小田の橋の謎

近所の身近な歴史だけど、それなりに深いのです。本音は、お伊勢参りのついでに小田の橋や古市街道や河崎に寄ってほしい。

幻の空き地(1)

2010-01-18 19:18:42 | 幻の空き地 1-4

全国6000寺の臨済宗の寺のなかで、

妙心寺派は3400寺をもつ臨済宗最大の宗派。伊勢市内では、中山寺が妙心寺派の寺です。中山寺は、県下の同派第一の古刹(古くて由緒のある寺)

妙心寺の境内には38の塔頭(たっちゅう)があり 

また境外には 竜安寺など 10の境外塔頭があります。

春日局(お福)の菩提寺は麟祥院(りんしょういん)です。

その上隣の「智勝院」(ゆりかご保育園も含む

は、稲葉一鉄の菩提寺ですが、お福の両親、斉藤利三夫妻の墓所でもあります。 

大本山の隣に美人画のある雑華院があります。

 雑華院の前の道は、どちらかというと住宅地の中を歩く感じで いい感じです。

隣の海福院を通り過ぎて右へまがると すぐ 空き地があり その周りを歩きます。

(クリックするとGoogleアースの写真です。 車との対比で この空き地の大きさがわかるとおもいます。)

ちょうど団地の中の空き地のようです。ただし1000坪はある空き地です。

一等地にある贅沢な空き地みたいで、もったいないですよね。

 どうしても この空き地は気になります。

 

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蟄居 3

2010-01-18 02:06:41 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

大垣城を開城し 朝熊で蟄居したが妻が石田三成の妹のため、家康の許しを得られず

自害した福原 長堯(ふくはら ながたか)ですが、永松寺の住職によれば追っ手に捕らえられ、殺害されたそうです。

福原は、大垣城の守将で、関が原の勝敗がわかった後は、大垣城内では、白旗を揚げる前に、仲間や 家臣らに裏切られ殺されそうになりました。

なお その時の大垣城内(実際は、三成の佐和山城)にいた少女の「おあむ物語」という強烈な見聞録があります。

さて

関が原の戦いでは、大垣城とは違い もう一つの 重要な城がありました。

 岐阜城です。 むしろ岐阜城攻防戦で 関が原の戦乱が 始まったと言っていいでしょう。 

城主は 織田秀信。

6,530騎を率いて、家康の東軍主流派を迎え撃ったが、善戦をしても多勢に無勢で  援軍を要請し、岐阜城に篭った しかし西軍からの援軍はなく,東軍の池田輝政は元 の岐阜城の城主であり細部まで心得ており 城は一日で落城した。城内の火薬庫に火がついて大爆発し その夜空に立ち上がった火炎は 美濃一帯の人々に 岐阜城の落城と織田家の終焉を ドラマチックに知らせることになった。

東軍では 福島正則勢が430、池田輝政勢が490、浅野幸長が308の首級をあげたが  福島や池田らは、同時に生き残った秀信の家臣の多くを自分のところへ招聘しました。

信長や信忠など織田家先祖の位牌所である崇福寺には 秀信の家臣38人が切腹した床板が天井に張ってあるそうです。

降伏した秀信にたいする 福島正則らの助命嘆願もあり高野山に入山するが後年に高野山から追放された。 その後はいろんな説があり 墓とか 不確かなようです。 

 

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