今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝15章1節~5節を学びます。
13章から14章までは使徒パウロとバルナバの第一回目の伝道旅行の出来事が記されていましたが、
各地で大胆に福音が語られ、多くの人々がイエス・キリストを救い主と信じましたが、同時にユダヤ人たちからの激しい迫害に苦しみました。
この伝道旅行でクリスチャンになった人々の大半は異邦人でしたが、この15章においてユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に隔たりが生じます。
どちらかと言うと、ユダヤ人クリスチャンたちが隔たりを作り出します。
この15章は使徒行伝のちょうど中間地点となりますが、エルサレム教会を中心としてなされてきたユダヤ人への福音宣教が、
アンテオケ教会を中心とする異邦人伝道へと移行してゆく分岐点ともなります。
1節に「ある人たちがユダヤから下って来て、兄弟たちに『あなたがたも、モーセの慣例に従って割礼(かつれい)を受けなければ、救われない』と説い」たとありますが、
この「ある人」とは、24節にあるようにエルサレム教会とその使徒たち、長老たちの指示もないのに勝手にエルサレムからアンテオケ教会へ来て、
「クリスチャンとなるためにはまず割礼を受け、ユダヤ教へ改宗し、ユダヤ人となり、モーセの律法を守る義務がある」との持論を説く人々、
たぶん5節に登場する「パリサイ派から信仰に入ってきた人々と考えます。
割礼は律法を忠実に守る事であり、救いには必要不可欠だと主張するのです。
このことで紛糾と争論が彼らとパウロたちの間で生じます。
著者ルカはここで「モーセの慣例」と記します。
ユダヤ人と彼らで構成されるエルサレム教会は、ある意味で、まだユダヤ教の慣例、言い伝えに縛られていた事が判ります。
大久保教会にも44年という歴史があります。
しかし、慣例の上に私たちの教会は建てられているのではなく、イエス様の十字架と復活の上に、この素晴らしい福音を信じる信仰の上に建てられています。
私たちが守らなければならない戒めはモーセの律法ではなく、イエス様の言葉、戒めです。
すなわち、神を愛し(礼拝)、隣人を愛し(伝道)、互いに愛し合う事(奉仕と交わり)です。
このことに忠実であるゆえに教会は成長するのです。
人々が作り出した伝統や慣例ではないはずです。慣例や伝統、言い伝えを重んじるユダヤ人クリスチャンたちが自分たちの考えを押し付けようとします。
私たちの生活でも様々に人々によって慣例や伝統が押し付けられ、強要される事があります。
しかし、大切なのは、神様の御旨なのです。
「割礼を受けなければ救われない」というのは人間の傲慢さの表れです。
人の行いとか儀式などによって私たちは救われるのではなく、イエス・キリストを贖い主、救い主と信じる信仰によって、神様の愛と恵みによって救われるのです。
使徒パウロとバルナバは、この問題についてエルサレム教会と協議するために、
テトスを伴え(ガラテヤ2:1参照)てアンテオケ教会からエルサレムへの徒歩400キロの旅に出ます。
彼らはこの長旅を最大限に利用し、ピニケやサマリヤなど道すがらのクリスチャンの諸集会で異邦人伝道の大きな成果と
神様が共にいてなされた御業を詳しく説明しながらエルサレムへ上ります。
3節の「すべての兄弟たちを大いに喜ばせた」という事実は、彼らが異邦人たちの救いを受け入れ、喜んだということです。
すなわち、割礼という儀式や慣例を重んじるよりも、人々が救われたという主の御業を恵みと喜んだということです。
彼らは、エルサレムに到着しても、問題提議をまず最初にするのでなく、
4節にあるように「神が彼らと共にいてなされたことを、ことごとく報告/証し」するのです。
私たちの教会も、神様の恵みを証しすることを常に心がけたいですね。
まず、御言葉に聴くことと祈りから始めましょう。
週の後半も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。
主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎
13章から14章までは使徒パウロとバルナバの第一回目の伝道旅行の出来事が記されていましたが、
各地で大胆に福音が語られ、多くの人々がイエス・キリストを救い主と信じましたが、同時にユダヤ人たちからの激しい迫害に苦しみました。
この伝道旅行でクリスチャンになった人々の大半は異邦人でしたが、この15章においてユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に隔たりが生じます。
どちらかと言うと、ユダヤ人クリスチャンたちが隔たりを作り出します。
この15章は使徒行伝のちょうど中間地点となりますが、エルサレム教会を中心としてなされてきたユダヤ人への福音宣教が、
アンテオケ教会を中心とする異邦人伝道へと移行してゆく分岐点ともなります。
1節に「ある人たちがユダヤから下って来て、兄弟たちに『あなたがたも、モーセの慣例に従って割礼(かつれい)を受けなければ、救われない』と説い」たとありますが、
この「ある人」とは、24節にあるようにエルサレム教会とその使徒たち、長老たちの指示もないのに勝手にエルサレムからアンテオケ教会へ来て、
「クリスチャンとなるためにはまず割礼を受け、ユダヤ教へ改宗し、ユダヤ人となり、モーセの律法を守る義務がある」との持論を説く人々、
たぶん5節に登場する「パリサイ派から信仰に入ってきた人々と考えます。
割礼は律法を忠実に守る事であり、救いには必要不可欠だと主張するのです。
このことで紛糾と争論が彼らとパウロたちの間で生じます。
著者ルカはここで「モーセの慣例」と記します。
ユダヤ人と彼らで構成されるエルサレム教会は、ある意味で、まだユダヤ教の慣例、言い伝えに縛られていた事が判ります。
大久保教会にも44年という歴史があります。
しかし、慣例の上に私たちの教会は建てられているのではなく、イエス様の十字架と復活の上に、この素晴らしい福音を信じる信仰の上に建てられています。
私たちが守らなければならない戒めはモーセの律法ではなく、イエス様の言葉、戒めです。
すなわち、神を愛し(礼拝)、隣人を愛し(伝道)、互いに愛し合う事(奉仕と交わり)です。
このことに忠実であるゆえに教会は成長するのです。
人々が作り出した伝統や慣例ではないはずです。慣例や伝統、言い伝えを重んじるユダヤ人クリスチャンたちが自分たちの考えを押し付けようとします。
私たちの生活でも様々に人々によって慣例や伝統が押し付けられ、強要される事があります。
しかし、大切なのは、神様の御旨なのです。
「割礼を受けなければ救われない」というのは人間の傲慢さの表れです。
人の行いとか儀式などによって私たちは救われるのではなく、イエス・キリストを贖い主、救い主と信じる信仰によって、神様の愛と恵みによって救われるのです。
使徒パウロとバルナバは、この問題についてエルサレム教会と協議するために、
テトスを伴え(ガラテヤ2:1参照)てアンテオケ教会からエルサレムへの徒歩400キロの旅に出ます。
彼らはこの長旅を最大限に利用し、ピニケやサマリヤなど道すがらのクリスチャンの諸集会で異邦人伝道の大きな成果と
神様が共にいてなされた御業を詳しく説明しながらエルサレムへ上ります。
3節の「すべての兄弟たちを大いに喜ばせた」という事実は、彼らが異邦人たちの救いを受け入れ、喜んだということです。
すなわち、割礼という儀式や慣例を重んじるよりも、人々が救われたという主の御業を恵みと喜んだということです。
彼らは、エルサレムに到着しても、問題提議をまず最初にするのでなく、
4節にあるように「神が彼らと共にいてなされたことを、ことごとく報告/証し」するのです。
私たちの教会も、神様の恵みを証しすることを常に心がけたいですね。
まず、御言葉に聴くことと祈りから始めましょう。
週の後半も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。
主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎