大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年11月3日
今日は文化の日のお休みでしたが、いかがお過ごしでしょう
か。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守
られるようにお祈りしています。
今夜は、テサロニケ人への第一の手紙3章1節~8節を学び
ます。テサロニケに残してきた現地のクリスチャンたちが迫害
され、信仰が脅かされていないかと心配であった使徒パウロが
テモテをテサロニケへ派遣したことが記されていますが、その
テモテがテサロニケから戻ってきて現地の様子を報告してくれ
た後に、この手紙はパウロの大きな喜びと主への感謝をもって
記されていることを覚えたいです。
さて、テモテはパウロの愛弟子ですが、パウロはテモテを「
私たちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者」とテサ
ロニケの兄弟姉妹に紹介しています。この言葉にパウロのテモ
テに対する信任の厚さが表されています。私たち大久保教会の
兄弟姉妹も、主イエス様によって救われ、福音を伝える同労者
として立てられ、派遣されている存在であることをいつも心に
覚えたいと思います。福音宣教は、パウロやテモテ、有名伝道
者や宣教師などの特定の人だけに委ねられている働きではなく
、ごく普通の私たちが、私たちと生活を共にしているごく普通
の隣人に神様の愛、キリストの福音を証しするために生かされ
ている働きである事を覚え、そのように働く時、社会と地域が
聖霊と神の愛の力で変えられてゆくことを信じましょう。
パウロにとって大切な愛弟子を迫害者の多いテサロニケに遣
わすということは、それ程までにパウロはテサロニケの兄弟姉
妹たちを大切に思っていたということの証明です。大切な人の
ために私たちの大切なものを神に祈りつつ、主に委ねつつささ
げてゆくことが愛するということで、主イエス様はヨハネ15
:13で「人がその友のために自分の命を捨てること、これよ
りも大きな愛はない」と云われ、その直前の12節で「わたし
の戒めは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい」とお命じになられました
。私たち大久保教会は、この新宿・大久保の地に立てられ、遣
わされている教会としてこの地域の人々の救いのために何をさ
さげることができるでしょうか。ご一緒に御言葉に聴き、共に
祈り、そして示される主の言葉に信仰をもって共に従いましょ
う。
さて、パウロが危惧したことは、5節にあるように、テサロ
ニケのクリスチャンの信仰を「試みる者たち」が兄弟姉妹たち
を試み、その心に信仰がくじけてしまい、パウロたちの福音の
業が無駄にならないかということでした。そこで、テモテに委
ねられた使命は、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちの「信仰を強
め、患難の中にあって、動揺する者が一人もないように励ます
」ことでした。
テモテはその使命を忠実に遂行し、現地で兄弟姉妹たちの信
仰を強め、励ました後、パウロのもとに帰って来て、テサロニ
ケの兄弟姉妹たちが信仰をしっかり守り続けていると報告をし
ました。パウロもそれを聞いて喜び、主に感謝しましたが、テ
サロニケ教会での手紙の中で「私たちは患難に会うように定め
られているのである」と云うのです。このパウロ言葉は、テサ
ロニケの兄弟姉妹たちの信仰をむしろ弱め、動揺させ、失望さ
せてしまうような逆効果な言葉に聞こえます。なぜパウロはこ
のように云ったのでしょうか。
パウロは「患難はこれからも続くでしょう。何故なら主がそ
のように計画されているからです。それは患難を通して私たち
の信仰を益々強めるためです。主の僕として造り変えるためで
す。しかし患難の中にあっても必ず主が共にいて下さるから頑
張りなさい」との励ましであると思うのです。私たちの人生も
試練や患難がこれからもあるでしょう。しかし、私たちが覚え
なければならない事は、すべての出来事・事柄には主の御旨と
ご計画の中にあり、主の目的があるということです。
患難にあい、自分ではどうすることもできなくなってしまっ
た時に、近くに伴ってくださる主イエス様の存在を認めます。
自分の力に自信を持っている間、あるいは主以外に頼っている
間は、主の臨在と愛に気付かずに生きてしまうからでしょう。
しかし、パウロたちが不在でもテサロニケの兄弟姉妹たちは
主イエス様のご臨在、神の豊かな愛とお守りを感じ、主への愛
と信頼の中で信仰を守って歩んでいること、また彼らがパウロ
をその働きと健康をいつも覚えて祈ってくれ、再会を待ちわび
ているとテモテから報告を受けたパウロは大いに喜び、安心し
ます。パウロたちも患難の中に置かれていましたから、その報
告はパウロの大きな慰めになったと7節で云って、テサロニケ
の兄弟姉妹たちに感謝しています。
8節で「あなたがたが主にあって堅く立ってくれているなら
、私たちはいま生きることになる」とパウロは云っています。
私たちにも試練の中で心折れそうになる時があります。しかし
、主イエス様を救い主と信じて、信仰に踏みとどまるならば、
私たち一人ひとりの存在が誰かの慰め、励ましになると云われ
て励まされているのです。これは何と幸いなことでしょうか。
これだけでも私たちが生かされている意味と価値が、私たちの
命と信仰にあります。喜び、祈り、感謝して生きましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎
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