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縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

冬至の朝日が昇ってくるライン・・・論文「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」の検証

2023年04月30日 09時14分42秒 | ぬなかわ姫
史実と歴史観は次元が違うのだが、公表された個人の歴史観を史実と思い込んでいる人は多い。
 
わたしは様々な言説にであうとホントなの?と一定の距離をおいて保留しておくが、興味がわけば自分で調べる。
 
そのひとつが内容的に考古学の範疇のグレーゾーンっぽい「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」という論文で、京ヶ峰主峰から冬至の朝日が昇っているのが笛吹田遺跡から見える、すなわち京ヶ峰主峰は古墳中期のランドマークである、といった内容だ。
 
そこで京ヶ峰主峰に登って緯度経度・標高を調べて、「eマップ糸魚川」の遺跡範囲地図にプロットしてみたら、面白いことがわかった。
論文では京ヶ峰主峰と笛吹田遺跡の位置関係だけを問題にしているが、冬至の朝日が昇ってくる予想ラインをピンクの線(A)でひいてみたら、笛吹田遺跡の北にある姫御前遺跡も朝日が観測できる範囲に入っていた。
 
また主峰の南にある稚児ケ池(奴奈川神社跡)~主峰の隣りの最高峰~笛吹田遺跡~姫御前遺跡まで紫の線(B)を引いたら、まっすぐに並んでいることが確認できたのだ。
 
二つの遺跡は弥生後期~古墳中期の玉作遺跡で、ここまでは疑いのない史実である。稚児ケ池との位置関係は偶然の一致にしても、主峰から朝日が昇ってくるのが目視できるのなら、その位置を選んで住居域にしていた可能性もある。
 
また寺町区の人々は、江戸か明治のころまで稚児ケ池で稚児の舞いを奉納していたそうだから、点が線につながり物語りが浮かび上がってきそうだが、ここから先は個人の仮説であり歴史観。もちろん偶然の一致という可能性もあるし、史実を切り張りした仮説や歴史観を史実のように語ることは自戒するところ。
 
よくニューアカデミーなおじさんが、どこかの神社や遺跡が一直線に並んでいる!冬至の朝日が昇ってくる!といった類いのトンデモ説もどきを聞くが、目視できようもない距離を伊能忠敬みたいに平板測量をしながら位置確認してたの?それとも謎の超古代文明があったのか?それとも宇宙人が知恵を貸したのか?と冷ややかに聞いてしまう。
 
紫の直線(B)くらいなら長い竹竿をもった人を何人も並べて見通し測量すれば、古墳時代であろうと直線距離の2キロ程度の真っ直ぐなラインを出すことは可能だ。わたしは測量士と一級土木施工技師なのよ。
 
冬至の朝日問題を検証するには時期的に晴天であることは稀なので、肝心の冬至の朝日が確認することが難しいことが問題。冬至の時に観察してはいるが、いつも曇天なのです( ´艸`)
 
とりあえず成果を書いて、論文の著者に書簡を出してみる。
 
 
 
 

ヌナカワ姫はヒスイの女神にあらず水の神だった!?・・・柳形神社と呼ばれた稚児ケ池

2023年04月29日 08時21分02秒 | ぬなかわ姫
ヌナカワ姫は水の神・田の神として、稚児ケ池の小字の柳形神と呼ばれて崇敬されたという仮説をたて、文献を読み込みこんでは稚児ケ池周辺を歩きまわっている。
大正時代に編纂された「西頸城郡誌」によると稚児ケ池の昔の所在地は、西頸城郡平牛村山崎柳形であったらしい。現在の奴奈川神社は明治のころまで柳形神社と呼ばれていたともあるが、柳形は稚児ケ池の小字だったのだ。
 
国土地理院の地形図アプリで確認しながら踏査したら、京ヶ峰主峰のピークは標高158m、稚児ケ池は標高126mで、緯度経度もばっちりおさえることができた。
見通しのわるい主峰西側の木立から黒姫山も目視できた。ヌナカワ彦・ヌナカワ姫・黒姫の三座が鎮座する信仰の対象が、稚児ケ池に遷宮した旨の口碑があるので、これは大事。
おおむね標高80mくらいからブナ林が点在していた。杉林は暗いがブナ林は明るいので気持ちがいい。
植物図鑑アプリがおもうように起動してくれなかったけど、ブナですよね?W
 
今回の成果は、海側の糸魚川市街地から、稚児ケ池に至る古道を見つけたことだ。
これは寺町区の人々が、稚児ケ池で稚児の舞いを奉納していたという口碑を元に、正装した幼児や大人が徒歩で稚児ケ池に到達できる地形をグーグルアースで探した結果である。
 
この古道だと拙宅のある笛吹田遺跡から、ゆるやかな登りの山道を徒歩20~30分で稚児ケ池に到達できる。それと「山崎三十三塚」が点在するルートらしく、こちらは50年前の発掘報告書を確認中。
 
京ヶ峰の主峰越えルートもあったようだが、ながらく人が通らない踏み分け道なので、倒木や土砂崩れでルートがはっきりせず、登山レベルの登坂道だから正装した集団が越えられる道ではなく、私も歩くたびに迷子になっている。これが愉しいのだけどネ。
 
それと今回の踏査の目的のひとつ、論文「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」の検証に関する成果もあった。これは次回
 
 
 

京ヶ峰の頂上から海をみた!・・・ヌナカワ姫伝説と長者ヶ原遺跡のあるエリアは糸魚川の水ガメ

2023年04月28日 07時51分40秒 | ぬなかわ姫
海にひらけた糸魚川市街の後背地が京ヶ峰の丘陵で、ここは長者ヶ原遺跡や稚児ケ池などヌナカワ姫伝説がおおく残る史跡エリアでもある。
拙宅のある「笛吹田遺跡」から、標高120mほどの主峰ピークから冬至の朝日が昇ってくるのが見える京ヶ峰は神備山であるとする主旨の論文「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」をみつけたので、稚児ケ池から主峰に登ってみた。
郷土史家によるものか稚児ケ池の東に、柳田権現(奴奈川神社)とする手書き看板をみつけた。
植林した杉林ばかりだと思っていた京ヶ峰は、頂上にコナラ?らしき広葉樹の疎林が残っていて、その北側から姫川河口付近の日本海が見え、たいへんな感動を覚えた。
見通しのわるい林から突然海がみえると感動しますな!
沿岸部の糸魚川駅からたった2キロの山中に広葉樹の林があることも、そこから日本海が見えることも知らなかった。
 
この丘陵は糸魚川市街地の水ガメなのだ。海岸部にも大量の水が必要な酒蔵が3つもあることに納得できた。
西からみた稚児ケ池。八千鉾神に夫神のヌナカワ彦を殺され、能登に拉致されたヌナカワ姫は逃げ帰り稚児ケ池の茅芦原にお隠れになった。そこをイズモの追っ手が火を放った・・・むごいことをするもんだ。
 
ということは明治まで柳田権現、柳形様とも呼ばれたプロト奴奈川神社たる稚児ケ池は、水の神を祀ったご神域?
 
主峰の日本海側の市街地には笛吹田遺跡のみならず、姫御前遺跡、南押上遺跡、後生山遺跡と弥生~古墳の玉作遺跡が密集している。
 
ヌナカワ姫は水の神として尊崇された?ヌナカワ姫は黒姫であり、黒姫はヌナカワ姫の母神とする口碑もあるが、もしや黒とは畔(田の畔の古語でクロと読む)であり、古墳時代においてはヌナカワ姫は水の神、田の神ではなかったか?そんな推理を愉しんでいる昨今。これは50年ほど前に「糸魚川市史」を編纂した青木重孝氏の論考に、黒姫の語源の考察を取り入れて発展させたもの。
 
拙宅裏に下るつもりが迷子になり、大幅に西にそれて翡翠園にでてしまったので、次はGPSをもって登ってみる。
 
稚児ケ池の周りにある「山崎三十三塚」の一部を40年前に発掘した報告書もみつけたので、読み込んでいるところだ。
 
 
 

長者ヶ原遺跡のクルミに花が咲いた・・・善意のネットワークで観光客をおもてなし

2023年04月17日 08時21分18秒 | ぬなかわ姫
二日前にガイドした時には咲いていなかった、長者ヶ原遺跡のクルミの樹に花穂(雄花)がたわわに実っていた。
例年より半月ほど早いようだが、あと数日で赤い雌花が咲いてクルミの実がつくかな。
この時期の葉は小さいので桜の葉に似ていて、ガイドした首都圏の医師夫妻も「これがクルミの花ですか!」と興味深々。
 
工房に訪ねてきた方のランチは、安く地魚が食える車で5分の「漁場 傳兵」を紹介している。
 
食事のあとにヒスイ海岸で遊んでもらっている間に注文品を要望通りにカスタマイズして引渡しできるから、時間に無駄がなくお互いに助かる。
長者ヶ原遺跡の1号住居
 
「漁場 傳兵」さんからは能生区のカニ屋「海冨丸」を紹介してもらって、帰り道の土産を買えたと喜んでおられたが、沢山のカニ屋が軒を連ねているので、地元の、しかも同業者の紹介があれば観光客も安心だよねぇ。
「ぬなかわヒスイ工房」の売上は個人のものだけど、「漁場 傳兵」→「海富丸」と点から線となると地域におちる金額もそれなりになるし、お客さんの旅の思い出もヒスイ・縄文・ヌナカワ姫・海産物とエリアの観光特性は立体的になる。
 
行政主導のシステムによるものではなく、迎え入れる地元民の善意のネットワークで繋がっていくことが気持ちいい。
 
 
 

石の保存容器としてのレイン・ステイック・・・ぬなかわヒスイ工房ギャラリーこけら落とし講座

2023年04月15日 06時24分11秒 | ぬなかわ姫
ぬなかわヒスイ工房ギャラリーのこけら落とし講座で、竹製レイン・ステイックつくり。
シャラシャラと水が流れるような音がする南米の楽器で、本来は枯れて倒れたサボテン内部に砂が入り込んだもので、雨乞いや魔除けに使われてきた祭器。
長野から参加した青木夫妻。ご主人は画家、奥さんは元イラストレーターで横尾忠則と北斎が好きという点で意気投合して話が尽きず、別れ際になって「楽し過ぎて写真を撮り忘れた!」と仰っていた。
 
友人宅の竹をバーナーで炙って「油抜き」をして竹串を差し込み、ヒスイ海岸の砂利を適量入れて自分好みの音を調整。
砂利に加えて、ヒスイや赤メノウの端材、水晶やサファイアのサザレ石(砂利サイズに加工してある石)なども混ぜた、「石のまち糸魚川」ならではのワークショップ。
工程はシンプルでも、刃物の扱いやロープワークを駆使すると、市販品よりぐっといいモノができる。
 
ぬなかわヒスイ工房式は、後から音の調整ができる工夫として、砂利を入れる開口部を布を縛って蓋をしている。旅先でひろった記念の小石、街で一目ぼれして買ったパワーストーンなど後から追加できるから、耳で聴く石の保存容器でもある。
ヒトと石の物語、ヒトと楽器の物語、ヒトとヒスイの物語
 
 
 

ヌナカワ姫の夫はヌナカワ彦?・・・古代風ペア勾玉首飾り「ヌナカワ姫・ヌナカワ彦」

2023年04月08日 07時10分11秒 | ぬなかわ姫
工房改装中に注文をうけてパーツ取りのためにバラしてあった、ペアの古代風首飾り「ヌナカワ姫・ヌナカワ彦」を復活させた。
手前がヌナカワ姫、奥がヌナカワ彦。水晶の切子玉と出雲石(実際は緑色岩)の管玉と丸玉は、昵懇をいただいている考古学者から古物と偽って転売される恐れがあると注意されているので、非売品にしている。
標高1,200mほどの独立峰の黒姫山の頂上が三つに分かれているが、神代、黒姫山の山頂に、ヌナカワ彦・黒姫・ヌナカワ姫の三座が鎮座と口碑にある。
 
その後に麓の大沢、ヒスイ峡のある橋立、糸魚川市街地の山崎(稚児ケ池のことであるらしい)、最後に現在の一の宮に鎮座する奴奈川神社に遷宮したというのが、ヌナカワ姫を祀る神社の口碑の概要。
 
黒姫はヌナカワ姫のことなり・黒姫はヌナカワ姫の母神なりという口碑もあるので、ヌナカワ族の族長夫婦であるヌナカワ彦とヌナカワ姫が、世代交代で娘をヌナカワ姫に襲名させた後に黒姫を名乗っていたのでは?との推理が成り立つ。
ヌナカワ姫は明るい色調で女性っぽく
 
つまりはヌナカワ姫の夫神をヌナカワ彦とするのが地元の口碑で、そんな訳で二柱の産土神への敬意と、来客にヌナカワ姫伝説を説明するためにペアの首飾りをつくったのである。
ヌナカワ彦は暗い色調で男性っぽく
 
それにしてもヌナカワ彦らしき伝説は、「出雲の八千鉾神がヌナカワ姫に懸想して、ヌナカワ姫の夫である松本の男神が戦いを挑んで破れて首をはねられた」くらいしかなし、ヌナカワ彦と松本の神は同一なのかは不明。
 
ヌナカワ姫の夫を松本の神とするのは、縄文から続く信州との密接な関係を伺わせるものの、武田信玄の時代までの松本は深志(深瀬)と呼ばれていたはずなので、この口碑は近世になってから変容、あるいは追加されたように思う。
どちらも中央のヒスイ勾玉はかなり希少なヒスイ製。高く売れると思うが、今後、入手できるかどうかが微妙なので、手元に残しておきたいですからねぇ。
 
謎の古文献『越後風土記節解』には、奴奈川神社の祭神を奴奈川彦命・黒姫命・奴奈川姫命とあるようで、延喜式に記述された八千鉾神・奴奈川姫を祭神とするダブルスタンダードが並列存在していた可能性がある。
 
ダブルスタンダードを裏付けるかのように、明治期に奴奈川神社が柳形神社と呼ばれ、祭神を奴奈川姫とする公文書も存在する。
では黒姫の名の由来は?
黒姫とは娘にヌナカワ姫の地位を譲ったヌナカワ族の上皇后のこと?
 
わたしのレベルでは古語で田の畔を意味するクロくらいしか見つけられず、ことによるとクロヒメとは稲作を司る畔(クロ)の女神のことか?と仮説をたて、記紀研究者の三浦祐之先生などに教えを乞うているが、推測の域はでないのですな。
 
しかしながら最近、拙宅がある「笛吹田遺跡」から冬至の朝日が、神備山である稚児ケ池のある京ヶ峰から昇ってくる旨の「ヌナカワ祭祀圏のランドマーク」とする論文を書いた考古学者がいることを知った。
 
もちろん仮説だが、「笛吹田遺跡」と稚児ケ池を古代ヌナカワ族の重要な地域とする点で面白く、なんか繋がってきている。
 
古事記や風土記ばかりを資料とするのは片手落ちで、子々孫々と伝承されてきた口碑もまた侮れない資料。むしろ考古資料と対応させると、口碑の方が整合性はある。
 
 
 

むかし奴奈川神社は柳形神社だった!・・・ヌナカワ姫伝説の探偵シリーズ

2023年02月03日 07時02分56秒 | ぬなかわ姫
「ヌナカワ姫伝説の探偵シリーズ」
一の宮(天津神社・奴奈川神社)がむかし「柳形神社」と呼ばれていた謎!
現在は天津神社・奴奈川神社として知られる一の宮だが、明治のころまでは柳形神社と呼ばれていた。
 
文献を漁っていて気付いたのが、イズモから逃げてきたヌナカワ姫がご自害された・焼き殺された伝説のある稚児ケ池の所在地が「平牛村山崎柳田」であり、小字が柳田であることがわかった。
悲劇の伝説がある稚児ケ池に案内すると、各人各様のしかたでヌナカワ姫の慰霊をしてくれる。そんな雰囲気の漂う場所だ。
 
また口碑には柳田・柳形・柳枝・柳形田など複数の表記があるが本来は同義のようで、つまりは柳形とは稚児ケ池のことだ。
 
さらに大正時代に編纂された「西頸城郡誌」に、明治16年に弥彦神社の宮司が、西頸城郡一之宮村に鎮座する奴奈川姫をまつる柳形神社は、由緒ある古社だから社格を昇格してほしい旨の建言書を県令(知事)に出したことが記述されており、建言書には八千鉾神や天津神社のことが書かれてはいない。
西頸城郡誌は明治に郷土史家、初代糸魚川市長でもあった中川直賢らが集まった「西頸城郷土史研究會」の研究紀要を編纂したもの。
ピンボケだが柳形神社の社格をあげて欲しい旨を県令に提出した建言書が紹介されている。
 
つまり「一の宮」は、少なくとも明治なかごろまで奴奈川姫をまつる柳形神社と呼ばれ、「柳形神」の神号をもつ地主神として認識されていた証拠になる。ちなみに一次資料は未読ながら「越後風土記節解」には、奴奈川神社の祭神は奴奈川彦と奴奈川姫とあるようで、ここにも八千鉾神は蚊帳の外だ。
 
口碑をまとめると、柳形神社は柳形明神、柳田権現、柳枝権現とも呼ばれていたようで、つまりは柳形神社とは神域として稚児ケ池を遥拝する神社であったのではないか?
 
「糸魚川市史」編纂者の青木重孝氏は、糸魚川市街地を見下ろす標高80mの丘にありながら、夏なお水をたたえる稚児ケ池の北に後生山遺跡、拙宅のある笛吹田遺跡、姫御前遺跡、南押上遺跡と玉つくり遺跡が集中しており、また祭祀の場である一の宮がセットになっていることから、稚児ケ池は水の神、田の神をまつる神域であったと推測していたようだが、柳形神社を調べたらリアリティが増す。
 
では延喜式に「八千鉾神と奴奈川姫をまつる奴奈川神社」とあるのはなぜだろう?ここで本音と建前のダブルスタンダード説が浮上する。
 
ヤマト朝廷から派遣された役人が、公文書らしく体裁をつくろった報告書をだしたが、氏子たちは出雲側からうけた酷い仕打ちを忘れず、面従腹背してヌナカワ姫を柳形様といいかえてまつっていた・・・のかも(笑)
 
実際、「一の宮」をガイドすると、3回も角をまがって拝殿にいたる表参道と、すぐ目の前に奴奈川神社がみえる裏参道の二つがあることを不思議がられるが、祭の時以外の地元民は裏参道から参拝している。これぞダブルスタンダードが現代まで続いている証し!
公文書では八千鉾神と奴奈川姫をまつる奴奈川神社とされていても、ヌナカワの民草にとっては聖地たる稚児ケ池の名を冠したヌナカワ姫をまつる柳形神社だった。
 
やはり郷土史、ヌナカワ姫をを語るうえで稚児ケ池は重要なのだ。点が線でつながり面となり、ヌナカワ姫伝説が浮彫になってきた。ここは動かねばなるまい。
 
 
 
 

ヌナカワ姫の悲劇の伝説を宿す稚児ケ池をジオサイトに!・・・バタフライエフェクト作戦

2022年11月06日 08時30分54秒 | ぬなかわ姫
コロナ禍前は毎年、何組もの団体ツアーガイドをしていたのが夢のようだ。
 
天津神社参拝の後に「ぬなかわヒスイ工房」で拙宅出土の勾玉見学、稚児ケ池でヌナカワ姫の慰霊、長者ヶ原遺跡でライブと焚火の縄文キャンプ、翌日はヒスイ峡でゆっくり過ごすのが定番のガイドコース。
八千鉾神に能登に連れ去られたヌナカワ姫が逃げ帰り、(茅芦原にお隠れになった・隠れているところを火を放たれて以後はお姿が見えなくなった)伝説のあるのが稚児ケ池。古代のラブロマンスとは真逆の伝説を持つ稚児ケ池に案内すると、祝詞をあげたり演奏したり、舞いを奉納したりと、各自の方法でヌナカワ姫の慰霊をしてくれる。
長者ヶ原遺跡の1号建物前で演奏するKnobさん。
同じく雲龍さん。友人にプロで活躍するミュージシャンが多いと面白い。
 
時間があればヒスイ拾いのオプション。今年の「ひすいこたろうツアー」では、海に沈む夕日を観るオプションも加わえたら評判がよかった。
ライブの後は焚火で食事をつくり、あとは大人の語らいの時間。
 
来年こそは・・・以前のように観光バスを雇った30人規模のツアーとはいかないまでも、世阿弥の女時(めどき)の過ごし方に学んで、ギャラリーを増築したので、10人規模なら発火法や土器作りなどの縄文体験がしてもらえるので、次の波の迎い入れ準備はできている。
左から滝沢泰平夫妻、Knobさん。
 
また3年前までは「縄文キャンプ」という言葉を使うと、教育委員会から「長者ヶ原遺跡はキャンプ場ではありません!」と、遺跡の使用許可願いの再提出を求められたこともあったが、今では行政が「縄文キャンプ」を行うようになっている。
 
私がUターン帰郷した11年前は、長者ヶ原遺跡とB&Gの艇庫は地元の人も知らない休眠施設だったが、昨年くらいからはどちらも行政絡みのイベントが行われるようになり、もしかしたら私の活動がバタフライエフェクトになったのかも?と感じている。
ヒスイ峡を望む高台で石笛を演奏するKnobさん。
 
次なるバタフライエフェクトはですねぇ・・・ヌナカワ姫の伝説が最も濃密でリアルな稚児ケ池をジオサイトとして認定してもらうことか。
 
西に長者ヶ原遺跡があり、「塩の道」にも連なる、「地質年代に姫川が作った高地段丘」の京ヶ峰エリアに位置し、「ヌナカワ姫の口碑が豊富な歴史的地区」である土地なのに、ジオサイトに認定されていないのが不思議な場所。一応は「旧奴奈川神社跡」として史跡登録もされているのだ。
 
ただ稚児ケ池をジオサイトに登録すると、行政が旗振りしている「古代のラブロマンス」と真逆の口碑が表に出てしまうので、どうなることか?もっとも表に出ていなくとも「古代のラブロマンス」は眉唾でしょ?という市民も多いし、観光案内を信じて糸魚川に来てから私のガイドに参加して「女として許せない!」と怒る女性客も多いので、観光施策としては逆効果という面も実際にはある。
 
バタフライエフェクト方式で、ゆっくりとじっくり取り組んでいきたい課題。同じような意味でも、以前はバタフライエフェクトという言葉より、ライオネル・ワトソンさんの「百一匹目の猿」という言葉が使われていたのに、最近は死語になったネ( ´艸`)
 
 
 
 

稚児ケ池が初めてマスメデイアで紹介された・・・悲劇のヌナカワ姫伝説

2022年10月04日 07時26分07秒 | ぬなかわ姫
「古代のラブロマンス」に埋没していた、ヌナカワ姫の悲劇的な伝説と稚児ケ池が初めてマスメデイアで紹介された。
9月30日の新潟日報の夕刊で紹介されたのだが、あまり突っ込んだ内容ではないところは媒体の性格上、無理もないこと。
 
ヌナカワ姫と稚児ケ池にまつわる伝説は、数あるヌナカワ姫伝説の中でもっとも具体的、かつ考古学の調査結果と整合性が高いのだが、糸魚川市が宣伝している「古代のラブロマンス」とは真逆の陰惨な口碑なので、これまでマスメデイアで取り上げられることはなかったようだ・・・。
 
観光客増大の目的はよいにしても、都合の悪い情報に蓋をして古事記の一部を拡大解釈して創作された「古代のラブロマンス」を、史実のように宣伝してしまっていることろが問題。歴史修正主義とまでは言わないが。
 
地域のためというなら、まず最初に信仰の対象であるヌナカワ姫と、伝説を語り継いできた祖先たちへの敬意を忘れてはならないのではないか?
 
口碑は地域の文化遺産ということも忘れてはならない。
 
実際に「古代のラブロマンス」を真に受けて糸魚川観光に来た女性グループをガイドして、稚児ケ池にまつわる悲劇的な口碑を教えたら「なんて酷いことを!女として許せない!」と怒っていたが、こういった事態は宣伝という点で逆効果ではないか。
 
こんな話がライター氏の琴線に触れたようで、パレスチナ問題やロシアのウクライナ侵攻、アイヌ民族への迫害の歴史へと脱線していった。
 
 
破れ去りし者、滅びし者は語る口を持たない。それでも小さな、耳を澄まさないと聴こえてこない小さな嘆きの残滓が、悲劇の口碑ではないだろうか。
 
 
 

 


世に出て欲しい「稚児ケ池」・・・ヌナカワ姫伝説

2022年09月07日 07時51分49秒 | ぬなかわ姫

ヌナカワ姫伝説が最も濃密で、かつ具体的なのが、「奴奈川姫がお隠れになった」とされる「稚児ケ池」だが、未だかってマスコミで紹介されたことはないのではないだろうか?

ヌナカワ姫伝説を追う某マスコミ記者の取材をうけ稚児ケ池を案内したら、記者の琴線に触れたらしく、なんども礼を言われた。
 
また伝説は県内、県外を問わずかなり詳しく調べ、人にも会って聞いていたようだが、考古学的な見地から伝説の整合性を検証する私の手法は初めてだと、面白がっていた。
 
補足資料として、市内の史跡・遺跡をプロットした「eまっぷいといがわ」を使えば、海側から稚児ケ池のある京ヶ峰の丘を遥拝するかのように「笛吹田遺跡」「姫御前遺跡」「竹花遺跡」「南押上遺跡」と、弥生~古墳時代の遺跡群が半径2キロ圏内に密集していることが確認できることも教えた。
 
下記URLは「eまっぷいといがわ」の稚児ケ池の位置で、「奴奈川神社跡」とある
https://itoigawa.geogeo.jp/maps?mode=theme&lid=4&mid=12
 
 
ちなみに「eまっぷいといがわ」での稚児ケ池は、天津神社社伝に「奴奈川姫と眷属の寓居あり」とある通りに「奴奈川神社跡」、「三十三塚あり」とされる位置には「山崎三十三塚・堂屋敷」と記述されている。
 
稚児ケ池にまつわるヌナカワ姫伝説は、出雲勢力に能登に連れていかれたヌナカワ姫が逃げ帰って「お隠れになった・潜んでいた茅芦原に火を放たれ、お姿が見えなくなった」までの悲劇的な伝説だから、マスコミ受けしないし、官民挙げて宣伝している「古代のラブロマンス」と整合性がつかないから、報道されることがなかったのだと思う。
 
70年代に「青海町史」を編纂した青木重孝先生は、姫川左岸の現在の須沢に位置する「大角口遺跡」が、ヌナカワ姫がお住まいになった場所と推定されたようだが、その時期には拙宅地下に位置し、玉造り遺構と方形周溝墓をもつ笛吹田遺跡は発掘されておらず、現在ならどう推測されるか聞いてみたいものだ。
 
笛吹田遺跡から300m北にある、「姫のおんまえ」という名をもつ姫御前遺跡名も意味深長。
 
願わくば「稚児ケ池」が世に出て欲しい。
 
ここは我が寺町区の人々が、江戸時代末~明治の頃くらいまで「稚児舞い」を奉納していた、ヌナカワ姫信仰の痕跡の地なのだ。