小田の橋の謎

近所の身近な歴史だけど、それなりに深いのです。本音は、お伊勢参りのついでに小田の橋や古市街道や河崎に寄ってほしい。

宇治橋の向こうには

2009-10-28 19:40:54 | 宇治橋の謎

これは京都の宇治橋です。橋の右側つまり川上に、

なぜか木の棒が並んでいますが。

これは「 木除杭(きよけぐい) 」と言って、上流から流れてくる木などを橋の下にスムーズに流すためのものです。

下の伊勢の宇治橋の川上にも木除杭がならんでますね。

そうそう、右端に木除杭が5本ほど並んでいるね。

それにしても 古ぼけた白黒写真だな。

あれ??今ふうの民家が橋の向こうに見える。

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宇治橋のお披露目

2009-10-27 17:43:55 | 宇治橋の謎

報道関係者が、何の写真を撮っているかというと

そうです 架け替えられた 新しい 宇治橋です。

やはり、渡始式 と書いてあった。11月3日午前10時に式が始まる。

左側の欄干に 擬宝珠がついてないのがありますが、これは11月3日に 橋姫で祈りをこめたお札?とともに擬宝珠がつくようです。

 仮橋から観る new 宇治橋デス。

 

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赤福

2009-10-26 20:12:11 | 宇治橋の謎

昨日のは、江戸時代の宇治橋と周辺の町並みの地図だが

あの 赤福(濱田社長) は 載っているのだろうか?

 

すぐわかりました。

現在と同じ場所

に「濱田長次郎 名物赤福餅」(←と読めるのだが)

がありました。

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町の中の宇治橋

2009-10-25 17:08:20 | 宇治橋の謎

人にブログを見せたら、話題が、あちこち飛んで、わかりづらい と いうので

的を絞って書いていきます。

文久元年の 度会郡宇治郷

昔は、宇治橋を渡っても町があった。

宇治橋を渡ると舘町という町があり、明治の中ごろを過ぎて、立ち退きになった。

 

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五十鈴橋? 

2009-10-22 23:28:33 | 宇治橋の謎
内宮の宇治橋は、何時ごろからそう呼ばれるようになったのだろうか。

宇治橋の別名は、御裳濯(みもすそ)橋。

五十鈴川だけど この辺りは、御裳濯川と呼ばれていたそうで、 倭姫が汚れた裾(すそ)を川で洗ったことからついた名前だそうだ。
だから
京都の宇治橋が宇治川の橋というように、御裳濯(みもすそ)橋になった。

裾が抜けてるんじゃないかとか濯が余分だというように
漢字がわかりにくく、言葉も、おぼえにくい名だ。

昔は橋の両側に宇治町の民家があった、つまり町の中の橋として宇治橋にしたのだろうけど、
今は神域と俗界を結ぶ橋だし、
いっそうのことわかりやすく、別名として五十鈴橋にしたらどうだろう。

ps
なお、倭姫ですが、参道の古市のとなりに「倭町」というところがあり、
その辺りが「隠ヶ丘」といわれている。
そこで、倭姫も、アマテラスのように、岩穴にお隠れになったそうだ。
ギリシャ神話に、外宮の豊受のように、豊穣(ほうじょう)の女神であるデメテールがいますが。
あるとき彼女は怒って洞窟に隠れ、そのため地上の作物や果物は枯れ、という話がある本で、紹介されてました。天の岩戸みたいだわ。

ps2
京都の宇治橋は、京都府 宇治市 宇治山田にあるんだそうだ。
もし宇治山田中学とかあったら、どう呼ばれてるのだろう?

伊勢市では、宇治山田高校、宇治山田商業の略称は、宇治高とはけっして言わす、山高、山商という。なお 戦国時代の当地は、常に宇治と山田で戦っていた。


伊勢市は、昭和30年(1955)までは、宇治山田市だった。伊勢とはもともと、国の名前で、たとえば、今でも伊勢木綿といえば津だし、歴史で言う伊勢商人というのは主に松阪商人だった。なお、JRの駅は伊勢駅とはいわず、伊勢市駅と市がつく。