デザイナーの色メガネ

写真付きで日記や趣味を書く

猫の時間

2007-06-28 23:04:08 | 日常の中の物語

Img_5269_1 一幅の絵のような

猫と紫陽花のシーン。

猫には猫、紫陽花に

は紫陽花の時間。

それを眺めている

私の時間。

猫の寿命は、ノラの

場合は4~5年だと

いうから、この子の

一生は人の15分の1

くらいか。

そんなことを思いながら眺めると、梅雨の晴れ間のひとときを、

ゆったりと過ごす姿が、神々しく見えるではないか。

年年歳歳、時の過ぎるのが速く感じるのは、自分の時間を

生きていないからだ、などと聞くとガックリする。

Img_5278 と、寄って来ましたよ。

「せっかく憩ってんのにさ、

ジロジロ見られて、落ち

つかないったりゃありゃ

しない!あ~、どっか

ほかのいいところへ行こ行こ…」

という表情で、サササ…と私の横をすり抜けたかと思うと、

なんと、つつじの枝にお尻向けて歩きながらマーキング!

えっ!?ミケさんだから女の子。なのに、そんなことを

するんだ…。

と、ドッキリした私を、それこそ尻目に去っていった。

Img_5286坂を下りたところでは、

こんな光景が。

お地蔵さまのような

猫が、カタマッテいた。

カメラを向けても、

「心は無でござる。

おまえさんの相手をする気はないよ。」

だそうだ。

私は、猫をそれほど好きだったわけではなかった。

ところが、クーが我が家へやってきてから、こちらが

猫を気にし始めると、俄然、道で会う猫たちが雄弁

になったように思う。

どうも、猫たちは人の気持ちを読み取っているらしい。

そして、反応してくるのだ。

Img_5285 おお~大好きな

ビクトリア!

私が文句なしに

気に入っていること

を、彼女はお見通し。

「しょうがないわねえ、ちょっと

だけ撫でさせてあげるわ」

と、寄ってきてくれるようになった。

再三のラブコールが通じたようで嬉しい。

いつも不思議に思うことがあるんだが、なぜか猫日があって、

あっちでもこっちでも猫に遇う日がある。

Img_4534 今日は、ビクトリアの

兄弟か姉妹か…

はてさて子供か…

も登場してくれた。

こちらは、まだ他人行儀。

「ふ~ん、猫好きオヤジか…」

といったところだね。

猫時間に割り込んで、お邪魔いたしました!


沙羅双樹の花の色

2007-06-23 15:58:16 | アート・文化

Img_5248

愛らしくも高貴な面立ちのこの王子は、一体…、

ゴータマ・シッダッタ、幼き釈迦牟尼

唯我独尊の方であらせられます。

以前、知り合いの仏画家、木内紫貴さんよりいただいたもの。

お釈迦様が乗っていらっしゃるのは、紗羅双樹の葉?もしくは

菩提樹の葉?

Img_5243 ←これが紗羅の花。

ナツツバキの異名だそうだ。

葉を見ると、どうも仏画に

描かれた葉に近い。

菩提樹は近所にないので、

(というか、あってもわからない)図鑑で調べて見たら、もう少し

丸い葉だった。

ということで、幼いお釈迦様は紗羅の葉に乗っていらっしゃる

わけだ。

確かお釈迦様が入滅されたのはサーラの林だ。

しかし、入滅されたのは2月15日…ということは、この美しい

花は咲いていなかった?

いやいや、入滅されたときには、いっせいに花が咲き満ち、

そしていっせいに散ったと伝えられているから、さぞ華やか

だったのだろうと思う。

このナツツバキとは違う樹だという説もあるらしいが、

私はこの紗羅の花で充分だ。

雨の中で見るこの花の清らかさは、ありがた~い気持ちに

させられるほどだ。

一日花で、予期せぬときにポトリ…と散る。

散っても花は美しく、はかなさを感じさせる演出もなかなかだ。

実は、私は木にくっついたまま枯れる花があまり好きではない。

往生際が悪いものは美的じゃない、という偏見が…。

Img_5155 合歓の花も、はらり、と散る。

香りもいい。

お気に入りの花だ。

ところで、ついでに菩提樹を調べて

みたところ、なにやら種類が

いろいろあって、日本の菩提樹と

お釈迦さまがその下で悟りを開かれたという樹と、

シューベルトの菩提樹は、それぞれ違うらしい!?

Img_5257 居間の壁に掛けられたこの絵

を眺めていたら、今日はやけに

鶯が鳴く。

夏に鳴く鶯を、老鶯(ろうおう)というらしい。

いい声だなあ。

とても「老いた」なんて思えない。

諸行無常を諭すよき響きであるよ。


かんばせ考

2007-06-19 10:10:01 | 日記・エッセイ・コラム

Img_5114_1

朝顔、昼顔、夕顔(または夜顔)と、なかなかいいネーミング

だと思う。

見ればちゃんと、朝、昼、夕の顔をしている。

だが朝顔、夕顔はイメージがはっきりしているのに、昼顔は

なんとなくぼやけた存在だと言えなくもない。

しかし、写真のとおり、昼顔はこざっぱりとした普段着姿が

似合う、いかにも性格のよさそうな表情が好ましい。

朝顔も夕顔も、昼顔に比べると、それぞれなにか言いたそう

なので、つい、お伺いをする姿勢になってしまうのだ。

まさに「かんばせ三様」だ。

などとエラそうに見比べているように書いているが、実は、

私のイケナイ癖のひとつに、『人の顔を覚えない』という

やっかいなものがある。

人と面していても、顔の造作をはっきりと見ていないらしい。

なんというか、だいたいのイメージで覚えているらしい。

しかもイメージでグループ分けをしているらしい。

だから、時に失敗する……こともある。

おなじグループの中で取り違えるのだ。

思うに、私は「顔」としてではなく「かんばせ」つまり

「顔つき」として見ているんじゃないかと思う。

Img_5221こちらは、 愛らしいかんばせの

スズメ。

なぜかあまり逃げないで、

ちょっとこちらを意識している

ようだ。

スズメも昼顔に似ている。

カワセミやうぐいすに比べて、普段着のつつましい愛らしさ。

Img_4234_1 おっと、こちらのハトも

昼顔グループですな。

カワセミは朝顔グループ。

うぐいすは夕顔グループ。

ということになるかな。

ああ、そうだ、これをやるからいけないんじゃないか。

どうもね、境界線が好きじゃないんだ。

いろいろなものが混ざったところから、なにか

新しい芽を見つけたい、という性癖が、人をはっきり

認知しないことにつながっているのかもしれない。

(あ、これは言い訳めいてるな)

そういえば、「かんばせ」って、なんだろう?と古語辞典を

調べてみたら、「かほばせ」の音便型とあった。

そして「はせ」はおおむね 印象という意味で、「かほばせ」

のほか、「こころばせ」「こしはせ」などがあると。

「こころばせ」→心馳せ、で気持ちを外に走らせること。

つまり気を利かせること。

「こしはせ」→腰の動きによって感じられる印象。

挙動不審、なんていうのがこれかな。

とまあ、とにかく、内なるものが外へ走り出てきて感じ

とられてしまう…ということだね。

おお、昼顔のおかげで、いつになく勉強できた。

あとは、きちんと人の顔を覚えること!

Img_5200 ←今朝、近くの栗林で

Img_5227  こんな可愛い

かんばせを

見つけた。


何処へ

2007-06-14 08:34:21 | 日記・エッセイ・コラム

Img_5128

ずっと気になっていた猫がいた。

ここでも2度ばかり取り上げたミケ猫さん。

あまりにその姿がけなげだったので、「たえ子」などと名づけて

いたのだが、とうとういなくなってしまった。

_077_1

この子です。

覚えている方も、いらっしゃる

かもしれません。

昨年の5月10日に

『ここにいます』というタイトルで、

登場してもらったのだが、今年の冬も終わりのころから、

めっきり元気がなくなっていった。

ひたすらこの家の敷地内にいるので、心配はしつつも

手の出しようがなかった。

春には、明らかに病気だな、とわかるまでに衰えてしまった。

たまに家の人が食事を与えているのを見かけるので、

やはりノラさんでは…ないのかなあ?

はやく病院に連れていってくれないか!と、見るたびに

祈るように念じたのだが…。

ゴールデンウィークのときだった。

この家の車が数日間なかった。しかし、たえ子はいつも

どおり玄関の戸の前で、じ~っと戸が開くのを待っている。

もう、やせ細って上の写真の姿など、見る影もない。

妻もずっと気になっていたらしく、ある朝、彼女は意を決して

クーのドライフードを持って出た。

警戒して逃げかけたらしいが、いつも心配して見ている妻を

覚えていたらしく、よってきて食べたそうだ。

結局、1週間ほど家の人は戻らず、私と妻と交代で朝と晩の

食事の世話をした。

散らかしてはいけないので、食べ終わったころを見計らって

掃除にもでかけた。

そのころは、弱ってはいたが食欲はあった。

しかし、5月の終わりころだったか、私が猫の家の前を

通りかかったとき、その家の奥さんが近所の人と

立ち話をしていた。すぐそばには弱りきったたえ子が…。

話の内容は…要するにたえ子が迷惑だ、ということだった。

それはないだろう!だったらエサなんてやるな!

自分が気が向いたときにエサをやったりするから、この子

が居ついたんじゃないか!

しかもこんなに弱るまで病院にもつれていかないで!

と、まあ私はやりきれなかったわけだ。

その話をすると、妻は、

「あの家の飼い猫じゃないんなら、私達が病院へ連れて

いこうよ!」と言った。

私もそうしようと思ったのだが、

その日を最後に、ふっつりとたえ子はいなくなってしまった。

どうしたんだろう。

Img_5112 最後に見たころは、もう目も

よく見えなくなっていたようだ。

もう少し早く、なんとかすれば

よかったと思うと、つらい。

さて、私のブログにコメントをくださる「るちまるさん」の家に

新顔のミケ猫「サクヤ」ちゃんが、仲間入りしたそうだ。

捨て猫さんたちとの里親制度(ライフボート)を通して

るちまる家の一員になったサクヤちゃん。

どことなく、たえ子に似ている。

ライフボートの制度のことも詳しく書かれていますので、

ご覧いただければと思います。

それにしても、たえ子を一度でいいから、我が家のクー

のように柔らかい布団の上で安心して寝かせてやりたかった。


創造と破壊

2007-06-10 00:28:26 | アート・文化

Img_5068

久しぶりに少し雨が降った。

関東の梅雨入りはまだなのかなあ。

今夏は水不足が懸念されているが、深刻な旱魃が問題に

なっている国も少なくないと聞く。

予想以上のスピードで、この星は病んでいっているのだろ

うか。(多分、そうだろう)

私達がさしたる罪悪感もなしに行っている日常の行為が、

自分達の首を締め上げつつあるのだろう。

地球温暖化は既にマッタナシ!と言われながらも、悠長

に対策なんぞを考えている私たち。

だいたい「考える」ということは、その時点では行動して

いないことなのだ。

『考えている』ニモカカワラズ『行動しない』というのは、

どうもストレスを増長するんじゃないか、と感じる。

いや、もちろんロクでもないことを、考えると同時に行動

せよ!と言うわけじゃない。

究極、状況の如何によらず、やるべきことがそのまま

動作となるようなシンプルな暮らしが理想…だな、と。

さて、上の写真はカワウ。

曇天の下、羽を乾かしていた。

Img_5052 こちらは、シラサギ。

川辺の桜の樹で

休んでいた。

鳥の動きを観察して

いると、まさに動作と

思考(きっかけ)とにブレがないなあ、と感心する。

それに比べると、うちのクーなど家猫の対人間の動作には、

なにかしら本人(本猫)の中に、ブレが起きているな、と

感じられることがある。

あれは多分に人間(つまり、私)に毒されいるんだろう。

Photo_46

←これは、以前に私が制作した

ロゴマーク。

インドの希少紅茶といわれる

マカイバリ農園のダージリン

ティーのブランドマークだ。

上のカワウのポーズに似ているではないか!

創造と破壊の神『シバ神』がモチーフだが、思えば人は

創造するのは大好きだが、破壊はたいていの人が嫌う。

所有するのは好むが、手放すのは嫌がる。

生まれるのはメデタイが、死ぬのは忌む。

だから不自由なのだろう。

創造と破壊はワンセットだと、シバ神は教えている。

それが肝に座れば、きっとカワウのようにスイスイと

空も水中も自由自在になるんだろうなあ。

地球も、いまや身を挺して私達にそのことを教えようと

している、と考えられなくはないな。

Img_5016_1

川近くの野原一面のカモミール。

曇った空に、ハーブティーの香りが漂っていた。