がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

「がんばれナラの木」との出会い、齋藤史夫 2013.1.23

2011年04月01日 | エッセー
齋藤史夫

 高槻先生の「ナラの木」の放送を偶然聴き、胸が高鳴りました。そしてあの暖かい岩手言葉の語りに涙が止まりませんでした。というのは、自分がいま置かれている境遇と、被災された方に対する思いが重なったからです。
 あまりに感動が深かったので、それまでにないことですが、「ナラの木」の朗読をなんとかもう一度聞きたいと思い、どうすれば手に入れることができるだろうかと、その事ばかり考える日々でした。
 いいアイデアもないまま、それでもなんとしても録音を手にいれたいと思い、そのためにはラジオ放送したNHKに当たるしかないと考えました。それで放送センターに電話しましたが、電話口に出た女性は「ナラの木」のことすら知らないとのことでした。途方にくれてNHK仙台、NHK盛岡と連絡したところ、「ナラの木」のことはご存じでしたが、音声を送るのは無理とつれない返事でした。
 それでもあきらめきれませんでした。どうしたらあの素敵な方言による語りが手にはいるのかとずっと思い続けました。そんなある時パソコンに詳しい方と出会い、事情を説明しましたところ、
「ネットで検索してみては」
とアドバイスをもらいました。
 私は絵を描くので、対象とする風景の写真を参考にします。知人の尾野弘行氏はかつて南極観測船の乗組員として南極を訪問し、そのときに撮影された南極の風景を記録しておられたので、その写真を見るためにパソコンを手に入れていたのですが、ほかの目的には使っていませんでした。私は七十六歳になる老人ですから、パソコンの操作は苦手です。
「ネットで検索って?」
と知らないことなので、自分ができるかどうか心配でした。それでも、なんとか挑戦したところ、「がんばれナラの木」が目の前に出たのです。胸をときめかせましたが、それからどのようにすればいいかわかりません。たまたま目に入ったのが「桃」というブログでした。わらをもつかむ気持ちでコメントを入れました。変わった数字でなんも失敗を繰り返し、最後には祈る気持ちで送信しました。そうすると、幸いなことに、ブログに取り上げて頂き、高槻先生の名前もありました。
「今の世の中にはこんな便利なことができるのだ!」
と満足感でいっぱいでした。
 やっと高槻先生にたどりつけたのです。それで、ネットで朗読の音声をお願いしたところ、さっそく音声が電送されて来ました。ところが、どうすれば聴くことができるのかがわかりません。困り果てて、とうとう先生に電話して訊きましたが、私はよくわかりません。たまたま家内がおりましたので、家内にかわり、先生からの指図にしたがって操作をしたところ、ついに音声が出て聴くことができました。そのときの嬉しかったことは今でも忘れられません。早速録音して私自身何度もくりかえし聴きました。それから、友人、知人に聞いてもらいました。たくさんの感動がありました。
 「ナラの木」を聴くたびに地方のことばについて考えるようになりました。私は東京下町の育ちですから、口調は乱暴です。たまに東北に行って下町ことばで話しますと、なにか怒られているみたいだとか、早口で解らないなどと言われます。古典落語にでる大工(でえく)の棟梁の口調です。下町の者としては「さっぱりしていて良いな!」と思い、「口は悪いが腹の中は真っ白よ!」という気持ちなのですが、違う土地の人が聞くと乱暴に響くようです。
 それに比べると東北のことばは温かく、力強く、粘り強いと感じます。きっといままで色々な困難にうち勝ってきたからでしょう、心のこもった口調だと感じます。ですから東北に行くとできるだけお年寄りとお話するようにしています。そうすると、不思議なことに私には故郷はないのですが、故郷に帰ってきたように感じるのです。
 実は私は六年前に重病であることを宣告されました。病院に行って診断を受けたあと、医者から家内と二人で来るようにと別室に呼ばれて説明を受けました。そこで告げられたのは、癌であること、段階は3.6くらいで、末期癌である4ではないこと、胃の周りのリンパは除去したということでした。そして転移の危険があるから抗癌剤の使用を奨められました。血管注射であることも聞かされました。これを続ければ体毛が抜け、食欲不信、倦怠感などの症状が出るということでした。説明を聞いて私は先生に聞きました。
「そのままにして治療しなければ、命が短くなりますね。」
「そのとおりです。」
私は決意して言いました。
「先生ができるだけのことをしてくださることは、入院中にお人柄をみてよくわかりました。ですから、先生のされることに何も言わずにしたがいます。それでだめでも、先生を恨むことはありません。寿命だったと思えばいいのですから。」
すると先生は
「そこまで言うのであれば、一緒にがんばりましょう。私も懸命に治療します。これは闘いです。」
 と言ってくださいました。
 そして三週間ほどして手術を受けました。二〇〇七年の一月のことです。それからはまさに闘いでした。抗癌剤を投与されると、口の中に砂があるようなザラザラ感があり、味覚がまったくなくなりました。さらに下痢になったり、発熱したり、逆に便秘になったりと苦しみが続きました。癌細胞を抑制するということはそれだけ強い薬効があるからでしょうが、体の正常な機能がそこなわれてしまいます。
 食欲はまったくなくなりましたが、食べなければ体力がなくなると思い、何でも食べるようにしました。一番ショックだったのは、風呂に入っていたとき、髪の毛がまとまってごっそり抜け落ちてお湯に浮かんだのを見たときです。
「あ、始まった!」
と思わず湯船から出ました。一瞬にして丸坊主になったのです。
 ふつうは四週間に一度の投与を十回続けるのだそうですが、私の場合は十二回続けました。十三回目にはさすがに先生のほうから
「もうやめよう。よくがんばったね。」
ということばがありました。そのとき、もともと七十五キロあった体重が五十キロになっていました。このとき私の体はボロボロになっていたと思います。
 しかし私は治りたいの一心で、「病気には負けないぞ」と、強い気持ちで生きてきました。お医者さん、看護婦さん、それに周りの方々のおかげで日常生活には問題ないところまで回復しました。
 こうして手術後一ヶ月ほどで退院することができました。私は絵を描くのですが、実は退院の二日後に個展を開くことになっていました。五十ほどの作品を出展する予定でしたから、その準備をしてくれた家内はたいへんだったと思い、感謝しています。そのとき私の主治医の先生は、私が予定通り退院できるようにと、
「齋藤さんの絵画個展が迫っている。間に合わせるのだ、皆協力してくれ!」
とおっしゃったそうです。本当にすばらしいお医者様との出会いで私は命を頂戴した思いでした。
 そういう思いがあったからこそ、ラジオで「ナラの木」を聴いたときに、その不屈の精神に感動したのだと思います。そして不思議な縁で高槻先生とも知り合いになり、勇気づけられました。私はこうして頂いた命をだれかのために役立てたいと強く思いました。私の苦しみなど、今回の大震災に比べれば何ほどのことでもありません。どうか被災地の皆様が一日も早く元の生活にもどれます様お祈りしております。私にできることは限られますが、それでも心をこめていつまでも応援したいと思います。

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