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「安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争の大教訓」・・・神立直紀著「特攻の真意」

2025年07月09日 06時54分52秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
「知覧特攻平和会館」などの戦争遺産を訪れて涙がとまらなかったと、よく見聞きするが、かわいそうと感情論で終わらせてはいけない。
 
排外主義を煽るポピュリズム政治家は、知性ではなく感情に訴えて期待感をもたせることが得意だから、感情論だけでは取り込まれやすいのだ。
だから観覧者は客観的に史実を調べ、危険な兆候に警鐘を鳴らす人にならないと、特攻隊員たちは浮かばれない。またそれこそが「知覧特攻平和会館」の存在意義である。
航空機の特攻は、フィリピン戦における海軍の第一航空艦隊が最初で、その司令官だった大西瀧次郎中将は、「特攻の産みの親」「特攻の父」と呼ばれている。
 
しかし大西中将は「指揮官先頭」を有言実行した人望のある軍人であり、「玉砕」「散華」などの美辞麗句に「戦争に美談はいらん!」と不快感をあらわにし、「特攻は統率の外道」と批判してもいた。
それがなぜ「特攻の産みの親」と呼ばれるのか?
本書は一次資料をもとに、大西中将の副官(秘書官)だった門司親徳少佐と、フィリピン戦から終戦まで特攻隊の直掩機(護衛機)を勤めた角田和男中尉に聴き取り調査をおこなった第一級の資料。文庫本版もあるので読みたい人は、ネット通販より街の本屋さんで注文を!
 
特攻は軍令部(海軍大本営)が発案して決定した規定戦術であって、汚れ役の実行部隊司令官を大西中将に命じたのである。
 
ポツダム宣言受諾が公表された翌日の8月16日、大西は特攻隊員たちへの謝罪と、血気にはやる軍人たちに軽挙妄動を戒め、新しい日本を再興せよとの遺書を遺し、送り出した特攻隊員たちに「後から俺もいくからな。頼むぞ」と言葉通りに割腹自殺した。
 
介錯を拒んで十字に腹を切り、10時間以上も悶絶してこと切れたが、なるべく時間をかけて苦しみつづけて絶命することが、大西なりの特攻隊員たちへの謝罪であった。
 
その後の軍令部は「特攻は軍令部発令の作戦ではなく、現地部隊の自主的な行動であった」と、大西にすべての責任を押し付け、自分たちは反対していたと言い訳している。
その偽装の結果が「特攻の産みの親」という呼び名なのだ。
 
戦後の大西夫人は特攻隊の慰霊祭があるたびに、遺族に土下座して謝っていたそうだが、未亡人となって困窮する夫人に対し、元部下たちは金銭援助もしていたようだ。
 
大西中将は「特攻隊員の父」を自認していたかも知れないが、「特攻の産みの親」は責任者が曖昧な軍令部の高級将校たちである。
 
元特攻隊員たちに批判されたのは、実行部隊だった201航空隊の飛行長だった中島少佐と、「俺は死ぬ係じゃないから」と言い逃れした軍令部の高級将校たちだ。
 
中島少佐はもとよりパワハラが酷かったらしいが、冷徹な態度で情け容赦なく特攻させ、自らは生き延びて戦後に不都合な事実を隠蔽した特攻史を出版し、空自の幕僚に栄達した。
慰霊祭に出席した中島は、元搭乗員たちから暴行されかけ、以後は慰霊祭や搭乗員の戦友会に出席しなくなった。
 
現在の保守層が礼賛する特攻のモノガタリは、中島少佐たちが広めた捏造史であり、特攻隊員たちは笑顔で飛び立った!これぞ大和民族の矜持!と礼賛するようなSNSの大部分は、これらの切り張りといっていい。騙されてはいけない。
 
戦後に企業人として成功をおさめ、「海軍ラバウル方面隊」の会長として慰霊活動をつづけた門司少佐は、「安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争の大教訓」と、筆者に言い残している。
 
トンデモ説をまきちらし、ナショナリズムを煽るポピュリズム政治家が勢力を持つのは、戦争への一里塚。
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