にも貢献した。

 昭和・平成の南部鉄器
 第二次大戦中は戦時体制により「銑鉄物製造制限規則」が施行され、軍需関連品以外の製造が禁止された。南部地域では150人いたといわれる職人のうち、わずか16人しか鋳物の鋳造を続けられなくなった。

 終戦後は、アルミニウム製品に押されて需要は減り南部鉄器は衰退したが、近年では茶道具などの伝統工芸品のほか、実用的な調理器具としてもその良さが見直されてきている。食生活の欧米化に伴い、焼く調理などの洋風料理に使用するものも増えてきている。また海外ではその芸術性の高さから鉄瓶に人気が集まり、一部のメーカーは欧米への輸出にも力を入れている。

*Wikipedia より

*https://kougeihin.jp/craft/0701/ より

 21人の伝統工芸士

 総合部門- 田山 和康・佐々木 和夫・佐藤 勝久・及川 栄喜・佐藤 建樹・佐々木 健太郎・水澤 繁樹・佐藤 勝芳・菊池 真吾・宮 伸穂・佐藤 勝弘・佐藤 恒喜・伊藤 郁夫・八重樫 亮・藤原 慎一・綱取 光男・佐藤 圭・大村 敏宏・及川 喜徳  
造形部門- 田中 二三男    
鋳造部門- 菊池 翔    

 

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