みことば:「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるように(主が)して下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」
17章27-28節 口語訳
今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝17章22節~34節を学びます。
アテネの知識人たちへの使徒パウロの宣教が始まります。キリスト・イエスの十字架と復活を宣教すること、また私たちがキリストを救い主と証しする事は、異文化の人々と神様との間に「福音の橋を架ける」重要な働きです。使徒パウロはアテネの聴衆の関心を引き寄せるために彼らを「宗教心に富む人たち」と呼びます。「信心深い」とか「敬虔」という意味にも取れますが、「迷信好きな」、「偶像崇拝」という意味もあります。自分たちに益をもたらすものであれば、何でも神としてしまう日本人と共通しますが、日本人の宗教心を糸口とすることも大切です。
パウロは彼らの宗教心の強さを認めつつ、彼らが『知られない神』を信じ、祭壇を築いていることを見逃しません。ある神を知らないで信じているという彼らの「無知さ」から、唯一の神を伝えようとします。24節から25節で、「知られない神」とは実は世界と万物を創造した神、主なる神であり、人の手で作った宮や祭壇には住まないと告げます。神様は、人の思いや願い、都合によって作られた建物に住まわれることはなく、信仰をもつ私たちの心のうちに住まわれます。そしてキリストを主と告白する私たちが組み合わされて「キリストのからだなる教会」となり、その中で神様は働かれるのです。神の御旨を知り、キリストのからだなる教会を建て上げるためには、すべての偶像を私たちの心の中から捨て去らなければなりません。つまり、私たちの中にある過去の経験や伝統、理想や信念、有りとあらゆる人間的な思いです。
全ての事柄には、神様のご意志とご計画があると使徒パウロは26節から27節で告げます。私たちが今あるのも神様のご意志とご計画があります。いま苦しみや悩みの中にあったとしても、神様には素晴らしいプランが必ずあるのです。ただ私たちにできることは、それぞれが、また教会が心一つに祈って「熱心に神の御旨を追い求めて捜す」ということなのです。そうすれば主なる神が導いて下さるのです。
神様は私たちから遠く離れておいでになるのではありません。私たちが神様から離れてしまい、自己中心的な思い、罪にあるので、霊的盲目になっているのです。神様を求める者に神様はいつでも近くにおられるのです。私たちの責任は、礼拝の中で祈りと聖書の御言葉に聴く中で、主の御旨を求める事なのです。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて大久保教会 牧師 河野信一郎
17章27-28節 口語訳
今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝17章22節~34節を学びます。
アテネの知識人たちへの使徒パウロの宣教が始まります。キリスト・イエスの十字架と復活を宣教すること、また私たちがキリストを救い主と証しする事は、異文化の人々と神様との間に「福音の橋を架ける」重要な働きです。使徒パウロはアテネの聴衆の関心を引き寄せるために彼らを「宗教心に富む人たち」と呼びます。「信心深い」とか「敬虔」という意味にも取れますが、「迷信好きな」、「偶像崇拝」という意味もあります。自分たちに益をもたらすものであれば、何でも神としてしまう日本人と共通しますが、日本人の宗教心を糸口とすることも大切です。
パウロは彼らの宗教心の強さを認めつつ、彼らが『知られない神』を信じ、祭壇を築いていることを見逃しません。ある神を知らないで信じているという彼らの「無知さ」から、唯一の神を伝えようとします。24節から25節で、「知られない神」とは実は世界と万物を創造した神、主なる神であり、人の手で作った宮や祭壇には住まないと告げます。神様は、人の思いや願い、都合によって作られた建物に住まわれることはなく、信仰をもつ私たちの心のうちに住まわれます。そしてキリストを主と告白する私たちが組み合わされて「キリストのからだなる教会」となり、その中で神様は働かれるのです。神の御旨を知り、キリストのからだなる教会を建て上げるためには、すべての偶像を私たちの心の中から捨て去らなければなりません。つまり、私たちの中にある過去の経験や伝統、理想や信念、有りとあらゆる人間的な思いです。
全ての事柄には、神様のご意志とご計画があると使徒パウロは26節から27節で告げます。私たちが今あるのも神様のご意志とご計画があります。いま苦しみや悩みの中にあったとしても、神様には素晴らしいプランが必ずあるのです。ただ私たちにできることは、それぞれが、また教会が心一つに祈って「熱心に神の御旨を追い求めて捜す」ということなのです。そうすれば主なる神が導いて下さるのです。
神様は私たちから遠く離れておいでになるのではありません。私たちが神様から離れてしまい、自己中心的な思い、罪にあるので、霊的盲目になっているのです。神様を求める者に神様はいつでも近くにおられるのです。私たちの責任は、礼拝の中で祈りと聖書の御言葉に聴く中で、主の御旨を求める事なのです。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて大久保教会 牧師 河野信一郎