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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ#58  使徒行伝17章1節~15節

2009-07-01 17:34:15 | 聖書
 みことば:「この町のユダヤ人は、テサロニケのユダヤ人よりもまともで、御言葉を非常な熱心さをもって受け入れ、その通りかどうかと、日々聖書を調べていた」。

17章11節 岩波訳

 今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝17章1節~15節を学びます。宣教の舞台は、ピリピから160キロ西南に位置するテサロニケ、そしてまたそれから約64キロ西南に位置するベレヤへと移ります。ピリピにはユダヤ人の集会所シナゴーグは存在しませんでしたが、テサロニケとベレヤにはシナゴーグがあり、ここを手がかりにユダヤ人とギリシャ人たちに福音宣教をしてゆきます。使徒パウロたちは、どちらの町でもいつも通りに「聖書に基づいて」、キリストの受難と復活、そしてイエスこそキリスト/メシアであることを説明、また論証します。そして福音を聞き、納得をしたユダヤ人や信心深いギリシャ人、女性たち
の多くがクリスチャンとなってゆきます。私たちの信仰と大久保教会に大切なことは、この「聖書に基づく」ということです。聖書の御言葉を生活の指針、判断基準、最優先してゆくことです。もし、私たちが今までの経験や偏った信念や直感、また伝統や風習に頼ってゆくようなことがあれば、必ず躓きます。私たちが聞くべき声は、自分の声や人の声ではなく、神様の声、主イエス様の言葉なのです。私は何のために生きているのか、私の人生の目的とは何かなどの問いに答えを得るためには私たちの創造主なる神様に聞いてゆく方法しかないのです。聖書の御言葉を日々の糧として受け、この御言葉に基づいて歩む時、祝福が必ずあるのです。 さて、テサロニケとベレヤにおいて福音宣教が実を結び、多くのユダヤ人たちがイエス様をキリストと信じるようになりましたが、他方で福音に猛反発をするユダヤ人たちが出現します。このアンチ・クリスチャン出現は今回が最初でも最後でもないのですが、テサロニケのユダヤ人は「嫉妬する人」、「暴動を起こし、町を混乱させる人」、「人々を動揺させる人」と記されています。教会の福音宣教の業が「神に近いはずの人々」によって妨げられることがしばしばあります。けれども、主に信頼しつつ、なすべき業ができるように主のお導きとお守りとを祈ってゆく必要があります。

 さて、ベレヤのユダヤ人たちは「素直で、心から使徒の教えを受け入れ、その教えがその通りかどうかを日々熱心に聖書から調べる人たち」であったとここに記されています。また、興味深い事に岩波訳ではベレヤのユダヤ人を「テサロニケのユダヤ人よりもまともな人たち」と訳しています。

 それでは、いったい何を基準にある人を「素直で、まともな人」と呼ぶのでしょうか? その基準は、神の御言葉である聖書です。神様の目に素直なクリスチャンとは何とあるかを事細かに調べる必要があります。また、聖書に聴く姿勢と聖霊と共に結ぶ実があるかないかによっても分かるでしょう。神様に喜ばれるクリスチャンとは、まさしく父なる神を神とし、御子イエス・キリストを主とし、聖霊の助けと導きによって祈りつつ聖書の御言葉に聴き従う人です。たとえ小さく貧しい信仰であっても、神様を第一にしてゆきたいと祈り求め、信頼しつつ従おうとする人だと思います。そのような人には、他の人に無い
心の平安、喜び、希望が、忍耐する力や赦す力、愛する力が聖霊によって豊かに与えられるのです。「素直な人」とは、神様の御言葉に心開いたオープンな人と言う意味と、隣人に対しても寛容で気前のよい人という意味であると思います。そういう人が神の御前に喜ばれる人であると思います。あなたはどのようにお考えになられますか。

 キリストのからだなる大久保教会は、嫉妬する人や周囲の人を不安にさせたりする人々の集まりではありません。主イエス様の十字架と復活を証しする群れであり、聖書を信仰の基盤とする群れ、神を愛し(礼拝)、隣人を愛し(伝道)、そして兄弟姉妹が互いに愛し合い(奉仕)、励まし合う(訓練)神の家族なのです。そしてあなたは、大久保教会の大切な家族の一員なのです。お祈りと協力をお願いします。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎