がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

松を立てる 2012.9.15

2011年04月01日 | エッセー
 あの日から1年半が経ちました。その節目ということもあったのでしょう、陸前田の一本松を切り倒して処理をして再び立てることになったと報じられました。
 私は8月下旬に田を訪れ、改めて津波が深いところまで達していたことを知って驚くとともに、回復が遅いことに情けなさを感じていたので、このニュースを複雑な気持ちで聞きました。
 この国が1年半の時間をかけてこれだけのことしかできないのか。それがごく素朴な疑問と無力感です。被災地の人々に元気を出してもらいたいという思いはなかなか伝わりません。そうした中にあって「がんばり」の象徴であった一本松がなくなることは心の支えを失うことになるであろうから、なんとか再び立たせようという計画がわからないではありません。しかしそういうものだろうかという思いは残ります。
 私はこの一本松のことについて自分の考えを書いたことがあります。そこで書いたことのひとつは、生態学的にみたときにマツというのはもともと不安定な場所に生える木であって、寿命もそう長いものではなく、むしろ枯れてはまた新しい子供を産み出して引き継ぐ生き方をする木だということです。そのことを考えれば、あの松が枯れたことは心痛ではあったけれども、受け止めるべきだと思うのです。
 報道のあとに地元の人の意見がありました。もちろん「残念だ、なんとか再建してほしい」という意見もありましたが、「静かに横にならせてやりたいなあ」という声も、また「命あるものは死んでゆくんだよ」という声もありました。まったくその通りだと思います。
 美しかった田松原が津波によって壊滅したが、その中に一本だけがんばった松があった。だが、その松もついに枯れて土に還っていった。ほかの松と同じように。そうであっても、私たちの心の中にはそのことはいつまでも残っている。それでいいではないかと思うのです。
 私は思います。もしこの松が合成樹脂などを注入したり、樹皮をプラスチックで加工したりして、「永遠に」残されたとして、本当に被災者を勇気づけることになるだろうか、と。枝がなく、葉もない松はむしろ痛々しく見えないだろうか。これを見た人は、横になりたいのではないか、土に還りたいだろうに、とむしろ痛ましさを感じるのではないだろうかと。
 付け加えれば、松を「再建」するのに1億5千万円を費やすそうです。それが高いか安いか軽々には評価できません。本当に被災地の皆さんが心に勇気をもてることであれば、決して高くはないという考えはあるでしょう。しかし、私には実質的に町に本来の生活が戻ることが優先されるべきだという思いのほうが強いです。

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