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さあ~てと 帯しめましょか。

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帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

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家紋 ≪番外編≫

2009年03月18日 16時20分30秒 | 家紋

3月16日に、【家紋≪桐紋≫】にコメントを頂いた

すずき様へ

 

やっと手がかりを見つけました。

 

 

 

長岡市ホームページ より検索。

→ 観光 

→ ゆかりの達人 

→ まちを作った 堀 直竒

「 (1577年~1639年)豊臣秀吉の小姓であったが、

慶長年中蔵王堂城主堀鶴千代の後見役を勤め、

その頃から長岡城と城下町の築造を始めた。

元和2年蔵王堂城8万石の城主となって

これを更に進めたが、元和4年村上に移った。」

 

さらに、堀 直竒 (ほり なおより) をネットで調べて、

 さんのホームページを見つけました。

〔 2004/11/03:武将の銅像・・・堀直竒 〕

のアップより、銅像とともに詳しく知ることができます。(下記引用)

 

「特に2度にわたる長岡在城中には、

長岡城の建設および城下の整備、

信濃川の河口である新潟までの航路の整備によって

長岡だけではなく新潟も港町として発展するようになります。

ちなみに当時の新潟市周辺は沼地や潟が多く、

人が住むには難しい土地だったと思います。

以上から、現在の新潟市の発展は

直竒抜きでは考えられないことになります。」

 

 

 

さて、すずきさんの場合ですが、

もしかしたらこの長岡城を作った 堀直竒 に、

何らかの繋がりがあるかもしれませんね。

まずここで、『豊臣秀吉の小姓』に注目しました。

秀吉と言えば、天正十九年の

「菊桐禁止令」が思い浮かびます。

堀直竒 は 銅像より≪中菱≫が定紋であったと思われますが、

秀吉の小姓というからには≪桐紋≫を頂いていたかもしれません。

そんな、秀吉とかかわりのある人が、住むには大変な土地を

開拓しにきたのだから、有難がられたのかもしれませんね。

 

もし、

スズキさんの家が家紋がなかった家なら、

秀吉の桐紋の人気にあやかった可能性もあります。

禁止令が出るまでは定紋にもできましたからね。

 

 

家紋 ワールドさんの

「定紋と副紋」 

を参考にして頂けばわかるでしょうが、

昔は、家紋はそれぞれの場所へ行くのに

ふさわしい家紋を使っていた武家も多かったようです。

定紋も時代によって変えていた家もあるようです。

 

 

 

それに、「秀」という字も気になります。

もし、すずきさんが

苗字の持っていない家だったとすれば、

何かしら気に入られて、

苗字を授かった可能性もあるでしょう。

あるいは、先祖が苗字を決めるときに、

秀吉にあやかったのかもしれませんね。

また、お百姓さんなどの場合は、

「田んぼの中のウメさん=田中ウメ」

という感じで、

 「沢の近くの秀でた○○さん=秀沢○○」

なんて

つけられたのかもしれません。

 

 

 

≪おまけ≫

苗字の百貨店 というホームページから検索した、

【 「ひ」で始まる珍しい苗字 】 から、

秀沢さんは電子電話帳で8件あり、

(この4,5倍したものが実際の件数に近いものだそうです)

新潟県には5件とありました。

 

 

コメント (2)
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