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イッピンNHK 「南国の色と風を映す~沖縄 紅型(びんがた)~」

2023-08-22 10:20:02 | イッピンNHK

 第121回 2016年4月5日 「南国の色と風を映す~沖縄 紅型(びんがた)~」リサーチャー: 野村佑香

 番組内容
 鮮やかな色彩を特徴とする沖縄の紅型(びんがた)。型で文様をのり防染して作る伝統的な染め物だ。今人気の帯は、沖縄の美しい光景を見事なグラデーションで表したイッピン。その驚くべきワザとは?また紅型は太平洋戦争により大きな打撃を受けたが、職人の努力により受け継がれた。紅型復興への並々ならぬ情熱とは?さらに近年では、紅型はより身近で手ごろな小物へと変身。薄手で軽やかなストールのヒミツとは?野村佑香が探る。

*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201604051930001301000 より

 1.紅型工房「守紅」(宮城守男さん)

 糸満市に工房を持つ宮城守男さん。
 ブーゲンビリアの花や蝶、石垣を歩く猫など、身近な自然を描き出した、沖縄の風やにおいを感じさせるデザインが特徴です。
 呉服以外にも紅型を用いた新たな試みにも挑戦しており、また紅型のもうひとつの技法である筒描きも得意としています。

  
 2.城紅型染工房
 紅型は琉球王国の王族・士族の高級衣装でした。
 そして現在も琉球舞踊の衣装でもあります。
 那覇市にある琉球衣装の三大宗家のひとつを訪ねると、職人20人ほどが着物作りの作業をしていました。
 染色に使う型紙は1000枚以上あるが、全て戦後に作られたものそうです。
 戦前のものは全て焼けてしまったそうで、戦後、職人達はゴミ捨て場から工具を拾って復興させたそうです。
 終戦直後は米軍向けのお土産用ポストカードの版画を作っていたそうです。
 
 

 3.カタチキ

 姉・崎枝由美子さん、妹・比嘉(當眞)裕子さんは首里に工房を構え、生まれ育った首里の地で伝統の技を大切にものづくりをしています。
 「カタチキ」は紅型の昔の呼称で、型を付けるという意味だそうです。
 
 若い世代に向けて、手頃で買いやすい紅型を自分達の手で作ろうと考えて、がま口やキーケースに紅型の意匠を施しています。
 型紙を起こしてから、1つ1つ丁寧に手染めしています。

 裏表から見ても色の違いが目立たないように、色付けには顔料や筆、こすり筆も使って、擦り込むようにして 彩色しています。
 透け感のある薄手の絹に彩色をほどこしたストールは作る側から売れていくなど高い人気を得ています。

*https://omotedana.hatenablog.com/entry/Ippin/Okinawa/bingata より

 

 もう少し調べてみました。

 「紅型」

 紅型(びんがた)とは、琉球染物、沖縄を代表する伝統的な染色技法の一つ。14世紀の紅型の裂が現存しており、技術確立の時間を考慮するその起源は13世紀頃と推定されている。

 「紅」は色全般を指し、「型」は様々な模様を指していると言われる。この定義をしたのは鎌倉芳太郎と伊波普猷とする説があるが、鎌倉芳太郎が1924年に初めて使用。「紅型」の漢字表記が広く普及され始めたのは昭和期に入ってから。沖縄県は「びんがた」と平仮名表記する場合が多い。古文書に現れる文字は「形付」、「形附」で「紅型」表記はない。高年者や下級士族向けの藍色の濃淡で染めるものは藍方(えーがた)と呼ぶ。

 歴史
 琉球王国の時代、主に王族や士族の衣装として染められていた。王府は、染屋を首里城の周りに置き庇護した。

 薩摩の琉球侵攻の後は、日本本土との交易などに重点が置かれ、殖産の増進政策によって技術が飛躍的に向上した。しかし、明治時代の王府廃止に因って庇護を失った染屋は廃業を余儀なくされ、多く職人が首里を後にし、宮廷のために生まれた紅型は衰退していく。

 現在、古紅型と呼ばれるものは江戸時代頃の作品が多い。本土の影響からか友禅とモチーフが共通したものが多いともされているが、ほとんどは中国の吉祥文様を図案とし、当時の王族・士族階級の女性および成人前の男子の衣装として作成され、文様に衣装を身に着ける者への加護の意味が込められる。鶴を赤や緑で染めたり、桜を黄色やえんじで染めるなど色の扱いは「非常に奔放」と、現在の染色家に評価されている。江戸時代は袋物などの小物用生地、明治からは着物などにも使われていた。

 第二次世界大戦で多くの型紙や道具が焼失、一部型紙等は鎌倉芳太郎により本土へ渡り保管されていた。戦後、それら型紙を分けてもらい紅型復興に尽力したのが、王朝時代からびんがた宗家として染物業に従事してきた城間家の城間栄喜と知念家の知念績弘である。戦後の材料不足の中、拾った日本軍の地図に下絵を描き型紙として利用して、割れたレコード盤を糊(防染糊)置きのヘラに、口紅を顔料のかわりに、薬莢を糊袋の筒先に使用するなど、工夫をしながら紅型の復興に勤める。その頃は米軍向けポストカードなども染めていた。

 1984年(昭和59年)5月31日に「琉球びんがた」として経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定された。

*Wikipedia より


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