がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

カーソンのことば

2011年04月20日 | エッセー
 大学の講義で動物生態学の話をしたあと、応用的な側面として保全生態学でしめくくるようにしている。そのときにレイチェル・カーソンのことばを紹介する。ひとつは「国の豊かさは自然にこそあるのです」、もうひとつは「地球は人間だけのためにあるのではありません」である。その説明をしながら、同じことばなのに今年はまったく違って響いた。
 彼女が「沈黙の春」を書いたのが1962年。ジョン・F・ケネディの時代である。私は中学生だったある日曜日にテレビから「ケネディ大統領暗殺」という手書きの文字の画面が出て驚愕したときのことを鮮明に覚えている。そのケネディは「沈黙の春」を読んで衝撃を受け、ただちに農薬禁止に動いて翌年には立法化したと伝えられる。
 私は学生に、「国の豊かさは自然にこそある」ということばは、日本がいかに豊かな自然に恵まれているかということを伝える意味で説明する。まちがいなく日本列島は自然にめぐまれている。その豊かな日本列島を経済発展のために破壊してきたことを反省すべきで、その比較として、中東の経済的に豊かな国が大金をかけてスプリンクラーで植物を育てていることなどと対比すれば、豊かに存在する森林を伐採することがいかに愚かなことであるかというような説明もしてきた。だが、いま福島のことを考えれば、その自然を放射能で汚染したことの罪深さを思わずにはいられない。それは木を切るとか、動物を狩猟で殺すということ以上に、土地そのものを汚染したという意味で自然へのしうちの深さを感じるからである。
 「地球は人間だけのためにあるのではない」ということばはいわば土地倫理のことであり、これは学生には「キリスト世界では人間が世界を責任もって支配せよと教えられ、地球は人間だけのためにあると考えているから、そうでなくほかの生物のことも考えるべきだというカーソンの考えが衝撃的だったのだよ」と説明する。アジア人としてはむしろそのほうが不自然だと思うのだが、そのことを、例えばアメリカ人が自分たちの考えを世界中に強要し、「なぜわからないの?」という感覚と共通なのだと説明する。宇宙に行くことを「ミッション」ということなどにも低通することであろう。アジア人は土地は人間だけのためにあるのではないと感じるから、カーソンのいうことが正しいのだということを確認するような感じである。だが、いま人への放射能の直接的な影響だけではなく、大地の土壌の一粒ずつにまで汚染がいたっていることを知らされたとき、このことばの意味するところが違って響いて来た。おのれの「便利さ追求」のため、不夜城のような街をつくり、電動の階段や台所を使うような生活を求め、その電気を作るリスクを地方に押し付けてきたという、どう考えてもおかしな生活様式の結果、福島の土地を汚染してしまったという動かしがたい事実を目の当たりにしたとき、「地球は人間だけのためにあるのではない」ということばはじかに胸につきささる。そしてこれまで学生にしていた説明が観念的にすぎたという反省がある。
 これらのことばは板書しないでスライドで紹介するのだが、正直にいえば、この部分は昨年と同じものを使った。さらに正直にいえば、これを紹介しながら、ふと大震災のことを思った。説明しながら、昨年の説明とは違う意味があると思ったのだ。準備不足と言えばそうに違いないが、同じことばが読む状況が違えば違う意味をもつということの例であろう。
 ちなみに学生に安全技術を開発しながら原発維持をすべきか、もうこりごりだから節電してでも原発は反対かの意見を聞いたところ、大半が後者であり、意外なような安堵したような気持ちであった。

2011.6.17

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1 コメント

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レイチェル・カーソンの言葉 (どんぽのばぶ)
2013-12-04 06:05:41
『子供』に関心を持ち保育園保育士~ものづくり(積み木と木のおもちゃの創作)を通じて40年。
レイチェル・カーソンの言葉で私が好きなのは
『・・・子供にとって知ることは感じることの半分も重要ではないのです・・・』です。時に座右の銘であり、自らの姿勢を正して自己点検する時の指標でもあります。この動画も大変素敵ですのでご紹介します。

http://www.youtube.com/watch?v=Ehg38C9W6QY
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