みことば:「私は自分の走るべき道のりを走り尽くし、神の
恵みの福音を証しするという主イエスから受けた任務をまっと
うするためならば、自分の命のことなど口にする値打ちもない
と思っています。」 20章24節 岩波訳
この箇所は、使徒パウロのエペソ教会への決別説教です。パウロは、「もう二度と自分の顔を見ることはあるまい」と言ったので、人々は心を痛めたと38節にあります。私たちの人生も出会いと別れがあります。しかし、主イエス様を通して与えられている約束は、たとえ地上で再会できなくても神の御国で再会できるという希望と恵みです。主イエス様を抜きにして考えれば、すべては悲しみです。しかし、主イエス様を信じる信仰によって、地上では慰めと励ましと希望が与えられ、御国では永遠の喜びが与えられるのです。ですから、主から恵みとして与えられている出会いを大切にしましょう。
使徒パウロはエペソでの3年間の働きを振り返り、自分の働きの性質を4つ、エペソ教会の長老たちに述べています。第一に、試練の中にあっても謙遜の限りを尽くして主に仕えたと言います(19節)。謙遜をもって人々に仕える事が主イエス様に仕えることでした。「あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊によ
る一致を守り続けるように努めなさい」とエペソ4:2-3にある通りです。第二に、パウロはいつでもどこでも福音を余すところなく人々に伝えました(20節)。第三に、パウロは「すべての人」に神様に対する悔い改めと、主イエス様に対する信仰をもつことを勧めます。だれも洩れる事なく神様に愛され、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという福音を伝えました(21節)。ユダヤ人の多くは福音に心を閉ざし、パウロたちを迫害しましたが、そのようなユダヤ人もすべて悔い改めてイエス様を信じて従えば救われるのです。パウロは、自分のように雄々しく、謙遜に、すべての人に福音を伝え、仕えるよ
うに私たちクリスチャンたちに勧めるのです。第四の性質は最後に伝えます。
22節から27節まで、パウロ自身のこれからの歩みがどのようなものかが語られます。すべては聖霊の導きであり、聖霊の力強き導きに従うとパウロは言うのですが、エルサレムへの道は異邦人教会からの献金を携えてゆく喜びと投獄と艱難が待ち受けているものであると言います。エルサレムへの道は、苦しみへの道でもありました。私たちならばすぐに逃げてしまうでしょう。しかし、パウロはその苦しみの道を進むのです。イエス様が十字架の道を歩まれた事を感謝して信じていたからでしょう。24節に理由が記されています。すべては主イエス様から賜った「神の恵みの福音を証しする」ためなのです。「神の恵みの福音」をいう言葉は他の新約聖書には出てきませんが、イエス・キリストの福音です。パウロは自分の人生の目的を明確に理解していました。キリストを証しすることです。わたしたちは自分自身の人生の目的、使命を明確に理解しているでしょうか。私たちは、信仰の目と心をその使命から背けているのかもしれません。そのような私たちにパウロは「わたしに習いなさい」と勧めるのです。
エペソ教会の長老たちに対して、使徒パウロは28節から31節で自分が去った後に襲いかかって来るサタンの攻撃に気を付け、恵みにとどまり続け、恵みから遠ざける者と戦いなさいと勧めます。「パウロが去った後」というのはパウロの死後という意味も含まれています。パウロの死後、狂暴なおおかみが教会に入り込んで荒らし、また教会の内側からも曲がったことを言う者が起こるから、教会の牧会者、監督者であるあなたがたがまず充分に気を付けよと忠告するのです。28節には、「まず自分自身に気を付けよ」といつも主の恵みにつながっている様にと促します。あなたがたをクリスチャンとして立てたのは「聖
霊」であると28節から理解できます。
32節から35節に、エペソ教会への最後の祝福の言葉と奨励が記されています。私たちクリスチャンは神様の一方的な恵みによって聖別されているとあります。私たちが自身を聖別したのではなく、神様の恵みと憐れみのあらわれであるイエス・キリストという御言葉によってです。この主イエス様にエペソ教会のこれからの歩みを委ねると使徒パウロは言います。私たちの教会の歩みも主イエス様に委ねられています。私たちはただ、このイエス様の御言葉に聴き従って歩むことが神様から求められているのです。主イエス様には、わたしたちの「徳をたて」、私たちに「御国をつがせる力がある」のです(32節)。
パウロの最後の奨励は、パウロがエペソで行なってきた働きの4つ目の性質でもあります。それは「あなたがたも私のように働き、弱い者を助けなさい」ということです。あなたがたに仕事が与えられ、仕事ができる能力も体力も精神力も、自分の生活重視のため、至福のためではなく、弱い者を支え、弱い者に仕える為だと使徒パウロは言われるのです。「受けるよりも与える方が、さいわいである」という主イエス様の言葉を記憶しなさいと私たちに勧めるのです。偽クリスチャンはお金や富、自分を愛します。真のクリスチャンは、イエス様がそうされたように、隣人を愛し、仕えるのです。主の御心に叶った者になるためには御言葉と祈りと聖霊が必要ですから、共に祈りましょう。
今回はいつもより長くなってしまいました。ごめんなさい。週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎
恵みの福音を証しするという主イエスから受けた任務をまっと
うするためならば、自分の命のことなど口にする値打ちもない
と思っています。」 20章24節 岩波訳
この箇所は、使徒パウロのエペソ教会への決別説教です。パウロは、「もう二度と自分の顔を見ることはあるまい」と言ったので、人々は心を痛めたと38節にあります。私たちの人生も出会いと別れがあります。しかし、主イエス様を通して与えられている約束は、たとえ地上で再会できなくても神の御国で再会できるという希望と恵みです。主イエス様を抜きにして考えれば、すべては悲しみです。しかし、主イエス様を信じる信仰によって、地上では慰めと励ましと希望が与えられ、御国では永遠の喜びが与えられるのです。ですから、主から恵みとして与えられている出会いを大切にしましょう。
使徒パウロはエペソでの3年間の働きを振り返り、自分の働きの性質を4つ、エペソ教会の長老たちに述べています。第一に、試練の中にあっても謙遜の限りを尽くして主に仕えたと言います(19節)。謙遜をもって人々に仕える事が主イエス様に仕えることでした。「あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊によ
る一致を守り続けるように努めなさい」とエペソ4:2-3にある通りです。第二に、パウロはいつでもどこでも福音を余すところなく人々に伝えました(20節)。第三に、パウロは「すべての人」に神様に対する悔い改めと、主イエス様に対する信仰をもつことを勧めます。だれも洩れる事なく神様に愛され、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという福音を伝えました(21節)。ユダヤ人の多くは福音に心を閉ざし、パウロたちを迫害しましたが、そのようなユダヤ人もすべて悔い改めてイエス様を信じて従えば救われるのです。パウロは、自分のように雄々しく、謙遜に、すべての人に福音を伝え、仕えるよ
うに私たちクリスチャンたちに勧めるのです。第四の性質は最後に伝えます。
22節から27節まで、パウロ自身のこれからの歩みがどのようなものかが語られます。すべては聖霊の導きであり、聖霊の力強き導きに従うとパウロは言うのですが、エルサレムへの道は異邦人教会からの献金を携えてゆく喜びと投獄と艱難が待ち受けているものであると言います。エルサレムへの道は、苦しみへの道でもありました。私たちならばすぐに逃げてしまうでしょう。しかし、パウロはその苦しみの道を進むのです。イエス様が十字架の道を歩まれた事を感謝して信じていたからでしょう。24節に理由が記されています。すべては主イエス様から賜った「神の恵みの福音を証しする」ためなのです。「神の恵みの福音」をいう言葉は他の新約聖書には出てきませんが、イエス・キリストの福音です。パウロは自分の人生の目的を明確に理解していました。キリストを証しすることです。わたしたちは自分自身の人生の目的、使命を明確に理解しているでしょうか。私たちは、信仰の目と心をその使命から背けているのかもしれません。そのような私たちにパウロは「わたしに習いなさい」と勧めるのです。
エペソ教会の長老たちに対して、使徒パウロは28節から31節で自分が去った後に襲いかかって来るサタンの攻撃に気を付け、恵みにとどまり続け、恵みから遠ざける者と戦いなさいと勧めます。「パウロが去った後」というのはパウロの死後という意味も含まれています。パウロの死後、狂暴なおおかみが教会に入り込んで荒らし、また教会の内側からも曲がったことを言う者が起こるから、教会の牧会者、監督者であるあなたがたがまず充分に気を付けよと忠告するのです。28節には、「まず自分自身に気を付けよ」といつも主の恵みにつながっている様にと促します。あなたがたをクリスチャンとして立てたのは「聖
霊」であると28節から理解できます。
32節から35節に、エペソ教会への最後の祝福の言葉と奨励が記されています。私たちクリスチャンは神様の一方的な恵みによって聖別されているとあります。私たちが自身を聖別したのではなく、神様の恵みと憐れみのあらわれであるイエス・キリストという御言葉によってです。この主イエス様にエペソ教会のこれからの歩みを委ねると使徒パウロは言います。私たちの教会の歩みも主イエス様に委ねられています。私たちはただ、このイエス様の御言葉に聴き従って歩むことが神様から求められているのです。主イエス様には、わたしたちの「徳をたて」、私たちに「御国をつがせる力がある」のです(32節)。
パウロの最後の奨励は、パウロがエペソで行なってきた働きの4つ目の性質でもあります。それは「あなたがたも私のように働き、弱い者を助けなさい」ということです。あなたがたに仕事が与えられ、仕事ができる能力も体力も精神力も、自分の生活重視のため、至福のためではなく、弱い者を支え、弱い者に仕える為だと使徒パウロは言われるのです。「受けるよりも与える方が、さいわいである」という主イエス様の言葉を記憶しなさいと私たちに勧めるのです。偽クリスチャンはお金や富、自分を愛します。真のクリスチャンは、イエス様がそうされたように、隣人を愛し、仕えるのです。主の御心に叶った者になるためには御言葉と祈りと聖霊が必要ですから、共に祈りましょう。
今回はいつもより長くなってしまいました。ごめんなさい。週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎