「河内弁」とは言っても「東京弁」とはいわない。それは東京言葉は「弁」ではないという意識があるからだ。「弁」とは「方言」ということであり、それは「訛っており」したがって、「わかりにくい」とされる。
東京人に言いたい。あなたがふつうの日本人の英語力で、アメリカに行ってしゃべったときに「お前の英語はさっぱりわからない」といわれたらどう感じるだろうか。もとより言葉に優劣はない。違いはあり、長短はあるが、優劣はない。にもかかわらず、日本という国においてのみ、ある地方のことばが「正しく」て、それ意外のことばが「正しくない」とされる。
東北や九州・沖縄で自分のことばを使った生徒が、一回使ったら札をひとつ首からかけられ、それが10個になったら廊下に立たされたという事実は、さほど遠くない過去に実際おこなわれたことである。そういう誤った教育が言葉にありもしない優劣をつけることになった。
東北の人はやさしいから黙して語らないが、東北にはあるが、東京にはないことばや表現がたくさんある。もちろんその逆もあって、それはどこのことばの間でもしかりである。
繰り返すが、言葉に優劣はなく、もちろん正邪はあるはずがない。だから、私はその「匂い」のある「東北弁」ということばを好まないので、使わない。その意味で「津軽弁」とはいわず「津軽ことば」といい、詩には「津軽版」とした。
「東北弁」といういいかたが嫌いなもうひとつの理由は、津軽、南部、会津と、それぞれの地方に多様なことばがあるのに、ひっくるめて「東北弁」とすることが粗雑だと感じるからである。もちろんこれは「関西弁」や「九州弁」にもある。福岡ことばと薩摩ことばはまったく違うはずだ。
少なくとも「ナラの木」の翻訳には東北のことばが驚くべき力を発揮したこと、それがいかに豊かな表現力をもっているかは、多くの読者が認めるところであろう。そのどれがすぐれているということではない。ひとつひとつがありがたいほどにすばらしい。
もうやめようではないか。東京のことばが「標準」であってもよいが、それ意外のことばが「わかりにくい」とか「正しくない」という言い方は。それはただの無知と想像力の欠如であるにすぎない。
私にとってこの訳詩作業は、そういう東京偏重へのプロテストの意味も持ち始めている。
東京人に言いたい。あなたがふつうの日本人の英語力で、アメリカに行ってしゃべったときに「お前の英語はさっぱりわからない」といわれたらどう感じるだろうか。もとより言葉に優劣はない。違いはあり、長短はあるが、優劣はない。にもかかわらず、日本という国においてのみ、ある地方のことばが「正しく」て、それ意外のことばが「正しくない」とされる。
東北や九州・沖縄で自分のことばを使った生徒が、一回使ったら札をひとつ首からかけられ、それが10個になったら廊下に立たされたという事実は、さほど遠くない過去に実際おこなわれたことである。そういう誤った教育が言葉にありもしない優劣をつけることになった。
東北の人はやさしいから黙して語らないが、東北にはあるが、東京にはないことばや表現がたくさんある。もちろんその逆もあって、それはどこのことばの間でもしかりである。
繰り返すが、言葉に優劣はなく、もちろん正邪はあるはずがない。だから、私はその「匂い」のある「東北弁」ということばを好まないので、使わない。その意味で「津軽弁」とはいわず「津軽ことば」といい、詩には「津軽版」とした。
「東北弁」といういいかたが嫌いなもうひとつの理由は、津軽、南部、会津と、それぞれの地方に多様なことばがあるのに、ひっくるめて「東北弁」とすることが粗雑だと感じるからである。もちろんこれは「関西弁」や「九州弁」にもある。福岡ことばと薩摩ことばはまったく違うはずだ。
少なくとも「ナラの木」の翻訳には東北のことばが驚くべき力を発揮したこと、それがいかに豊かな表現力をもっているかは、多くの読者が認めるところであろう。そのどれがすぐれているということではない。ひとつひとつがありがたいほどにすばらしい。
もうやめようではないか。東京のことばが「標準」であってもよいが、それ意外のことばが「わかりにくい」とか「正しくない」という言い方は。それはただの無知と想像力の欠如であるにすぎない。
私にとってこの訳詩作業は、そういう東京偏重へのプロテストの意味も持ち始めている。
コメントありがとうございました。
気づくのが遅くなって申し訳ありません。もちろん転載していただければさいわいです。私などよりもよほど言葉に敏感でいらっしゃるのがわかります。「共振」など思いつきません。ブログをご紹介ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/babuybabu/4934983.html
◆ちなみに私のハンドルン・ネームは『トンボのばぶ』ではなくて「どんぽ(鈍歩)のばぶです。