がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

「生まれ来る子供たちのために」を聞き直す

2011年04月20日 | エッセー
「To U」という歌のことばが今回の震災を経験してからまったく違って聞こえたという話を書きました。それとは違う意味ですが、この歌詞も今聞くと違って響きます。
 私はオフコース時代から一貫して小田和正を聞いています。実は仙台の東北大学で同じ時間を共有しています。彼が一学年上で、私が理学部、彼は工学部なので、合同の自然科学系の講義は同じ教室で聞いた可能性があります。メロディや声の透明感が好きですが、それ以上にがんことも言える歌詞が好きです。「生まれ来る子供たちのために」というのは、あの時代、そして今でも絶対ヒットするような歌詞ではありません。後に小田が語っています、確か「さよなら」のヒットのあと、レコード会社は同類の再ヒットを狙った歌を求めたが、彼はそれを断り、人が聞いてくれるようになった今だからこそ、自分たちが歌いたい歌を作ったのだと。私はそういう小田が好きです。
 さて、その歌詞ですが、

多くの過ちを僕もしたように、
愛するこの国も戻れない、もう戻れない


 あの時代、そして今でも「愛するこの国」などということばを歌詞にするでしょうか。このときの小田はまったく計算をしていません。「もう戻れない」は、今聞くと、エネルギーの浪費的な生活様式と聞こえます。原発に頼るような生活から、「もう戻れない」と響きます。歌詞は続きます。

ぼくはこの国の明日をまた想う

メロディはここで収まります。そして

ひろい空よ、僕らは今どこにいる

と続くのですが、歌詞とともにメロディも胸が広がるように高揚感があります。

頼るもの何もない。あの頃へ帰りたい

 この歌は小田が33歳のときに発表されたものです。戦後に育った私たちは大人とは違う社会に生きているという前提で大きくなっていきました。「大人」という、自分たちとは違う時代に生きた人たちがいて、私たちは「こういう大人になる」というモデルなしで育っていきました。後年、私はアメリカやモンゴルの若者に接して、自分たちの受けた教育が非常に特殊なものだったことに気づきました。ふつうの社会には「ああなりたいという大人」がいて、子供はその階梯を登ってゆくことに歓びを見いだすものなのに、戦後の日本にはそれがなかった。「僕らはどこにいるのだろう」「頼るものは何もない」そういうことを考えないで遊んでいた子供の頃に帰りたいという気持ちは、少なくとも私にはありました。
 珍しいことに、歌いながらの歌詞ではなく

-生まれ来る子供たちのために何を語ろう-

 というせりふが入り、またメロディにもどって

何を語ろう

と続きます。当時ビートルズやサイモンとガーファンクルの歌にラジオのニュース音声が挿入されるというようなことがあったので、そうした影響かなと思いますが、なんといっているのかわからないようなボソボソ声でせりふが入るので、却って聞き耳を立てます。
 世代が続く限り、私たちは大人から学び、そして子供たちに伝えるべきものです。それに値するものを私たちは持っているだろうか。何を語るべきなのだろうか。時間は流れ、好むと好まざるとにかかわらず、私たちは大人になり、親になり、愛する家庭を持ちました。

君よ、愛するひとを守り給え

どちらかといえばシャイな小田には信じられないほどのストレートな表現です。ヒットさせたいというような邪心は感じられず、作りたいというより、作らずにはいられなかったという気持ちだったのではないかと想像します。
 空を歌う小田の声はあくまで透明で、そこに抑制のきいた冒頭のメロディで続きます。「真っ白な帆」という歌詞に、本当に純白が見えます。

真白な帆を上げて、旅立つ船に乗り、
力の続くかぎり、ふたりでも漕いでゆく。
その力を与え給え。
勇気を与え給え。


 人がなんといおうと、自分は信じるものを貫く。これはその後実際に小田が実践することです。しかし、誰にも見通しがあるわけではなく、自信もありません。音楽という、リスクがあり、才能だけに頼らなければならない選択をした若き小田は、すなおに力を与えてほしいと訴えます。それはほとんど敬虔な信仰者のようで、レドミレドという最低限の音の動きで着地します。まるで賛美歌でもあるかのようです。
 子供の将来を考え、彼らに語るべきことを知るための努力をし、そのためには社会の無理解があるかもしれない。でも孤立しても自分は愛する人とそう生きる。その決意を歌っています。
 福島の大地が汚染され、子供達が外で遊ぶのを止めないといけない。それが浪費的な私たち大人が作った社会の結果であったのなら、それを見直し、もっと質実な日々を送るべきではないか。劇的で、胸躍らすようなことばかりを追求せず、何事もない平穏な日々こそが尊く、ありがたいということを子供たちに伝えたい。この歌は今の私にそう語っているように思えるのです。

2011.6.7

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