さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
向かうはわが身の置き場所よ。
帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

菊紋に込められた願い

2011年01月18日 16時00分00秒 | 家紋

≪なぜ菊紋は天皇紋になったのか?≫

それは不老長寿の薬草として、
中国から伝えられたことによるといえる。

『万葉集』には菊を詠んだ歌が一首もない。
但し百代草(ももよぐさ)として、小輪の花が
歌われているのが野菊とみられている。
もともと日本にも野菊は自生していた。

天皇紋の菊紋は小菊ではなく大輪の菊である。

日本にもたされたのは桓武天皇の時代とされる。
延暦十六年(797)十月の歌会に、
天皇はこの花を諸侯に鑑賞させている。

『日本紀略』(平安末期の史書)
「曲宴。酒を楽しむ。皇帝(桓武天皇のこと)歌っていわく。

『この頃のしぐれの雨に菊の花 散りぞしぬべきあたらその香』」
と記す。 

中国から来たこの大輪の菊は、酒に浮かべて飲むと、
不老長寿の薬になると信じられた。
菊は翁草・千代見草・齢草(よわいぐさ)とも呼ばれ、
桓武天皇に始まり、多くの天皇家がこの花を愛した。

 

 

翁草(おきなぐさ)は長寿をもたらす花という
「菊慈童(きくじどう)」の伝承が、
中国から美しい大輪の花と共にもたされた。


≪菊慈童伝承≫
甘谷(かんこく)の菊水(咲き競う菊花の露が落ちた水)

を飲んで菊慈童は七百歳までも生きたというもの。
| |
大輪の菊は長生きの妙薬とされ、菊の花を酒に浮かべて
飲む菊花酒は、桓武以降の天皇が好むところとなった。

 桓武の子、嵯峨天皇も菊花を仙薬として重視
「神仙の霊薬をめで喜び、俗世間の世情を忘る」
と漢詩にも詠んでいる。


≪最も菊の魅力に取り付かれたのが後鳥羽上皇≫
衣服・牛車・けんのはばき(刀身が抜けないように締める金具)

から懐紙にまで菊の文様を用い、菊帝と呼ばれた。
後鳥羽上皇が「承久の変」(1221)で敗れ、
隠岐にに流され不遇な死を遂げた半世紀後、
後深草、亀山、後宇多の三天皇によって、
菊は天皇紋となったのである。
 

十六ヵ弁菊花の紋は
不老不死の精神を根本として誕生したのである。


 

『紫式部日記』
紫式部が九月九日の重陽の節供にちなみ、
自分が仕える中宮の母、つまり藤原の道真の妻である
倫子(りんし)から「菊の綿」をもらったことが出てくる。

≪菊の綿≫
重陽の節供から当日にかけ、菊の花の露と香りを綿に

移し、その綿で体を拭くと、老いないとされた。これを
「着せ綿」といったが、紫式部はこれをもらって歌を詠んだ。

「菊の露わかゆばかりに袖ふれて 花のあるじに千代はゆづらむ」

≪意味≫
菊の露に染みた綿に、私はほんのちょっと若返るほどに

袖を触らせていただくだけにして、千年の寿命は、花の
持ち主でいらっしゃる倫子様にお譲りいたします。

道長の屋敷の庭には、大輪の菊が咲き競い、
宴ではその菊を酒に浮かべて飲んだ。
貴族は美しく見た目も良い長寿の花と信じられた菊を
こぞって栽培した。

その究極にいた西園寺(さいおんじ)家の庶流が今出川家で、
今出川兼季(かねすえ)は、庭一面を菊で埋め尽くし、
以後、子孫は家名を菊亭とするのである。


 

≪徳川幕府≫

 幕府は重陽の節供を五節供の一つに定めて
武家の祝日として重視し、
大名は江戸城に総登城して祝った。
大名は大奥にも紅白の丸餅に
菊花一枝を添えて献上するのが慣例だった。

 


 

~「家紋17 ≪菊紋≫」へ~


『あなたのルーツがわかる 日本人と家紋』 楠戸義昭:参照

 

 

 

 

ご訪問の記念に、1クリック募金のご協力を!
 ↓↓↓
 
クリックで救える命がある。 
いつもありがとうございます!

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 韓国土産 | トップ | 「改正賃金法」の波紋 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おひさしぶりです (ミカン男)
2011-01-19 21:29:23
復活しました~

これからもよろしくお願いします
返信する
ミカン男さんへ♪ (obichan)
2011-01-28 07:53:28
長いことブログ更新してないので、コメント確認忘れてました!
ご無沙汰~&遅くなってごめんなさいね~!

復活おめでとう~!
無理ないようマイペースで往きましょうね~♪
こちらこそ、宜しくお願いします。
返信する

家紋」カテゴリの最新記事