日暮らし通信


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都内59万戸で停電

2016年10月13日 16時24分28秒 | 日暮らし通信
日暮らし通信

■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

秋深し

空堀川沿いにて
(撮影: H281010)



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このブログのタイトル 「都内59万戸で停電」 は今日の朝刊一面の横見だしを借用しました

昨日、埼玉県新座市にある地下に敷設された東京電力の送電ケーブルから出火、都内にある変電所への送電がストップし、最大約59万戸への電力供給が絶たれてしまった

いつもこのような災害や事故が起こると 「我が身でなくてよかった」 、「この辺りでなくてよかった」 と、被害者には申し訳なく安堵するが、電力が来ないと生活が成り立たないから多くの人たちが困ったことであろう

日本では事故や災害が発生しない限り、あまり停電という事態が起こらないが、発展途上国では電力不足で停電が頻繁に起きているのも珍しいことではないようだ

もう古い話になるが、1977年社用で約二ヶ月イギリスに出張したが、びっくりしたのは予告停電があったこと。このような大国でも停電があるのかと不思議に思ったが、夕方ホテルに帰ったら停電、それでなくても家が恋しいのに真っ暗で過ごすことで、余計にホームシックになってしまった

でも日本でも戦後は停電なんて当たり前のことだった。今と違って細い木製の電柱の配線には鉛線のヒューズがあってそれが切れると停電。関配(かんぱい) (戦後は東京電力ではなくて関東配電会社、通称かんぱいと言っていたように記憶しているのだが) の作業員が来て、そのヒューズを交換しないと電気が来なかった時代でもあった

だがその関配の社員たちは気位が高くていつも上位から見下しているようなので住民からは評判が悪かった。だが文句を言って電力供給に支障があると困るので住民は大人しくしていた

それとあの丸い電球もよく切れた。今ならホームセンターで簡単に手に入るだろうが、その当時は切れた電球を持って関配の事務所に行って、社員が切れたことを確認後、新品を受け取るという、今では想像もできないような電力事情だった

ここ十年間を振り返っても停電は数回あったように記憶しているが、一番の想い出はあの 「東日本大震災」 後の電力統制による停電だった。幸いにもこの辺りでは一回しか停電がなかったが、ローソクの火を頼りに妻と二人でじいっとしていると、やはり戦中、戦後のことを想い出してしまった

昨日の停電ではさぞ多くの人が不便を感じたことであろうが、場所によっては10分ほどで復旧したようです。それは場所によってはそのような事態を想定して他のルートから電力供給するように安全策が講じられている変電所があるとのことです

それにしても電気は有り難い。かつては東京だってあの福島の原子力発電所から電力供給されていたが、その後の地域住民の皆さんが放射能汚染で多くの困難を受けていることを思うと申し訳ない気持ちで一杯です

東京オリンピック招致もいいが、もっと 「東日本大震災」 や 「熊本地震」 などの復興に力を入れるべきではないだろうか