がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

ケセン語ー山浦玄嗣先生のこと1

2011年04月20日 | エッセー
 おそらく幼年時に何度もひっこしをしたせいで、3歳くらいですでに「違うところには違うことばがある」ということを深い部分で理解した。小学生になると「友達になるためには同じことばを使わなければならない」ことを知って、実践してきた。そのためには違いを見つけ出し、単語や文章だけでなく、使う状況を移し替えないといけないこともわかっていた。ただ単語を並べて「何何弁を知っている」という大人を「わかってないな」と思っていた。子供にとっては、ちょっとした抑揚や使うことばのタイミングなどが違うと「よそもの」と思われるからである。そのため、自分のまわり全体の空気のようなものをそっくり置き換えなければ実践的ではない。そういうことが身に付いていたために、東京のことばをコピーするのも、英語も、その延長線上にあった。「なりきる」のである。
 山陰は関東地方とはまったく違って、10キロほど離れた町でも言葉が違う。私は鳥取県の倉吉という街で生まれ、そこに3歳までいて、米子に移った。倉吉は因幡で、米子は伯耆だからことばは大きく違う。もっとも因幡の本拠地は鳥取市で、これはまた倉吉とは違う。米子のあと、松江にも住んだが、これは出雲弁で、また大きく違う。私はそれらをかなりうまく使い分けることができる。バイリンガルどころではない。そうしたことから、自分では耳がいいと思っている。
 テレビで解説者の人がでて話をしていた。ほとんど標準語なのだが、たとえば忘年会というとき、東京なら同じ高さをくりかえし「ぼうねんかい」というが、倉吉では「ねん」が高くなり、「かい」が低くなるので、標準語で探すと「高学歴」というときのような高低になる。私が「あ、この人、倉吉の人かもしれない」といったら、父が「そんなわけないだろう。きれいな標準語でないか」といったが、最後にプロフィールが出て「倉吉市出身」とあり、父が驚いていた。そういうことはよくあって、学生の出身地をかなりの打率で当てる。

つづく

ケセン語ー山浦玄嗣先生のこと2

2011年04月20日 | エッセー
 方言について口はばったいことを書いた。「アマチュア方言ファン」である。しろうとのことだからご容赦いただき、続けたい。
 「耳」は脳が若いときでなければだめで、私は18歳で仙台に行ったが、仙台弁はあまりマスターできなかった。ヒアリングは8割程度、しゃべりは60点くらいではなかろうか。落第である。調査で岩手に行くようになり、大船渡などの海岸部はけっこう石巻などと似ているのがわかった。ただもう少し重い響きがあった。すぐ隣なのだが、釜石はまた少し違い、その内陸の遠野はずいぶん違った。遠野はおっとりとし、布でいえばリネンのような暖かさ、色でいえばコーヒー色のような安らぎがあるようだった。
 30代のころ、大船渡でシカの調査を終え、仙台に帰るときに本屋に立ち寄ったら、奇妙な本があった。山浦玄嗣著「ケセン語入門」とある厚い本だった。なにげなくページをめくって面食らった。基本文法があり、発音もちゃんと発音記号があり、会話の実例などもある。パロディなのかと思ってながめていたが、それが「本気」であることがわかった。
 そもそも「気仙弁」ではない。「ケセン語」である。ここにも山浦先生の哲学がある。東京が上で地方が下だという考え方そのものに対するプロテストである。宮城県の海岸部の北部から岩手県の南部にかけてを気仙地方という。いまの気仙沼(宮城県)はその代表だが、宮城岩手の県境を超えた大船渡あたりまでを含む。先生によれば、気仙人はそもそも日本の一地方でありながら、太平洋を見ながら生きて来たのであり、東京ではなくアメリカを見ていた。東京を中心とした日本という国があるなら、俺たち気仙人はそれに匹敵する「ケセン」という国の国民であり、そのことばを「ケセン語」というわけである。「その心意気、よし」ではないか。
 山浦先生は何事も根本から考え、あくまでも明るく実践される。その本の中に、言葉というものについても、実に深い考察がなされていた。
 自分の心の中から出てくるものを本当のことばだとすれば、すべての人のことばは自分を育ててくれた親のことばであろう。だが、東北地方にあっては、その自分のことばが「汚い」とされ、公の場では使用禁止とされた。戦前の小学校では不用意に方言を使った子は首から札を下げさせられ、その数がたまると廊下に立たされたという。そうしたことがいかに理不尽なことであり、いかに子供の心を傷つけたろうか。東京に出た東北出身者が東北弁を使って笑われたために自殺したという話があるという。
 十分ありうる可能性として、明治政府が首都を京都においたとする。おそらく標準語は京都弁を母体としたであろうから、関東人は自分のことばを使うことを禁じられ、「汚い」といって笑われたであろう。思えば日本の古典文学は「関西弁」で書かれているのだから、標準語が関西弁であるほうが自然だったのかもしれない。以上は自分のことばが笑われることがどういうことであるかを知らない関東人に想像してもらいたくて書いた。
 ともかく、私は「ケセン語入門」を手にして衝撃を受け、ちょっと高かったが購入して読んだ。そして方言が好きで、道楽のように楽しんでいたが、なんとなくその底のほうにはもっと大切なことがあると感じていたことの鉱脈をガツン、ガツンと叩かれた気がした。「方言は道楽なんかじゃないぞ」と。

つづく

ケセン語ー山浦玄嗣先生のこと3

2011年04月20日 | エッセー
 山浦先生の書かれたものを読むとすぐにわかるが、先生はいつでもものごとの本質を直視される。人間にとって大切なものは何か、と。きっと若き山浦青年は自分がいかに生きるかを考え、職業の選択をしたに違いない。そして選んだのが医師の道であった。人の命を救うこと、これほど明快なことはないん。しかも大都市で高給をとる医者ではなく、自分の故郷で顔見知りの人たちを救うお医者さんである。
 山浦先生の病院は少し変わっている。いや、大いに変わっているというほうがいいかもしれない。病院の中では標準語を使ってはいけないし、カルテもケセン語で書くという。ここにも山浦先生の人生哲学がある。言葉とは何か。それは心を口に出すものである。そうであれば、自分の本当の言葉とは、親に教えてもらった言葉であるに違いない。その言葉によって本当に心が表現できる。いや、心はその言葉によってしか表現できない。そうであれば、お腹が痛いにもいろいろあるし、心臓がなんだか調子がよくないなども、表現がむずかしい。それをふだん使わない標準語でうまく表現するのはむずかしいことである。でも日本中の病院はそれを強要している。関東人にはそれでいいかもしれないが、ほとんどの場所ではそこに無理が生じる。お母さんが「ちょっと待っててね」というのに、武士になれば「暫時待たれよ」という。ましてや医学用語は特殊なものばかりで、コツソショウショウなどという。私が子供の頃はカルテにはドイツ語で書くというアナクロニズムさえあった。
 山浦先生は自分自身の体験として、東京ことばで自分の心が表現できないことを知り、それを強要することがまちがいであると確信するようになる。多くの人は器用に東京語をマスターし、そうすることが自分を「改善」することと考え、膨大なエネルギーを使ったが、山浦先生はそれを逆だと考えた。自分の心は自分の言葉でしか表現できない。そうであれば自分に正直に自分の言葉を使い続けよう。子供でもわかる明確な理屈であり、そのことを明るく実践してこられた。

つづく

ケセン語ー山浦玄嗣先生のこと4

2011年04月20日 | エッセー
 山浦先生は敬虔なクリスチャンであり、医師であられること自体がその具現であるに違いない。クリスチャンにとって最も大切なものは聖書である。その聖書も山浦先生にかかると、「自分の言葉で書かれていない」となる。本当にものごとにまっすぐに立ち向かい、自分に正直な人である。分からないものは分かろうとする。それが大切なものであればあるほど、分からないままにすることはできない。
 山浦先生は聖書の最初の言葉から壁にぶつかる。「初めに言葉ありき」。これがわからない。それに続く「言葉は神とともにあった」「言葉は神であった」はますますわからない。だが、日本のクリスチャンは聖書とはむずかしいもので、自分たちにはわからないが、信じることが大事なのだというようなことをいって、いわば自分をごまかしてきた。
 山浦先生は違った。調べてみたら「言葉」とはギリシャ語でロゴスといい、それを辞書で調べてみたら、17もの意味があることがわかったという。ロゴスとは英語でいえばlogicであり、論理ということである。山浦先生はこの17をすべて置き換えてみたが、みな納得できなかった。最後の17番目の意味は「思考」ということで、これを山浦先生は「思い」として当てはめてみたらぴったりとした。「はじめにあったのは神様の思いだった」「思いこそ神そのものだった」。こうして山浦先生は聖書の言葉を自分のものとし、それをケセン語にも訳した。
 実は私はその聖書を読んだことはない。ケセン語入門の中にある例を知っているだけであるが、それがいかばかりすばらしいものであるかは想像できる。

 大船渡の奥にある五葉山という山で私は十数年の調査をし、100回以上の調査行を実施した。そして多くのことを学んだ。その体験は私の血肉となっていまも生きている。山浦先生は私の心の先生であり、雲の上のような人なのでお会いしたことはない。ただ一度だけお便りを差し上げたことがある。そうしたら自分たちの山でシカのことを調べてもらってうれしいという意味のお返事をいただいた。
 今回の津波で大船渡は壊滅的な被害を受けたので、山浦先生のことも心配だったが、仙台の知人に電話して、お元気であることを知って快哉を叫んだ。そして新聞でケセン語聖書が話題になっているときき、本当にうれしかった。「がんばれナラの木」のことをお伝えしたいと思う。

遠望すれば

2011年04月02日 | エッセー
7月中旬にやっと金華山に行くことができた。石巻を通り、牡鹿半島を経由して、金華山に行った。石巻は一見するとあまり変化がないように見えたが、店が開いていない。片付けがかなり進んでいたということだろう。牡鹿半島は見慣れた景色だったが、小さな浜とよばれる漁村には家がなく、ある程度の大きさのところは片付いていたが、そうでないところはゴーストタウンになっていた。立ち止まるのも、まして壊れた家の中をのぞくのははばかられた。終点の鮎川は一番よく知っている町なので、その惨状がよけいに印象的だった。家がなくなってしまった町は遠くがそのまま見えて狭く感じられた。道路が盛り上がっていて、地震の力に驚かされた。

 思えばあたりまえなのだが、山は何もなかったかのように、濃い緑が溢れていた。金華山に行って山頂に達して、35年眺めてきた景色をまた見た。何もなかったかのようだった。



山を下りて見晴らしのよいところから北を望んだ。リアス式海岸が続き、半島が次第に薄くなってゆくのがみえる。これもまた、いつも見てきたのと変わらない景色だ。だが、ここにまちがいなく津波が襲い、町を、家を破壊し、多くの人命を奪った。そのことのギャップが実感できないものがあった。



 けっきょく「被害」と呼んでいるのは、人が自然に逆らってできたもの、ビルとか、高い家とか、硬い道路とか、灯籠とか、塔とか、そういうものが揺さぶられ、持ちこたえられなくなったということではないか。草も木も、サルもシカも、そのときは驚いたであろうし、一部には津波にさらわれたものもいたかもしれないが、一生のあいだに経験するさまざまな災難のひとつくらいだったように見える。そういうことなのかな」と思いながら、なんとなく悲惨さを実感できない自分をいぶかしく思うようなものがあった。

 牡鹿半島のある浜で車を降りて歩いていたら、キティー人形があった。いろいろなことを想像させ、困った。金華山の山頂から遠望した景色にはもちろんこういうものは見えない。この人形をもっていた子はどうしただろうか ― 津波をそういうスケールでとらえるというのはなかなかできないように思う。しかし、今回ひとつはっきりしたことがある。広島の原爆は瞬時に広島の町を壊滅させた。人類史に残る残酷で恐るべき出来事だった。しかし、広島にしても長崎にしてもその破壊は「点」である。それに比べると今度の津波は、数百キロにおよぶ面が例外なく破壊された。それだけでいえば、原爆をはるかにはるかに上回る破壊力がある地震が起きたということである。

 私たちはとんでもない思い違いをしていたのではないか。自然を管理できるとか、自然をうまく利用してやろうとか、対等どころか、上から眺めるような気分をもっていなかったか。「発見」ということばも、自然の中から人に役立つものをみつけるということであろう。
 あるいは「むやみに」自然を畏れることを迷信ということばで馬鹿にしていなかったか。自然とは畏れて当然の圧倒的な力をもっているのに、科学的に調べればどんなことでも「謎」ではなく、だから畏れるに足らずと。

 私は自然科学を生業としているし、根拠のない迷信は信じず、科学に全幅の信頼をおいている。しかし、それは自然の底知れぬ大きさを思うからこそであり、そうであればむしろ自然は「正しく」畏れるべきであって、中途半端に科学的であるために、自然をあなどっていたのではないかという反省を持ちたいと思う。そういう精神は自然への畏敬につながらなければならない。

 遠くから眺めているだけでは見えないことがあるが、同じ意味で、遠くから長い時間スケールでとらえなければ見えないこともまた、あるように思った。

緑の波

2011年04月02日 | エッセー
 震災後、心が安定しなかった。私は18歳から40歳すぎまで仙台ですごし、学生時代から金華山という島でシカと植物について研究をしてきた。その研究の発展で岩手県の五葉山という山でもシカの調査をした。地名でいえば牡鹿半島、大船渡、釜石などであり、今回の震災をまともに受けた場所である。調査では地元の人にお世話になる。その人たちの安否も気がかりだった。多くの人はすぐに連絡がとれて、大丈夫だということがわかったが、岩手県には電話が通じない人が何人かいて気になりながら、大学の仕事があって現地に行くことができずにいた。
 7月になって現地を訪問し、その惨状を目の当たりにして衝撃を受けたが、私の知人はみな無事であることが確認でき、胸をなでおろした。

 岩手県は広い。東京は東西に長くその距離は70kmほどあるが、幅は20kmほどしかない。岩手県は縦長だが、東西幅が100km近くあり、南北は150kmもある。面積でいえば東京の7倍もある。今回の訪問では、沿岸部は宿泊施設も限られるので、内陸の北上市と盛岡に泊まった。
 北上山地のなだらかな山並みのあいだを進む。なつかしい景色が目に入る。この道を何度も何度も通って調査をしたものだ。田んぼが広がり、その奥に丘陵があって雑木林があり、その裾野に農家がある。ときどき川が現れる。清流が流れ、ヨシやヤナギが豊富だ。そうした景色がくりかえす。





 大船渡の町が近づいてくると、私は少し息苦しいような気持ちになった。テレビで見ていた瓦礫の町を想像し、変わり果てた町の様子を見たくない気持ちがあったからだ。ただ意外なことに私が心配していた駅前などはほとんど被害がないようで拍子抜けしたような気持ちがあった。しかし車が進んで港湾施設があるところにいたると、本当に戦災を受けた町のように建物の土台があるばかり。ときどき残った建物があるのも戦災地のようだった。思いがけないほど高い場所にも被害があり、津波の規模の大きさを物語っていた。
 調査をしていた当時、お世話になった東海新報という新聞社に挨拶をしたあと、陸前高田を経由して戻ることにしたのだが、そこは大船渡以上にひどかった。平地がない三陸海岸にしては比較的平野の広いこの町は、そのことが被害を大きくした。震災後4ヶ月が経っていたので、破壊されたものも整理されて、いわゆる瓦礫が小山のように積んであるほか、壊れた自動車、タイヤなどが場所別にまとめてあった。ビルが大破していたが、爆弾が直撃しても、これほどの破壊はないだろうに、水がぶつかっただけでこれだけの破壊力になるのだろうかと、不可解な思いがあった。



 翌日と翌々日は盛岡から東進したが、大船渡方面よりも山が険しく、農地よりも林を見る時間が長かった。東京であれば東京湾近くから山梨までの距離を、ずっと林を見ながら走ることになる。3日間、これを3往復したから、岩手の広さ、その緑の豊かさが体にしっかりと印象づけられた。中部地方の山岳のような険しさはないから、峠からはなだらかな山並みが幾重にも連なるのが見える。それは「緑色の波」のようだった。
 大槌で海岸部に達したとき、同じように壊滅した町の惨状を目にしたが、同道した学生が瓦礫の中に赤い旗が立っているのに気づいたのだが、どうやらそれは遺体の位置を示しているようだった。高さ1mあまりで、50cm四方くらいの朱色の旗に、日付と氏名が書いてあったから、間違いないと思われた。場所によってはかなりの数があった。そのことから、目の前の惨状が、実はそうではなく、4ヶ月前にはまさに惨状というべき現実がここにあったことがわかり、胸がつぶれた。
 海岸の急な道路をおぼつかない足取りで歩いているおばあさんを見た。家族のもとに向かうのであればよいのだが、家族の一人が犠牲になった可能性は大きく、あるいは身寄りがなくなったということさえ、なしとはしない。そういうことを想像し、つらくなった。
 少し内陸に行くと仮設住宅があったが、道路沿いに見た多くのものは入居している人は少ないようだった。いろいろな事情はあるのだろうが、不便でも体育館のようなところのほうが人が周りにいるだけ、安心できるというようなことがあるのではないかと想像した。



 そうした体験をして、また長い「緑の波」を見ながら盛岡に戻った。植物たちは何事もなかったかのように、新鮮で命に満ちていた。ときどき通過する農村には「昭和の景色」があった。昭和も前半の景色があった。家の木壁は強い日光や風雨にさらされて真っ黒になっている。そうした「古い」ものには哀れさのようなものがあるが、しかし今回の震災で強烈に感じたのは、新しいものが破壊されたときの哀れさである。悲惨さというべきかもしれない。破壊が大きければ大きいほど、自然の新鮮さが際立つ。当たり前のことだが、人が作ったものは確実に古びるのだということも実感した。それとは裏腹に、その脇にある植物は人の営みをよそに、毎年春になれば葉を伸ばし、季節ごとに花を咲かせ、実をつけてきた。進歩を求めることはなく淡々と生をまっとうしてきた。今回の破壊を目の当たりにして、そのことがとてつもなく偉大なことなのではないかと思えた。

もうひとつの津波

2011年04月02日 | エッセー
もうひとつの津波 2011.8.6

スリランカの子供たちからかわいい手紙を受け取って、改めて思い出した。2004年の12月にスマトラ沖地震が起きて、スリランカの東部と南部が大きな被害を受けた。
 当時私は東京大学大学院で大学院生を指導しており、そのなかに2人のスリランカからの留学生がいた。またスペインから留学していたアイムサ君がスリランカでアジアゾウの研究をしていた。私も何度かスリランカを訪問し、人々のやさしい態度や無邪気な子供たちに親近感をもっていた。そうしたときに起きた悲劇であったから、留学生たちと支援活動を始めた。というより、アイムサ君は津波があったとき、現地にいて、その惨状を目の当たりにし、救援隊を組織して支援活動をすでにして帰国したのであった。


津波に遭い、呆然と立ち尽くす人々 2004.12 撮影アイムサ


たったひとつの「笑顔」 2004.12 撮影アイムサ

 なにをどう始めればよいのか皆目わからないが、ともかく苦しんでいる人、とくに子供たちがいるのをなんとかしたいという思いで、お金と物資を集めて送ることは私たちでもできることだった。それで私は知己があまり多いとはいえないし、失礼ながらお金持ちはまったくいないのだが、事情を説明するeメールを送ることにした。
 お金のことを書くのは少しはばかられるが、私は20、30万円を集めて送れば私のできることとしては十分だろうと思っていた。ところが、その額には数日で達し、友達がその友達に声をかけて輪が広がり、当初予測していた額の10倍以上が集まった。集まってしまったという感じだった。多くの人が気持ちよく送金してくださったばかりでなく、逆に「機会を与えてもらってありがとう」と逆にお礼を言う人さえいた。「あの人には足を向けて寝られない」というが、そういう気持ちだった。
 スリランカの二人は懸命に動いてくれて、多くの物資を確保して母国に送った。私は予想以上に集まったお金の使い方を二人に相談し、津波で孤児になった子供たち20人ほどを選んで息の長い教育支援をするための基金を立ち上げることにした。もともと経済的に余裕のない家庭が多く、働き手を失ったら、学校に行くこともできなくなる子が多いということだったので、成績のよい子供19人を選んで、その子が高校を卒業するまで支援することにした。
 4月になって、私は時間をとって現地を訪問することにした。文具やお菓子をおみやげにしてスリランカの南のハンバラントータという港町を訪れた。


津波で破壊された家 2005,4 ハンバラントータにて

そこからさらに移動した小さな町の小学校で歓迎会があるということだった。学校に着くと、スリランカでは国中がそうなのだが、純白の制服を着た生徒たちが私を待っているようだった。二人の少女に木の葉を重ねたものを渡されたが、それは特別の敬意を表現するものだということだった。会場に入るとたくさんの子供とそのお母さんたちがいて、黒板には「A friend in need is a friend indeed」ということばが飾ってあった。高学年の生徒がお礼のあいさつをしてくれて、私も発言を求められた。私はちょうどひと月前に父親を失ったところだったということもあり、幼い子供たちを見ながら、この子たちが不安の中で懸命に生きていることを思って、少しウルウル状態だった。挨拶の言葉を話しながら、協力してくださった知人のこと、この子たちの心情、私たちは当然のことをしただけなのに、そのお礼としてこんなにたくさんの人が集まってくれていることなどが思われて、こみ上げるものを抑えられなくなりそうだった。それでも、なんとか、「私たちは皆さんががんばって勉強できるよう支援しますから、安心して勉学に励んでください」と言葉を締めくくった。


プレゼントを受け取る少年 2005.4


大きな沙羅双樹の下で個時たちと記念撮影 2005.4

 そのあと、会場に来れなかった何人かの子供の家を訪問したが、いくつかの家庭は本当に貧しそうだった。家に何もない。土壁の家に食器はあるが、テーブルさえない家もあった。だが、子供たちの表情は明るく、目は輝いていた。4年生くらいの男の子は、外国から来た訪問者を前に緊張したおももちだったが、「僕は一生懸命勉強して、妹たちのためにこの家を支えます。」と言った。私は明治時代の日本の若者はこういう顔をしていたのだろうなと思った。日本の男には習慣がないので私にはできないが、許されるのであれば抱きしめてあげたいという衝動があった。
 その後、子供たちから絵を添えた手紙が届いた。私がシカの研究者だということを聞いたのか、シカや動物を描いたものが多かった。
 あれから7年ほどが経つ。子供たちもずいぶん成長したことだろう。おかげで支援は継続できている。そうした矢先に今度は日本が津波を受けることになった。
 「ナラの木」の紹介という、自分でもまったく想定していない形の支援を始めることになった。スリランカのときとはまったく違うことをしている気持ちだったので、自分の中ではあまりつながっていなかったが、スリランカの子供たちから手紙をもらって、いすれも津波をきっかけに動き出したことだったのだと改めて思った。
 


花火禁止

2011年04月02日 | エッセー
花火禁止
高槻成紀 2011.8.30

  これは私の私的体験を綴るものだが、言いたいことはそういうことではなく、私たちみんなの胸の中に3月11日以来くすぶっていること、つまり人が生きるということと心のことである。
 8月の2週間をモンゴルでの動植物の調査に明け暮れ、帰国して1日おいて奄美に家族旅行に行ってゆっくり過ごした。それから帰って日常生活に戻り、テレビを見ていたら、震災で命拾いした人の自殺が相次いでいると報じていた。その日、通勤路の小さな広場に「花火禁止」と書いた張り紙をみた。
 これらのことどもは、それぞれまったく関係のない事柄だが、私の中には3月以来通奏低音のように震災の被災者の暮らしへの思いがあり、それを背景としてこれらの体験が化学反応を起こすように共鳴した。
                **
 モンゴルは広く、乾燥している。暑い日は怖いほどの日射しに攻められるが、曇りの日は身震いするほど寒くなるかと思えば、別の日には目が開けられず、息もできないほどの砂嵐に襲われた。モンゴルの人たちは、顔つきを見れば私たちと同じDNAだと思われるが、体格は相当違い、この過酷ともいえる環境で暑さ、寒さをものともせず生きている。一方でいろいろな縁起をかつぐようだ。学生が車中から一里塚のような石碑の写真を撮ったとき、ガイドのジャガさんが「それはだめだよ」と諌めた。それは一里塚ではなく、交通事故者の慰霊碑だという説明だった。なぜ写真を撮ってはいけないのかはわからないままだが、いつも穏やかなジャガさんのそのことばには有無をいわせぬ響きがあった。私は以前、遠くに調査にいったときの帰りに「ウランバートルまであとどのくらいですか?」ときいたことがあるが、運転手に同じように不機嫌なようすで「帰る時間のことなど聞くな」と言われたことがある。それは天のみが知ることで、人が軽々に判断したり、予測したりするのは不遜であり、そういうことをするとよからぬことが起きるからだという。
 私たちは子供の頃、そういう「迷信」を非科学的であり、そういうものから脱却しなければならないと教えられてきた。そういう空気は現在の日本よりはよほど強かった。今はそういうことを信じる人もなくなったからか、特に科学的であれと言うこともなくなった。だからモンゴルでこういうことを聞くと新鮮な驚きを覚える。
 私たちが滞在したツーリストキャンプには欧米人が多かったが、モンゴルの人も泊まっていた。ある夜、どこかのゲルから夜通し歌が聞こえてきた。それは、もし私が鳥なら空を飛んで懐かしい故郷に戻りたいという望郷の念を歌った歌で、全員が天まで届けと大きな声で歌っていた。
                **
 奄美大島はねっとりとするほど湿度が高く、モンゴル草原を萌葱色とすれば、黒に近いほど深い緑色の森が島を被い、ヘゴという木性シダやソテツが生え、ハイビスカスの花にナガサキアゲハやツマベニチョウが訪れていた。
「これが同じ東アジアなのか」
私は説明の必要もないあたりまえのことに改めて感嘆した。直前まで心を占めていた調査のことも、学生の体調も心配しなくていい、実にのんびりとした旅で、孫を海につけて、毛穴の開放しきったような時間を過ごした。
 夕食のとき地元の若者がサンシンを引きながら島唄を歌ってくれた。サンシンも歌も少しハズしていたが、暖かみに溢れていた。私はよい機会だと思い、中孝介のCDを手に入れて聴いた。やはり暖かく、やさしさが心に滲みた。この島で古い昔から、歌のうまい若者を囲んで人々が集まるということがあるのだろうと想像した。
                  **
 私が育った本州は気候区分でいえばモンゴルと奄美のあいだにあるといえるかもしれない。緯度的にもそうだし、乾湿でもそういえるだろう。環境が人の暮らしや心に影響を与えるのは明らかだから、私はモンゴルと奄美の中間の心をもっていてよい。だが、私たちはあのように歌を楽しまないし、寄り添って生きることもしていない。
 私たちの心だけが違うのだろうか。それはなぜなのだろうか。今の日本はそうだが、私たちの世代なら、遠い幼かったころの記憶を呼び覚ますと、かすかながらそう思えなくもないものがある。子供の頃、我が家には知人がよく来ていたし、私の親もどこかによく出かけていた。ささやかなものではあるが、届け物や貰い物があって、仲間の喜怒哀楽を自分のことのごとく分かち合っていた。それは戦後間もない頃のことだから、大正や明治、そして江戸までさかのぼれば、そういうアジア的空気はさらに濃厚だったと想像する材料はある。日本の中心部ではもともとあったそうした空気が失われたというのが実態のようだ。なぜか?私はそれは都市化によるのだと考えている。都会にいれば、知らない人のほうが圧倒的に多い。人はいるが、自分とは無関係な人ばかりであるから、人の関係とはそういうものだということが基本にある。人に親切にせよと言われても、あるいは自分でそうしたいと思っても、知らない人にできることには自ずと限りがある。見ず知らずの人ににこにこして手伝うのはむしろ不自然なことであろう。
 仙台から東京に来たときに、電車の中でアナウンスがあったときのことが忘れられない。人身事故があったので電車が停まるというアナウンスであり、私は「これはえらいことになった。」と思い、みんなでけが人を救出するので手伝えというようなことになるのか、あるいはけが人の状況の説明があるのかと身構えた。だが、周囲の人の反応は、舌うちをして「困るよな」というものであり、あとで知ったが、人身事故というのは、人が死んだという意味だった。「一人の命が失われたのに、帰宅が遅れることで舌うちをするのか。」私は、これからとんでもない社会で暮らさなければならないのだという覚悟をしたときの、暗い気持ちを覚えている。
                **
 テレビでは震災を生き延びた老人が自殺していることの解説として、地方の人はプライバシーよりも絆を重んじるからだという意味の発言があった。都会の標準からすれば理解できないような感覚で生きていることを理解すべきだという言いぶりであった。都会に住む人のほうが多数派になった現代日本では、都会人の感覚のほうが「正常」とされるのであり、そういう考え方が原発を地方に作って利便は都会人が享受し、万一災害があっても被害にあわないという構造を生んだとみてよい。だが、その万一が起きてしまった。
 ところで私は生物学を学ぶ者として、人をサルの一種(ヒト)としてとらえ、そういう目で観察するが、そういう見方をしたときに、どういう生き方がヒトとして本来的で、自然かと考えるようにしている。そうすると納得できることがよくあるが、その意味でいって、都会人と地方人のどちらが本来的と問えば、答えるまでもない。
 都会人にとって花火は騒音でしかない。うるさい子供が騒ぐのは迷惑でしかない。だが、モンゴルの人にとってのナーダムや奄美の人にとっての島唄大会や、かつて多数派であった日本の地方人にとっての花火や祭りは、ないことなど考えられないほど生活にとって大切なものであった。そしてそれがヒトにとってあるべき姿であるはずだ。ヒトは喜びを、悲しみを共有し、ともに喜び、ともに泣く、そういう存在なのだと思う。さればこそ、そのあるべき状態を奪われたとき、心に不具合が生じるのは当然のことであろう。その思いが強ければ強いほど、一人で食事をし、テレビの前にいて、死を待つだけのような時間を過ごしているのは、とうてい生きていることとはいえないに違いない。
                **
 私の育った家庭は地方の人口10万人ほどの町にあり、祖父母は父方も母方も農民であった。私は仙台で大人になり、いま東京に住んでいる。3代かけて田舎から都会に出たということになるが、移動しなくても、地方都市が都会になったことを含め、これはかなり多くの日本人が戦後辿った図式といえるだろう。そのあいだ、右だ左だのイデオロギーが論じられたが、そういう図式ではなく、人間をヒトとしてみたときに、地方に暮らすか都会で生きるかという図式で論じた知識人がいただろうか。そのことが真剣に論じられていれば、食べ物のこと、エネルギーのこと、原発のこと、祭りのこと、プライバシーのことなどの意味が、もっとよくわかったはずだ。いまの私たちにとって左右のイデオロギーよりも、原発を続けるか否かの選択と、その根拠となる、都会がヒトに対して強いる、心にとって大切なものの奪い去りの持つ意味を知ることのほうがよほど重要だと思われる。
                **
 ふたつの旅をし、近所で花火禁止の張り紙を見て私の心に去来したのは都会のもつ底知れぬ恐ろしさであった。都会でない町に生まれ、竹馬の友とともに育って社会に参画し、山を見、初詣をし、祭りを楽しんで酔っぱらうというような人生にずっとあこがれ、ないものねだりはすまいと思って来た。そう思って来たことの理由や意味も、3月以来の鬱々たる気持ちの中でわかってきたような気がする。

ナラの木と土と工

2011年04月02日 | エッセー
奇跡のリンゴ
 「奇跡のリンゴ」(石川, 2008)という本がある。主人公の木村秋則氏は青森でリンゴ作りをしているが、無農薬でリンゴを作りたくて、周囲から白眼視されながらがんばった。だが、がんばってもがんばってもうまくゆかない。何度も何度も失敗し、家族からも「いいかげんにしてほしい」と言われて、ついに死を決意して岩木山に登る。
 そこで見たものは、農薬も肥料も与えられずに豊かなドングリを作るナラの木であった。彼は、これまで誰もが信じて来た、大きいリンゴを作るなら肥料を与えればよい、害虫が来れば殺せばよい、という考え方そのものがまちがいであったことに気づく。そうすることによってリンゴの木が根を張らなくなっていたのだ。彼はリンゴの木が生える土を変えた。そうしたら台風のとき、周りのリンゴは実を落とし、木そのものもたくさん倒れたが、木村氏のリンゴはほとんど無傷であったという。

 土と工
 いまの日本の農家では化学肥料を使い、「農薬」という名の殺虫剤を使う。堆肥などの有機肥料にくらべて清潔であり、臭くないし、即効性があるからだ。それまでの農業の不潔さや悪臭、重労働から「解放」されたといえる。それまでの農民は有機肥料がよいからではなく、ただ化学肥料や農薬が効果だから買えないからいやいや使っていたのだろう。私はそう思っていたのだが、その無知を山下惣一氏(1986)の著作を読んで思い知らされた。山下氏は昭和11年(1936年)生まれで、佐賀県で農業を営んでおられる。氏のおじいさんは明治18年(1885年)生まれで、山下氏に影響を与えたようだ。おじいさんは、例えば、
「”土”という字は二本の水平線が天と地を表し、真ん中の縦線は命の芽である」
と教えたという。そして
「あらゆる命は土らしか生まれず、命あるものは生まれた瞬間から死に向かって生きており、死んでまた土に還る」
と。さらに、
「よく似た”工”の字は人の作るもので、これからは命は作られず、命の芽が出ない」
とも。何という深い哲学であろう。日本の農民はそのことを知っておこなってきたのである。
 山下氏の著作には学ぶものが多いが、農と工を比較する中で、こうもいう。工業は「作る」「製造する」というが、農業は「できた」というというのである。人間は葉っぱ一枚、直接作ることができない、作るのは天地の恵みであると。
 若かった山下氏は古い農業を改良すべく、さまざまな工夫をしてきた。日本中の勤勉な農業者がそうしたであろう。その工夫の精神には当然、効率主義の萌芽があったはずだ。かつて化学肥料や殺虫剤を使わなかったのは、それらが手に入れにくかったから使わなかっただけのことかもしれない。現に山下氏は昭和30年代初めまで、化学肥料は高価だったのであまり使わなかったのだが、この30―40年ほどは化学肥料を使うようになり、結果的には土を貧弱にしたことを自責まじりに記している。しかしその後、化学肥料の大きな問題に気づき、有機肥料に切り替えたのだった。おじいさんはただ頑固に伝統的農法を固持していただけかもしれない。しかし、この場合は農業の本質をとらえていたといえると思う。
 「奇跡のリンゴ」の話も山下氏のおじいさんが教えた「土」の話そのものであろう。

「ナラの木」
 実は私はこの文を2010年の春に書いていた。今回それを読み直す機会があり、思えばそれが東北地方のナラの木のことを描いたものであったことを思い出し、不思議な思いになった。

小さな命とフクシマ

2011年04月02日 | エッセー
小さな命とフクシマ      2011.10.27

                                       高槻成紀

 私は生態学の研究をしています。おもに動物の研究ですが、そのために植物群落の記述をすることがあります。その作業はなかなか根気のいることです。楽しい作業でもあるのですが、日本の夏であれば暑いは、蒸すは、蚊はくるはでたいへんです。それを耐えながら何時間も集中力を持続させます。そんなあるとき、草のあいだになんだか動く物をみつけました。



よく見ると蛾が羽化しようとしていますが、なんだか動きが変です。翅をぶるぶる振るわせていますが、どうも落ち着きません。やたらと動いています。少し手をとめてながめることにしました。それでわかったのは、何かの異常があったようです。翅が延びないままなのです。それでその蛾はなんとかしようと動いているようでした。何度も葉っぱの上で動いては下に落ち、また上がってきては落ちをくり返しています。しかし翅が開くようすはありません。
 「がんばれ!」
 と思いながらも、どうしてやることもできません。
 自然界ではこうしたトラブルは無数にあるはずで、卵が産まれてもうまく孵化できないもの、幼虫の段階で鳥などに食べられたり、寄生されるもの、もちろん雨や風で死ぬものもたくさんいるはずです。それに手を貸すのはしてはならないことです。頭ではそう思いながらも、なんだか切ない思いで作業に戻りました。
 その日、宿にもどり、床についてもあの蛾のことが思われました。思えば、羽化するまでにもすでにたくさんの「きょうだい」が死んだはずです。「生まれた数だけ死がある」というのが、きわめて単純な自然の原理です。でも私たちは生に目を向けても、死には鈍感なところがあります。
 この蛾は飛べなくて、やがて死に、それをアリが食べたりするなどして土に帰っていくはずです。その体重はおそらく1gグラムとか2グラムとか、そのくらいのはずです。物質でいえばただそれだけのことで、大きめの木の葉一枚にもなりません。しかしこの蛾には1ミリの何分の一かの卵から孵り、数ミリの毛虫になって、もりもりと葉を食べて蛹になり、羽化したという人生があったはずです。そして羽ばたこうと懸命にがんばったがうまくいかなかった。そういうドラマが森には無数にあるはずです。
 私はその小さな、小さな、重さにすればほとんど無意味なほど軽い蛾の生涯を、何トンもある岩より尊いと思う。そういう、命をもつ存在にあふれる地球という星はすばらしいと思う。
 だからこそ―これは短絡で、強引かもしれませんが―フクシマのもつ意味は限りなく大きいと思うのです。放射能汚染について、人は自分たちの体のことを心配します。もちろんそれは重大なことで、最優先されるべきことですが、忘れてはならないのは、きわめて広い範囲のこうした小さな生き物すべてが汚染されたということです。植物も動物も無差別に、それまでの何百万年もの進化の歴史で一度たりとも経験したことのない被害にあった。それを私たちが自分の生活の便利さを得るという身勝手な欲望追求のために起こしてしまった。そう思うと、原発問題は決して経済の問題で解決されるべきではないと思います。
 あの蛾は不幸な死を遂げたけど、少なくともそのがんばりを私は見たし、そのがんばりは私に自分たちの勝手な生き方の意味を教えてくれたと思います。


福島の米作り

2011年04月02日 | エッセー
福島の米作り
高槻成紀 2011.12.12

 福島で作られた米が放射能汚染されていた。一時は安全宣言が出され、そうであればよいが、そんなことってありえるのだろうかと思っていた。田圃の線度調査をした上で、田植えをしたはずだった。最初は一筆の田から一点のサンプルをとっていたらしいが、その後「ホットスポット」があって、地形によっては局所的に高濃度な場所があることがわかってきた。農家の人は最初、米作りをしたものかどうか迷ったに違いない。しかし大丈夫という判断が出されたので、どちらかといえば不安をかき消すように、「大丈夫であってほしい」と思いながら農作業をしてきたのではないだろうか。それだけに安全宣言が出されたときはほっとしたに違いない。その後での汚染確認だから、そのショックはいかほどであったろうか。
 思えばこの問題の深さは限りないものだと思う。春から秋までの労働が無為であったということであり、サラリーマンでいえば半年の労働の末に給料が払われなかったということである。ただ、サラリーマンであれば、では会社を変わればよいという逃げ道があるが、農家はそうはいかない。今回の結果が示したことは、要するに福島では今後、米を作っても汚染されたものができるということだ。農民にとってこれほどつらいことはないだろう。これは農民として生きることを止めよということに等しい。
 いまはあまり聞かなくなったことだが、私たちが子供の頃は米はほんとうに特別のものだった。お百姓さんが一年かけて丹精込めてようやくできるのだから、一粒でも残してはいけない、と。米という字は「八十八」であり、その作業があってはじめてできるのだ、と。おだやかな老人が、ふだんはおもしろいことをいうひょうきんなおじさんが、米の話をするときは真顔になったものだった。農民にとっても米を作ることはほかの作物とは違い「本物」とい意識があった。農業人口が減り、農業が下り気味になっても、米を作りさえしていれば、なんとか安心ができた。農民にとって米作りこそが、日本人の食生活を支えるものであると思える誇りであり、実質的にも自分たちの生活を支えるものであった。サラリーマンのような週末や長期の休みはなくても、自分の土地で季節ごとに農作業をし、イネが育つのを眺めながら、田圃の水の調整をし、稲穂が現れ、育っていくのを眺めながら暮らす日々には充実感があった。人の顔色を窺ったり、生き馬の目を抜くような人の中で生きる必要はなく、まじめに日々を過ごせば米が応えてくれるという安心感があった。社会が自分たちを必要としてくれているという誇らしさもあった。
 先祖から引き継いだ土地だから地面の下まで父親が、祖父が愛情を込めて作ってくれた土があり、その土地が植えた苗を育ててくれるのだという実感があった。その大切な土が放射能に汚染されてしまい、これから先もがんばって米を作っても放射能を含んでしまうというのだ。隣の町が汚染されていても、申し訳ないが自分のところは大丈夫だったと思いたい。あるいは今年は不調だったが、来年は大丈夫だと思いたい。そうした一縷の望みも絶たれたということである。
 私は思う。仮に田圃を除染しても、無駄なのではないかと。というのは、田圃は大量の水をぜいたくに使うことで機能している。それができるのは日本列島が豊富な水に恵まれているからだ。その水は山から流れてくる。その山が汚染されてしまった。農地の除染はきわめて困難であっても不可能ではないかもしれない。楽観的にそれが可能であるとしよう。それでも山全体を除染することなどとうていできないはずだ。ということは田圃の宿命として汚染された水を受け入れるしかないことになる。
 放射能汚染というのはそういう意味で日本の米作りの首を絞めたのである。私は生態学を学ぶものとして、さらに深刻なことを考えるが、米作りに限定しても底が見えないほど深い取り返しのつかなさをもっていると思う。

一本松:マツとナラ

2011年04月02日 | エッセー
一本松:マツとナラ 2011.12.17
                 高槻成紀 

 陸前高田の「一本松」が枯れたと報告された。残念なことであるが、このことについて生物学者としてひとこと書いてみたい。私は若い頃、岩手県の五葉山という山でシカの調査をしていた。毎月のように、ときには毎週のように通っていたから高田を通過することもよくあったし、松原も見ていた。その松原が壊滅的な被害を受け、高田市民は嘆きながらも、奇跡的に残った一本松に勇気づけられた。それだけに今回の「枯れ死宣言」には落胆したに違いない。
 その松の種子からの芽生えを大切に育てている人がその思いを語りながら「白砂青松」という表現を使っていた。白砂青松ときけば、日本人は日本らしい美しい景観をイメージできる。だが、考えてみよう。なぜ砂浜には松が生え、いたるところにある柳や楢や楓がないのだろうか。
 ところで、ここまで木の名前を漢字で書いて来た。しかしここからはカタカナで書く。というのは戦後、生物名はカタカナで書くことになっているからである。松とマツと書くなんて味気ないという批判は当然あるが、鷲や鷹ならいざしらず、鵯とか鴫、鶸*などとなると味気「ある」かもしれないが、読めない人もある。いまでは百舌なども読めない学生がいる。百舌は鵙とも書くが、これが読める人はそういない。そういう事情と、日常会話や文学と生物学でいう種とは区別しないとさまざまな混乱が生じる事情のためにカタカナ表記のほうが合理的である。人は広い意味で人間を示すが、ヒトは生物学的な種としてのサルの1種を指す。
 さて、生態学的に言えば、白砂青松とはそれなりに必然があってのことである。砂浜の砂は栄養価が乏しい、有機物がほとんどない鉱物土壌である。また海水では樹木のほとんどは生育できないが、砂浜はそのぎりぎりにあるから危険と背中合わせである。また昼間は直射があたって砂浜が熱くなることは海水浴でよく体験するところである。こういう環境はほとんどの樹木の生育にとって適していない。マツはそれに耐えられるたぐいまれな樹木といえる。いや樹木だけでない、低木や草本でも生育しにくいから、砂浜には乾燥に強い特殊な植物しか生育できないので、植物は乏しい。その結果、ほかの林に比べて「すっきり」している。白い砂と青いマツだけのゴチャゴチャしない景観は一種の美しさに通じる。ゴミだらけの部屋を片付けたときのようなすっきり感があるというわけである。
 高校の生物で「植生遷移」ということばを勉強した人がいるはずである。植生遷移でいえば、海岸のマツ林は初期段階にある。海岸の砂浜に砂がどんどん蓄積して陸化すると、遷移が進んでゴチャゴチャとしてくる。したがって白砂青松であるということは遷移が進まない状態にあるということであり、それが数十年も続くということは植物にとっては過酷な環境であることを意味する。
 高田市は北側で大船渡市に隣接している。シカのいる五葉山は大船渡市にあるので、私たちはそこに泊まって調査したものだが、大船渡市から尾根を越えて高田に入ると町が目に入り、「松原」はその先にあった。私はその景色が好きだったが、その景色も今はない。このあたりはリアス式海岸だから尾根が海に入って岬となり、岬と岬のあいだに湾があって町があるという構造になっている。町が発達した平地というのは山から流れてくる川が運んだ土砂でできているのである。したがって標高が低く、10mをはるかに超える津波が襲えば無防備ということになる。
 高田松原はそういう場所にある。それはとりもなおさず、木にとって危険と隣り合わせにあったということである。その意味でマツは苦難に耐えてきたといえるかもしれないが、それは擬人的なたとえであるにすぎない。マツはほかの植物が生育できないというニッチに入り込んでいるのであって、多くの植物に好適な環境では競争に負けて消滅していく。またマツは意外に弱い木でもある。マツクイムシにはいたって弱く、各地で松枯れが起きたのは記憶に新しい。というわけで、擬人的に「マツは苦難に耐えてがんばっている」と思って、元気をもつことはかまわないし、一本松のために払われた努力は尊いものでもあるが、生物学的にクールにみれば、マツはその生理学的特性に応じて砂浜に生育しているにすぎないことは認めなければいけないし、海水がある以上生きてはいけないし、またマツはたくさんの木が林をなしていたから風を直接受けないなどの事情があったのであり、孤立すればただでも弱い存在になるということもある。
 さて、マツの種子は松ぼっくりの中に入っており、種子に大きめの翼がついていて、風によって遠くまで運ばれるようになっている。これはカエデなどと共通である。こういう植物はたくさんの種子を作り、どんどん遠くに飛ばし、ほんの一部の種子が芽生えて新開地を得て定着してゆく。長い目でみれば、つねにどこかに広がろうとする生き方をしており、もちろん有機物の豊富な場所にも飛んで行くが、そういう場所ではほかの植物との競争に勝てず、砂浜のようなところに定着するのである。マツの種子に比べるとナラのドングリはたいへん大きい。そして発芽したときから大きい実生が育ち、確実に大きくなっていく。ただしその数はふつうは少なく、母樹の負担も大きい。
 こう考えるとマツとナラはたいへん対照的な木だといえる。ドングリが砂浜に着地しても育つことはできない。腐葉土のあるふかふかで有機物が豊富な場所で育つ。そして時間をかけて大きな木になっていくが、しかし奥山のブナの木などとは大いに違う。というのは、ナラは伐採されても萌芽が再生できるからである。ブナもある程度再生するが伐採がくり返されると枯れてしまう。ナラの萌芽力のおかげで、薪炭林とよばれる、繰り返し伐採されて維持されてきた林が生まれ、それが東北地方の低山地帯を被っている。それが寒い東北地方で冬を越すための暖房を支えてきたし、あまり知られていないことだが、戦後の経済復興の初期において北上山地のナラ材がウイスキー樽の材料として大量に輸出されもした。ナラはまた火にも強い。ナラの樹皮の下にはコルク層があり、これが断熱効果をもっている。とくにナラの一種であるクヌギはコルク層が厚い。
 伐られても、焼かれても再生するナラの木はたくましい。そのたくましさはマツのそれとは違うものだが、まちがいなく高田の町を見下ろす山で津波前と変わらず新緑を伸ばし、黄葉した。一本松が枯れたことは残念だが、町を取り巻く無数のナラの木はたくましく育ち続けていることにも目を向け、そのたくましさからも復活の勇気を得てもらいたいと思う。

*鵯:ヒヨドリ、鴫:シギ、鶸:ヒワ

年の初めに:科学する精神

2011年04月01日 | エッセー
2012年1月1日

新しい年を迎えました。2011年は震災にあけくれた一年でした。津波そのものの衝撃が大きかったのは確かですが、私の中では原発事故のほうが重くのしかかっています。津波は自然現象ですが、原発はあきらかに人災であり、どういう弁解を弄しても私たちの世代が原発に依存する社会を作ってしまったことに責任があり、その意味で自分が原発事故に加担したといえるからです。
 小学生の頃、発明発見についての本がよくありました。思えば発明と発見は全然違うのに、語呂からペアにされてまとめられていました。発明はいわば技術で、例えばエジソンの発明でアメリカ社会が便利になったからすばらしいという類いの話です。野口英世に代表される医学の発見も同類だったように思います。私が夢中になって読んだのは発見のほうでした。生き物の暮らしを解明した話に惹き付けられました。全体としては科学が称揚され、科学が大切だ、科学こそが日本を豊かにするという調子がありました。それは物量でアメリカに負けたという無念さなどともつながっていたでしょう。ただそこでいう科学とは技術とほぼ同義でした。鉄人28号とか鉄腕アトムなどのロボットの登場もそうした空気を反映していたと思います。そして現実に私たちが成長するにつれて、家電製品が改良され、社会は便利になりました。社会は確実に豊かになり、戦後の教育は奏功したと考えられたと思います。同時に、戦前には一部の、家庭が豊かで成績のよい生徒しか進学できなかった大学に、成績さえよければ入学できるという、多くの親にとっては垂涎の夢が現実となりました。社会全体が酔ったかのように受験勉強をさせ、よい大学に入ることが人生を決定させるかの空気になりました。そして高校は受験勉強の場になりました。
 科学者としての大きな反省は、科学、科学といってきた教育の場は本当に科学的な精神を教えてきたかということです。理科は暗記ができればよい成績をとれます。それは科学ではありません。自然界で起きていることをどう正しく把握するかということが科学的精神であり、そのためには主観的直感がもつ危険を抑制すること、仮説を立てて検証すること、得られたデータの意味を冷静に読み取ることが必要であるのに、そういうことは一切教えてもらいませんでした。
 もうひとつは科学は技術であるという誤解があったということです。私は生き物のつながりを研究してきましたが、その到達点は自然の底がないほどの複雑さを知ることだと思います。それは簡単な仮説で説明できることは少ないし、たとえば実験室で条件を変えて実験して出てくる結果を読み取るというようなアプローチで「解明」できるようなこととはまるで違います。しかし技術優先の「科学的態度」は自然を説明できるものと「想定」します。それは傲慢だと思います。そういう態度が原発事故をもたらしたと思います。そういう技術者たちは、あれだけの経験をしながら、防潮堤が10mで足りなかったなら20mにするとして、現実にそうした計画が巨大な予算で動いているそうです。若い頃に叩き込まれた自然観は容易には修正できないのでしょう。しかしそういう教育を受けた世代が今の日本の社会を動かしているのです。
 私はもうこりごりです。豊かでなくていいから平穏な日常が欲しいです。私たちは当たり前の平穏な日々は当たり前ゆえに印象に残りません。日記にしても、なにかの文章を書くにしても、劇的で非日常的な体験を書きます。それは自然なことですが、私が今回の震災で学んだことがあるとすれば、ささやかな平穏な日々のありがたさに気づかせてもらったということです。そして、それは容易に達成されるのではなく、そうした危険を予知し、未然に防ぐための努力、それはまさに科学的な態度、つまり情報を正しく把握し、クールに分析することがなければ能わないし、将来に対する深い洞察がなければ実現できないということです。私たちの国はそういう意味でまったく科学的でなかった。私はそのことを知って絶望に近い落胆をしました。
 あのマハトマ・ガンジーが社会には7つの大きな罪があるといった中に、「人間性なき科学」というものがあるそうです。英語では Science without Humanity だそうですから、「人間性」というのはひとつの訳ですが、「人らしさ」、日本語でいえば「情け」といった訳も可能だと思います。これは科学技術という意味の科学とは大きくニュアンスが違います。戦後の日本が追求したのは「情けなき科学」ではなかったでしょうか。そうであればガンジーにいわせればそれは罪だということです。
 ガンジーは20世紀が生んだ世界の偉人で、ひょっとしたら数百年に一人といえるほどの人かもしれません。こういう機会にじっくりと偉人のことばを噛み締めるのも意味があると思います。ただ、私が2012年の初めに伝えたいのは、ある中学生のことばです。梶原裕太君は震災のとき宮城県気仙沼市階上(はしかみ)中学校の3年生でした。彼は卒業式にすばらしいことばを語りました。

 自然の猛威の前には人間の力はあまりに無力で、私たちから大切なものを容赦なく奪っていきました。天が与えた試練というにはむごすぎるものでした。つらくて悔しくてたまりません。しかし苦難にあっても天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きて行くことがこれからの私たちの使命です。

 ここにある精神こそ、人としてのすばらしさを凝縮したものといえると思います。こうした精神に支えられた科学であれば、自然を侮ることなく、謙虚で前向きに自然に接することでしょう。こういう洞察ができる若者がいることは大きな希望です。私は年の初めに、改めて私たちが若者に本当の科学的精神を伝えることの大切さを考えたいと思います。

一年が経った

2011年04月01日 | エッセー
一年が経った。この一年を短い言葉で表しきることはできそうにない。多くの本が出て、たくさんの論評もある。なるほどと思うことも、同意することもたくさんある。ここでは私なりにこの一年の意味を考えてみたい。
 「がんばれナラの木」は良くも悪くも単純すぎたように思う。「がんばれ」ということばは、十分がんばっておられる被災された人々に失礼であったかもしれない。これはよくない点であった。しかし、単純であっただけに、むしろ読む人の魂に訴えるものもあったのか、私が深く考えないで始めたときには思いもしない形で拡がりを見せた。これは単純であったことのよさかもしれない。
 当初私が「がんばれ」と思ったとき、二つの思い違いがあったようだ。ひとつは、この日本のことだから、半年もすれば見違えるように回復し、一年経てばもとのようにとまではいかなくても、ほぼ平常な日常が戻ってくるだろうと漠然と想像していたこと。実際にはじれったくなるほどの遅さであった。これは一体どういうことか。阪神淡路のときと何がどう違うのか。仙台に住むようになって初めてわかった、東北地方の「遅れ感」が本当に深刻なものだと感じないではいられなかった。国は関西のときと同じようには「本気」ではないのではないか。そうした不信感が芽生えた。不信感といえば、この国の指導者たちの情報に対する感覚は強く疑わざるをえない。原発からの避難地域を半径5キロだ10キロだといっているとき、欧米諸国は20キロとしていた。それに対して「大げさすぎる」といわんばかりの態度であった日本政府は事態が動かしがたいことを知ると豹変して20キロといい、あとでわかったのはフランス政府が20キロを日本政府にも勧告していたにもかかわらず、無視していたという事実である。さらに最近わかったことは、議事録がなかったという信じがたい事実である。私はこれは嘘だと思う。記録は現代のすぐれた録音機でなされていたはずだし、万一録音されていなかったとしても、その気があれば誰が何を発言したかは、参加者が本気で復元しようとすれば必ずできる。「覚えていません」というのは口裏を併せているに違いない。その底にあるのは「発言の責任を問われたくない」という利己的な思いである。この社会はリーダーであることを何だと思っているのか。「覚えていません」とか「部下が悪いからです」というためにふんぞりかえって、高い給料をもらっているのか。失敗の責任をとるからこそ高い地位についているのであり、ことあれば命を捧げる覚悟があるのが当然であろう。メルトダウンは日本社会のリーダーの心に起きていたことがわかった一年であった。
 思い違いのもうひとつは、当初は被害の深刻さの8割は津波被害で、原発事故は2割くらいだと思っていたこと。だが事態が進むにつれて、半々かあるいはむしろ原発のほうが8割くらいではないかと感じられるようになってきた。三陸の海岸部は記録が残っているだけでも何度も津波を体験し、それでも復興してきた。三陸では「一生に一度か二度は津波がある」と伝えられているそうだ。ざくっと言えば「壊れたものは直せる」ということが体験的にある。時間はかかっても復興はできるということは実証されてきた歴史がある。
 だが、放射能に汚染されたというのはまったく体験がない。瓦礫を片付けてもそれを廃棄する場所がない。農地も山も汚染された。山から汚染された水が流れる。土壌の中も汚染された。それらを集めて置いておくことなどできるのだろうか。しかし放置すれば有害であることはまちがいない。
 これまで人間の健康という点で議論され、もちろんそれが一番肝心なことではあるが、動植物を研究して来た者の立場からすれば、すべての動植物が汚染され、遺伝的な問題がこれから先もずっと残ることにも思いを馳せるべきだと思う。私はそのことを、目にした蛾の羽化をみながら考えた(「小さな命とフクシマ」)。このことは土地倫理という文脈で考えるべき問題だと思う。人間は日本列島への新しい侵入者であり、我々の祖先よりもずっと前からこの列島の動植物が関係を持ちながら生を営んできた。原発事故は、そうした動植物とその環境を汚染したという視点でも考えなければいけないと思う。そう考えれば、津波が軽いとは言わないまでも、放射能汚染の問題はそれよりもはるかに深刻であるということを知った一年でもあった。
 国に対する不満、東京に住んでいて「がんばれ」というという図式自体への心苦しさ、放射能汚染の深刻さと子供たちへの申し訳のなさ、そういう思いが渦巻いた一年でもあった。戦後の瓦礫の町や戦争孤児のことを描いたテレビ番組を見て、胸がつぶれる思いであったが、私が生まれ育った昭和20年代、30年代は同じように貧しく、たいへんな時代であったことを大人になった今、わかるようになったが、それでも子供心に体で感じるのは、たいへんではあっても楽観的でありえた時代の明るさである。昭和40年代の後半くらいから日本は豊かになり、便利になり、平和であった。そうした生活を保障するために、とくに都会の人間が地方にエネルギー源供給を押し付け、起きたのが原発事故であった。
 50年前に比べればまちがいなく豊かでありながら、先が見えない閉塞感が被い、そうであるがゆえに将来のことを考えないで、日常の忙しさに自分をごまかそうとしている自分がいる。国を批判することはできても、社会を形成するのは私たち一人一人であり、原発事故を起こしたのは、私たち大人の責任であるという事実からは逃れようがない。ため息をつきながらも、子供たちの未来のために一人一人ができることをするしかないように思う。

茶碗、箸、防潮堤

2011年04月01日 | エッセー
茶碗、箸、防潮堤

2011.3.15 高槻成紀

子供の頃、松江という町に2年ほど暮らしたことがある。小学3年生から5年生までだった。落ち着いた西日本の城下町でとても好きだった。今でも帰省すると足を伸ばして城山を歩いたりすると、当時の匂いのような、味のようなものがよみがえる。松江はよくお茶を呑むところだ。もちろん薄茶である。お客さんがあればもちろんだが、農作業の合間にもお茶を入れる。甘い茶受けがおいしい。
 その頃の私は、お茶を呑む大人を見ながら、なんであんなでこぼこでゆがんだような茶碗で飲むのだろうと思った。それに比べて西洋の紅茶茶碗はすっきりとした形で同じ規格でできている。それに取っ手があるから熱くても手に持てるが、茶碗では手のひらで持つしかない。日本は技術のある国なのになんで茶碗は洗練されないのか不思議だった。
 町田の図師小野路にある里山を維持しておられる田極さんが、研究者が集まったときに話をしてくださった。ものをよく知らない人に田圃の作り方を指導していて、丘の斜面に道を付け方を教えたそうだ。その場所は地形の関係で木の杭を使うのがよいのでそれを教えたら、ほかの場所にもやたらに杭をうった階段をつけてしまったそうだ。伝統的にはそうはしないという。道をつけるところは地形的にほぼ決まっており、できるだけ杭は打たない。そういう階段式の道は重い荷物を運ぶときには歩きにくいし、雨が降ると水が土砂を流すのでよくないのだそうだ。そして昔の人は鍬をもって歩きながら最低限の掘りをつけて滑らないようにするだけにしておいたという。そうすると秋までに雨が降って堀ったところがわからなくなってしまうのだそうだ。田極さんは鍬で軽く掘ることを、身振りを交えながら「ちょちょっと」と表現された。
 雨にしても風にしてもそうだが、地震、豪雪と、ほんとうに日本は災害列島だと思う。とてもとても人があらがえるような相手ではない。人などとるに足らない存在であり、天は恐るべきものである。流れる水はとどめるのではなく、流す。人が自然を変えるのではなく、自然に合わせて人のほうが変わらなければ、必ずひずみが生じることを、体で感じてきたのだと思う。しばらく穏やかな年が続けば、その頃に農業を始めた若者は「たいしたことはない、わざわざあんな回り道をしなくても、近道をつければいい」と「工夫」をして、新しい道をつけるようなこともあり、強行をして、その後に大雨が降って道が崩れて田圃が埋まり「それみたことか」と経験者が尊敬されるというようなことがくり返されたに違いない。
 持つのに熱ければ取っ手をつける。道が滑れば階段にする。わかりやすく合理的だ。これが脆弱な自然のなかで発達したヨーロッパ的な合理主義であろう。しかし圧倒的な破壊力をもつアジアの自然に対して、その合理主義は合理的ではない。堤防をつければ決壊したとき、おそるべき被害が出る。それよりは川は流れるままにするほうが安全であり、川を変えるより、人が動くというのが日本の伝統的な「治水」であった。地震国では高い石積みの家は危険であり、家ごと揺れる木の柱の構造のほうが安全であり、恒久的な建物よりも、しばらくしたら立て替えるほうが合理的である。
 にもかかわらず、そうした農民の自然感は「古くさい」として顧みられることはなく、重機を使って山を削り、掘りを作り、高いビルを建て、陸橋を作り、道路をめぐらせた。自然は管理できると考え、自然のすることはこのくらいだと浅知恵で「想定」し、その結果、高さ10メートルの防潮堤は20メートルの津波を防ぐことはできなかった。そして、その極みは原発事故であろう。自然を甘く見た日本人は、美しい福島の地を汚してしまった。
 熱いお茶は茶碗のふちのほうをもてばよい。ゆっくりと手のひらにのせ、ざらついた土の感触を楽しみ、少し冷めるまでゆっくりと会話をしていただけばよい。フランス料理を食べれば、肉はフォークでさして、ナイフで切り、スプーンに持ち替えてと忙しく、マナーもうるさい。私たちは箸の二本があるだけだ。それで魚の骨もはずせば、豆もつまむ。箸で汁は呑めないから、お椀を持ち上げる。道具を発達させようと思えばできるのに、簡単な道具のまま自分の技量のほうを磨く。こうしたことは災害大国の環境に生きて来た我々の祖先の自然感と通底しているように思われる。
 少年時代の茶話の不思議が融けたような気がした。