さて、今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝15章12節~21節を学びます。
前回、クリスチャン異邦人たちへの「割礼」が必要か否について、エルサレム教会のリーダー・使徒ペテロが立ち上がり、彼自身がカイザリヤで10年程前に体験した異邦人の救いを証ししたことを学びました。ペテロは、ユダヤ人クリスチャンたちに「神様は異邦人をも分け隔てなく救われるのだから、私たちも彼らをそのまま受け入れよう。私たちに負いきれない律法というくびきを負わせてはいけない。私たちと同様に、彼らも主イエスの恵みによって救われたのだから」と訴えます。すると、全会衆は黙ってしまったのです。エルサレム教会のリーダー的人物である使徒ペテロが異邦人クリスチャンには割礼は必要ないというのです。
使徒と長老の前で伝道旅行の証しを4節でした使徒パウロとバルナバは、神様が先立ちたもうて行われた救いの御業を今度は12節で教会全体に証しします。その後に長老の中でもリーダー的存在であったイエス様の異父兄弟ヤコブが立ち上がり、長老の意見を聞いて欲しいと教会全体に呼びかけます。
使徒ペテロと長老ヤコブは、イエス様が私たちと神様の間に立って仲介して下さった様に、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に立つ者、異邦人への割礼強要賛成者と反対者の間に立つ仲介者とされたのです。
初代キリスト教会には、この時、冷静に教会が抱えている課題を客観的に判断できる人が必要であったのです。
今の時代にも、そのような人が大久保教会に必要とされています。
また、社会のどろどろとした人間関係の中でも、クリスチャンの存在は必要なのです。クリスチャンとして社会に派遣されていることを覚えましょう。
使徒パウロは、ガラテヤ2:9において、長老ヤコブと使徒ペテロとヨハネは、今回の件で自分たちに交わりの親しい手を差し伸べてくれたエルサレム教会の「柱」だと言っています。
大久保教会が主イエス・キリストのからだなる教会として建て上げられるためには何本もの「柱」が必要です。お祈りください。「柱」とは牧師や執事やリーダーだけでは決してありません。私たち一人ひとりにはそれぞれ神様から賜物が与えられ、大久保教会の柱の一本とされているのです。
さて、ペテロは自らの体験の語り、自分が目撃した神様の異邦人への救いの業を証ししましたが、ヤコブは異邦人が救われて神の民の一員になることが神様の御心であることを聖書の御言葉(アモス9:11-12)によってはっきりと示します。ヤコブは、ペテロと同じ立場をもっていますが、その立場を御言葉で固めているのです。ヤコブとペテロは同じ結論をもっています。すなわち、イエス・キリストを救い主と信じ、悔い改めて神に立ち返っている異邦人に律法という「わずらい」をかけてはいけないというものです。
ただ、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの今後の関係が深まり、主にある交わりが親しくできるように一つの依頼を異邦人クリスチャンたちにしようと提案します。それはユダヤ人たちが重んじている律法を、異邦人クリスチャンにも理解し尊重して欲しいというもの、すなわち偶像に供えた物は食べない、不品行を避ける、絞め殺して十分に血抜きをしていない動物の肉を食べないということです。これらは異邦人の目から見れば
「ユダヤ人の習わし」かもしれないが、ユダヤ人クリスチャンにとっては大切にしていることだから、互いに交わりを持つ時は十分な配慮を持って欲しいと願おうとの提案です。ユダヤ人クリスチャンたちの立場を理解するためにレビ記17・18章を読んで見て下さい。ユダヤ人として生きることも大変なのです。
神様は、ユダヤ人として従順に主の御言葉に聞き従おうとしているクリスチャンの思いを尊重するように、私たちも互いに尊重してゆきなさいと言われています。それぞれが大変な日々を送っています。主の平安を祈りましょう。
週の後半も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。
主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎
前回、クリスチャン異邦人たちへの「割礼」が必要か否について、エルサレム教会のリーダー・使徒ペテロが立ち上がり、彼自身がカイザリヤで10年程前に体験した異邦人の救いを証ししたことを学びました。ペテロは、ユダヤ人クリスチャンたちに「神様は異邦人をも分け隔てなく救われるのだから、私たちも彼らをそのまま受け入れよう。私たちに負いきれない律法というくびきを負わせてはいけない。私たちと同様に、彼らも主イエスの恵みによって救われたのだから」と訴えます。すると、全会衆は黙ってしまったのです。エルサレム教会のリーダー的人物である使徒ペテロが異邦人クリスチャンには割礼は必要ないというのです。
使徒と長老の前で伝道旅行の証しを4節でした使徒パウロとバルナバは、神様が先立ちたもうて行われた救いの御業を今度は12節で教会全体に証しします。その後に長老の中でもリーダー的存在であったイエス様の異父兄弟ヤコブが立ち上がり、長老の意見を聞いて欲しいと教会全体に呼びかけます。
使徒ペテロと長老ヤコブは、イエス様が私たちと神様の間に立って仲介して下さった様に、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に立つ者、異邦人への割礼強要賛成者と反対者の間に立つ仲介者とされたのです。
初代キリスト教会には、この時、冷静に教会が抱えている課題を客観的に判断できる人が必要であったのです。
今の時代にも、そのような人が大久保教会に必要とされています。
また、社会のどろどろとした人間関係の中でも、クリスチャンの存在は必要なのです。クリスチャンとして社会に派遣されていることを覚えましょう。
使徒パウロは、ガラテヤ2:9において、長老ヤコブと使徒ペテロとヨハネは、今回の件で自分たちに交わりの親しい手を差し伸べてくれたエルサレム教会の「柱」だと言っています。
大久保教会が主イエス・キリストのからだなる教会として建て上げられるためには何本もの「柱」が必要です。お祈りください。「柱」とは牧師や執事やリーダーだけでは決してありません。私たち一人ひとりにはそれぞれ神様から賜物が与えられ、大久保教会の柱の一本とされているのです。
さて、ペテロは自らの体験の語り、自分が目撃した神様の異邦人への救いの業を証ししましたが、ヤコブは異邦人が救われて神の民の一員になることが神様の御心であることを聖書の御言葉(アモス9:11-12)によってはっきりと示します。ヤコブは、ペテロと同じ立場をもっていますが、その立場を御言葉で固めているのです。ヤコブとペテロは同じ結論をもっています。すなわち、イエス・キリストを救い主と信じ、悔い改めて神に立ち返っている異邦人に律法という「わずらい」をかけてはいけないというものです。
ただ、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの今後の関係が深まり、主にある交わりが親しくできるように一つの依頼を異邦人クリスチャンたちにしようと提案します。それはユダヤ人たちが重んじている律法を、異邦人クリスチャンにも理解し尊重して欲しいというもの、すなわち偶像に供えた物は食べない、不品行を避ける、絞め殺して十分に血抜きをしていない動物の肉を食べないということです。これらは異邦人の目から見れば
「ユダヤ人の習わし」かもしれないが、ユダヤ人クリスチャンにとっては大切にしていることだから、互いに交わりを持つ時は十分な配慮を持って欲しいと願おうとの提案です。ユダヤ人クリスチャンたちの立場を理解するためにレビ記17・18章を読んで見て下さい。ユダヤ人として生きることも大変なのです。
神様は、ユダヤ人として従順に主の御言葉に聞き従おうとしているクリスチャンの思いを尊重するように、私たちも互いに尊重してゆきなさいと言われています。それぞれが大変な日々を送っています。主の平安を祈りましょう。
週の後半も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。
主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎