八王子の山が燃えたこと

2011-03-06 | Weblog




 入所者の方から『昔話』を伺うことは多いのですが、先日、80代の男性入所者Oさんから伺ったお話は、今から65年以上前のお話です。

 「夜中に爆弾が落ちてきて、山が...真っ赤に燃えて...怖かった...」

 と、Oさんはポツリポツリと話してくださいました。
 終戦間際の頃、八王子に空襲があったということは知っていましたが、空襲を受けたのは市街地だけだと思っていました。ところがOさんのお話によると、八王子市西部の山間にも焼夷弾が落とされたということになります。
 Oさんは当時、八王子市西部の『旧川口村』にお住まいでした。川口村が八王子市に編入されるのは戦後の1950年です。Oさんは旧川口村から八王子市内に通勤する生活をされていたそうです。

 八王子が空襲に遭ったのは、終戦間際の1945年8月2日の未明のことです。
 169機のB29爆撃機が、約2時間にわたって焼夷弾等による爆撃を行い、市街地の約80%が焼失するという被害を受けたそうです。大空襲を受けた東京都内の市街地の焼失面積が約50%だというのに、それを上回る大きな被害だったということになります。投下された焼夷弾の量は1600トン、当時の市民一人当たりで10個ほどになるそうです。
 八王子市中央図書館が児童向けに編纂した資料に、八王子空襲について分かりやすく解説されています。

 戦争末期の中小都市への爆撃というのは、多くの街でその全てを焼き払うほどの激しいものだったそうですが、八王子も例外ではなかったようです。八王子は交通の要衝であり、陸軍の幼年学校があったり、軍需工場などもあったことから攻撃の目標にされたのでしょう。
 戦争末期には、八王子の市街地から離れた旧川口村の山間にも海軍関係の施設が移されてきたそうです。Oさんが見た『山が真っ赤に燃えた』光景は、その施設を目標にしたものだったのでしょう。Oさんのお話から推定すると、燃えてしまった山は現在の上川町と美山町の間、『戸沢峠』の辺りのようです。
 
 通勤のために、私は毎日のように旧川口村の地区を通りますが、その現在は、八王子市街地に近い地区は住宅地に、離れた地区はゴルフ場や病院や介護施設が多く、戦争の痕跡はほとんど見られません。当時の地名(字名)だった『黒沢』『森下』『影沢』などといったものがバス停の名前に見られるくらいです。


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