湯の花トンネル(東京都八王子市)

2011-03-10 | 多摩の風景

のち

 今日の公休、日中は暖かったので、東京・八王子市西部の裏高尾町にある『湯の花(いのはな)トンネル』の近くまで行ってみました。下記の地図の中心あたりになります。

 地図にあるとおり、中央道と圏央道が交差する『八王子ジャンクション』のほぼ真下の辺りになります。圏央道は、ジャンクションの北側部分は開通していますが南側は建造中です。列車用のトンネルに比べて圏央道の上下線に分かれた建造中の構造物は巨大に見えます。

 上の画像のトンネルは、甲府方面に向かう中央線の下り線用で、下の画像が八王子方面に向かう上り線です。下り線用はコンクリート造、上り線用はレンガ造です。中央線もかつては単線だったため、トンネルに新旧があります。

 この湯の花トンネルには、太平洋戦争末期に、走行中の列車が米軍機に銃撃されるという事件がありました。このときの中央線は単線で、事件はレンガ造りのトンネルで起こりました。
 前回の記事で、八王子市にも空襲があり、市街地ばかりか山間部でも被害があったことを書きましたが、そのことを施設入所者の方にお話ししたところ、その中のお一人に、湯の花トンネルの惨事を目の当たりにされた方がいらっしゃいました。その方は当時13歳で、湯の花トンネルの近くにお住まいだったそうです。

 「あのときは大変な騒ぎになったの...」

 現代なら中学一年生の少女が見た戦禍の光景は、生涯消えないものになっていると思います。
 湯の花トンネルの事件は、1945年8月5日の正午過ぎに起きました。空襲の被害から復旧を遂げた日の2本目の列車が、浅川(現、高尾)駅から定刻より1時間遅れの12時15分に長野県の松本へ向けて出発した直後のことです。列車は、中型機関車のED16型に引かれた8両編成の客車という構成で小仏峠へ向かって坂を登っていき、浅川駅から2kmほどの湯の花トンネルに入る手前で南側からやってきた2機(3機との説もあります)のP51型米軍機の機銃掃射を受けたそうです。
 浅川駅を出る時点で空襲警報が発令されていたのに列車は出発しています。これは、浅川駅に留まるよりも湯の花トンネル、或いはその先の小仏トンネルで避難すれば攻撃を回避できると判断したことによるようです。
 ところが、列車は湯の花トンネルに機関車と2両目の客車の半分までが入ったところで立ち往生してしまいました。列車を牽引していたED16型という機関車は、最高運転速度が65kmという中型・低速型の機関車でした。もっと大型で高速型の機関車が牽引していれば、峠への坂を早く登って行け、もう少し早くトンネルに入りこめたでしょう。
 立ち往生し逃げ場を失った列車には多くの人が乗車しており、そのほとんどは非戦闘員でした。何人の人たちが乗車していたかも分かりません。この事件で亡くなった方の正確な人数も記録がまちまちです。旧国鉄の記録では49名の方々、現場近くの慰霊碑には52名(お名前が判別できた方)以上、慰霊会の調査で65名以上となっています。負傷した方の人数は警視庁の記録では130名以上となっています。およそ200名の人たちが死傷したこの事件は、戦争末期に何件か記録された列車銃撃事件の中でも最大の被害です。

 現在の湯の花トンネル付近は、冒頭に書いたように静かな里山風景が広がっています。今の時期は梅が咲きほこっており、今日はほぼ満開の状態でした。


中央線を走る列車も、特急の『あずさ』や『かいじ』をはじめ、勾配を苦にすることなく高速で行き来しています。


南斜面を見おろすと、梅の花のトンネルのようでした。


梅林とそびえ立つ八王子ジャンクションの組み合わせが、子供の頃に本の中で見た未来都市のような景観です。


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