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 李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 白髪三千丈 と 万斛の涙 】   仁目子

2022-06-17 06:57:59 | Weblog



ーー 両者は、同じ意味の 修辞形容語である ーー
ーー なぜ、誇張表現に、国産言葉の「万斛の涙」
   を使わない ? ーー
ーー ヤマト人種の、典型的な「独善気質」による ーー
ーー 確かに、情けない事である  ーー


昭和二十年八月十五日、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏する際、時の鈴木内閣は、国民に対する「内閣告諭」を発表した。

《《  本日畏くも大詔を拜す、帝國は大東亞戰爭に従ふこと
    実に4年に近く、 而も遂に聖慮を以て非常の措置に
   より其の局を結ぶの他途なきに至る、 臣子として恐懼
    謂ふべき所を知らざるなり
    ( 中略 )
    固より帝國の前途は此に依り一層の困難を加へ更に國
    民の忍苦を求むる に至るべし、然れども帝國はこの忍
    苦の結実によりて國家の運命を將來 に開拓せざるべ
    からず、本大臣は茲に万斛の涙を呑み 敢てこの難き
    を同胞に求めむと欲す 》》

この一節に,「万斛の涙を呑み」という言葉が出ている。

「斛」とは石(こく) の意で、十斗の分量。と辞書は解説している。「万斛」は「斛」の 一万倍だから、「万斛の涙と いう言葉の意味は、十万斗の涙」という意味になる。

「斗酒なを辞せず」という。大変な酒量の事である。一斗で大変な酒量だというのだから、十万斗の涙は、天文数字の量になる。酒はいくらでも生産出来るが、涙は人体の分泌物だから、出る量は限られている。杯( さかずき) 一杯も出ない涙に、十万斗の数詞を配する。あり得ない事だと知ってて使う、誇大筆法の表現に属する。

この誇大筆法に属する表現は、列島でよく使われる。戦後しばらくして、戦没者遺族や生き残った戦友により、大平洋諸島の嘗ての激戦地で建てられた慰霊塔にも、よくこの表現が見られる;
   パプアニューギニア。投入された兵力は陸軍第十八  
    軍、海軍第九艦隊、 あわせて14万8000人、
   そのうち生還者は1万3000人に過ぎなかった。
    しかも死者の9割は餓死であったという。
   死生困苦の間に処し、命令一下「欣然として死地に
    投ずべし」(戦陣訓 )と教え込まれた有為の青年た
    ちは、万斛の涙をのんで 密林に屍をさら したので
    ある。

又、敬愛する先生への告別悼辞にも、この表現は好んで使われる;

   平成16年12月12日、私どもの敬愛する先生が
   逝去されたとの報に 接し、先生と我々の63年に及
   ぶ師弟関係の深き縁を想い起こし、万斛の涙湧き出
   ました。ここに、謹んで先生のご冥福をお祈り申し
  上ます。

そればかりではない、文学作品にも見える;

  その暁にこそ、彼女はこの老人に向って無限の感謝
  と万斛の涙をそそぐであろう。
  彼女はあたかも、故人の墓に額ずくような気持で、
  ああ あの人は私のた めにこんなに親切にしてくれ
   た、ほんとうに可哀そうな老人であったと、泣いて
  礼を云ってくれるであろう。

  ( ー 谷崎潤一郎 『少将滋幹の母 ー  )

以上のように、万斛の涙を呑み、万斛の涙をのんで、万斛の涙湧き、万斛の涙をそそぐ、と幾つかの例を挙げたが、実際には、十万斗の涙など、湧くことも、呑むことも、そそぐこともあり得ない。 白髪が、三千丈に伸びる事が有り得ない、のと全く同じ「修辞学形容詞」である。

ウエブに就職試験に備える為の「1分!常識」というページがある。それによると、「万斛(バンコク)の涙とはたくさんの涙のことである」というのが「正解」である、と書いてあった。
実際にどれだけの涙が湧き出るか、それはどうでもよい。要するに、止め処無く涙が出て来る、そのような心情、情緒の昂ぶりの描写である事が分かる。 白髪三千丈とは、白髪が沢山増えたことである。
だから現実から離脱する。通常、これを文学的な誇張表現の一種であるとされ列島で好んで使われる。
成程、それなら分からん事はない。

「十万斗の涙」と「白髪三千丈」、うん、全く好い勝負で、前者は日本産形容詞、後者は中国産形容詞。前者は現代の産物、後者は千年昔の産物。列島も流石に「言霊の栄える国」だけあって、唐土の李白には負けていない。

そう言えば、文豪漱石もこのような表現を使ってました。例の、「智に働けば、どうのこうの」、「情に棹さしたら、どうなるの」、とぶつぶつ呟きながら、山登りをした画工の書いた作品「草枕」の中に出ています。

  西洋の詩は無論の事、支那の詩にもよく 万斛の愁い
  などと云う字がある。
  詩人だから万斛で、素人なら一合で済むかも知れぬ。
  して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨の倍
  以上に神経が鋭敏なのかも知れん。
  超俗の喜びもあらうが、無量の悲しみも多からう。
  そんならば詩人になるのも考え物だ。

この一節に、万斛の涙ならず、「万斛の愁い」という表現が出ている。しかし、漱石は、西洋の詩や、中国の詩にもよくこのような表現が出て来ると言っているだけで、彼自身が使ったわけではないが、しかし、彼は、ここで「西洋の詩は勿論の事」だと言って、このように、雲を掴むような表現は、科学先進国でも横行している事を明らかにした。

こうして見ると、大体に於いて、涙と愁い、悲しみと無念の思いに、「万斛」という表現をくっつけているのが多い。どうも、人間というのは、古今東西に拘らず、悲しい時に限って、極端に大袈裟な表現を使う習性というのがあるらしい。
詩仙李白もそうだった。

秋浦長似秋   秋浦は長( とこし) えに秋に似たり
蕭條使人愁   粛条 ( さみ) しく人をして愁える      
客愁不可度   客愁は渡( はか) る可からず         
行上東大樓   行きて東の大楼に上がる           
正西望長安   正(まさ) に西のかたに長安を望む      
下見江水流   下には江水の流るるを見る          
寄言向江水   言を寄せて江水に向かい           
汝意憶儂不   汝の意は儂( われ)を憶( おも)うや不    
          ( いな) や
遙傳一掬泪   遥かに一掬 ( いっきく ) の涙を伝えて     
為我達揚州   我が為に揚州に達せよ

これが、彼の有名な「秋浦歌」の十七首の書き始め、つまり第一首である。
見て分かるように、老いたる身の粛条( さみ) しい愁いに涙して、この愁いを故郷の妻子に伝えて呉れよと、詩仙は、涙ながらに江水に訴えている。この一節に、共に涙した人が、どれほど居たことか。
こうして、愁いに涙して一首、さらに一首と詠い、ついに、第十五種に至り李白は、古今稀れなる詩的表現の高峰「白髪三千丈」を詠み出した。

 白髪三千丈 縁愁似箇長 不知明鏡裏、何処得秋霜 

の四句のうち、 第二句を日本語の訳は、「 愁いに縁りて、箇 の 似 く 長(なが)し }と読み下している。 それで、李白の白髪は、三千丈の長さに伸びた、という意味になって、中國で全く誇張だと思われていない表現が、 列島で、大袈裟な誇張に成って仕舞った。

白髪が三千丈に伸びる。全く不可能なことであり、涙が十万斗湧き出る事が絶対に無いのと一緒である。「万斛(バンコク)の涙とはたくさんの涙のことである」なら、「白髪( シラガ) 三千丈とはシラガたくさん増えたことである」になる。 ただそれだけの事である。

だから、第十五首を正しくよめば、  

  白髪が大変増えた  愁いに縁りてこんなに増えた 
  知らず 明鏡の裡  何処から秋霜を得たか

になって、何も驚く事は無い。所が、漢文漢詩に弱い列島の衆生は、言葉の皮相のみ見て、その内に潜む意味が読めなかった。

南無妙法蓮華経、俗に「れんげ さん」と信者に親しまれている説法がある。

  三千大千世界ヲ見ルニ乃至芥子ノ如キバカリモ、
  是レ菩薩ニシテ身命ヲ捨テタマフ処ニ非ザルコト
  アルコトナシ日蓮ガ慈悲広大ナラバ、南無妙法蓮
  華経ハ万年ノホカ未来マデモ流ルルベシ。
   日本国ノ一切衆生ノ盲目ヲ開ケル功徳アリ、無間地
  獄ノ道ヲフサギヌ ただ言葉の皮相のみを見て、
  他宗を悪くいったものだといって、その 心の中にひ
  そむ 万斛の涙を汲むことを知らぬというのは、いか
  にも情ないことではないか。

というような調子の説法なんですが、この中に、白髪三千丈という言葉の元である「三千大千」という表現、そして、「万斛の涙を汲む」という表現、共々同時に出て来ている。 そして、「れんげさん」 説いて曰く、

   「ただ言葉の皮相のみを見て、その心の中に
    ひそむ万斛の涙を汲むことを知らぬというのは、
    いかにも情ないことではないか」

正しく、その通りです。

列島の衆生は、「法螺吹き」の形容に、現代の自国産の「万斛の涙」を使わず、千年前の古い中国の「白髪三千丈」を借用して、中国人は「嘘つき」だと言う。
中国人は、口に出して言わないけれども、内心では、日本衆生の無知蒙昧を嘲笑っている。

ヤマト人種独特の「独善気質」によるもので、このような浅ましくも「情けない事」は、南無妙法蓮華経が 黙って見ておれないので、上述のような説法をした訳で、五体だけが満足で、やや智慧不足の、サムライの末裔である、日本国の衆生は、その説法に従い、速やかに、改めるべきであろう・

【 蓮っ葉女の為に 日本語を堕落させる 罪 】   仁目子

2022-06-16 19:31:56 | Weblog
ーー  薄よごれポンチ絵のような日本語 ーー
ーー  得 手 勝 手  とは 何の事 ? ーー

得手勝手、えてかって、と読む漢字日本語を、中国語に直すと、自私になる。この自私という中国語を、また日本語に直すと、我がままになる。
言葉遊びのように見える、が、実際は、真面目に、日本語の「不思議」について、語って見たい、と思っている。

得手勝手の解説 - 三省堂 新明解四字熟語辞典.
えて-かって【得手勝手】.
他人に構わず自分の都合ばかりを考えて、わがまま放題にするさま。  ▽「得手」は本来は得意なものの意。

得手勝手は、漢字の四字成語だが、漢字の本家中国には、同じ成語は無い。「得手」の中国語は「擅長」shàn cháng か「拿手」ná shǒu かで、得意を意味する。 「勝手」の中国語は「自私」Zìsī を意味する、つまり、我がままである。
これをまとめて、得手勝手を解説すると、「我がままが得意である」という意味になって、三省堂辞典の解説に合致する。

漢語でありながら、得手勝手という成語が中国に無く、日本列島だけにあるという事は、列島独特の「独善気質」表現に、その必要性があるものと思われる、ので頗る興味深い。

列島名称の「日本」は、「日出ずる国」を意味しているが、それは、西側にある半島や大陸から見た場合の自然現象であり、実状ではない。日本から見た場合、「日出ずる国」は、ハワイか米国になる。だから、「日出ずる国」と自称できる国は、世界中、何処にも居ない。

国際通用語「Japan」には、日出る意味は勿論無い、「日出ずる国」というのは、漢字を悪用した、という表現であるという事が分かる。一種の「得手勝手」である。 昔、唐土の随煬帝に「日出ずる国の天皇」の国書を呈出して、こっぴどく叱られ、「東の天皇」に書き換えた歴史逸事は、今でも、愚かな得手勝手の笑い話として良く語られているのは、衆知の通りである。

最近の福原愛離婚問題で、報道各誌は、当事者を同等に取り扱い、福原と夫江、福原さんと夫江さん、福原氏と夫江氏、の様に呼称している。が、「東スポ」だけは、福原さんと夫江、と江氏を呼び捨てにした報道をずっと続け、多数の読者の抗議を無視し続けて、今日に至って居る。 大変な得手勝手である。余程の事情がなければ、このような日本語を、報道紙が使用する訳がない。

名前呼び捨ては、相手を見下す、馬鹿にする事を意味する。「東スポ」は、なぜ江氏を見下す必要があるのだろうか。考えられ得るのは、福原を庇う為に、江氏を貶す、としか考えられない。それで、事実の根拠がない「モラハラ亭主」、「モンスター義姉」を紙面で踊らせている訳だが、此の離婚事件は、単なる、夫婦間、或いは、家族間の問題では無く、夫、幼児、老母を置き去りにして、日本で不倫した、という、通常の常識では考えられない行為が「焦点」になっており、それで、社会全般の非難を受けているわけで、モラハラ、モンスター などの怪文字を紙面で踊らせて、社会が騙せる訳はない。

もう一つ、考えられ得る事は、当事者が、日本人対異国人である事から、「東スポ」は、ほこりある日本紙として、日本人の「愛」の肩を持ち上げようとしている、のではないかと思う。

生前、日本について良く調子の好い話をしていた司馬遼太郎が、一度、歴史文学家の海音寺潮五郎との対談で、次の様な、辛辣な、日本評をした。

《《 「日本国はエライ」と、そういうことで出来る自信じゃなくて、自分の民族と文化についての正しい認識から生まれた毅然としてものが、日本人になければならない。でなければ薄よごれポンチ絵のような日本人像からぬけだせませんね 》》

でなければ薄よごれポンチ絵のような日本人像、、、、とは、如何にも辛辣であるが、二流、三流と言えど、日本の報道社が、ちゃんとした日本語も使用出来ないようでは、理由はどうであろうと、恥ずかしい事だと思は無いだろうか。

列島に、日出ずる国を意味する「日本」(イルボン)という名を付けたのは、西側に位置する半島南部の人々である、と、列島の権威学者は、揃えて言う。そうでなければ、地理的実情に合わないからである。

それを、恰も、太陽が列島から昇ると思って、自慢する日本人も居るが、太陽は何処からも昇らない。 太陽は中空に掛っていて、その周りを、地球がぐるぐる廻っているから、太陽が昇ったり、沈んだり、していると感じるだけの事。

「東スポ」さんよ、薄よごれポンチ絵にならないよう、そろそろ、考えを変えたらどう、 それとも、一人の「蓮っ葉女」の為に、日本語の堕落の先駆者になる つもりで居るのだろうか ?

【 他力本願 の 日本勢ゴルフ 】   仁目子

2022-06-09 12:04:18 | Weblog
ーー  キャデイは 何の為にある ? ーー
ーー  なぜ、国際試合でも、日本人キャデイ 
    しか使わない ?
ーー  他力本願でなんとか上手くできたとしても、
    自身を向上させることはできない  ーー
ーー  日本勢軍団 日系単騎兵 に如かず  ーー

国際ゴルフ試合で、日本の媒体は、欧洲、米国、韓国、日本勢、という具合に分けて、日本に「勢」を加えて表示する。
日本勢は、日本人の集合体で、戦力をもつ組織。 他を圧倒する力、元気、活気、気勢、士気、 などを意味する。それにより、「勢」のない他者を圧倒し、勝算を増やそうとする。

今年の米国女子オープンに、日本勢は十五人参加した。多勢である。
日本媒体の予想で、韓国勢の席巻は無いものとして、優勝候補の本命としてあげたのが、ミンジー・リー選手(オーストラリア)と日本の畑岡奈紗選手。
結果は、トップ5人のうち、韓国系 四人 日系人 一人だった。矢張り、韓国系の席巻であった。
日本人の最高は小祝さくらタイ二十位。畑岡奈紗はタイ二十八位で、予想から大きく外れた。 

ゴルフは、相手のいない競技だと、昔から言われており、英語では、game against yourself という言葉が金科玉条になっている。

今年の上位五選手を見て見る。

優勝者 Minjee Lee     豪州籍の韓国人
二位  Mina Harigae   米国籍 日系二世
三位  Hje -jin Choi  韓国人
四位  Jin young Ko    韓国人
五位  Lydia Ko     ニュージランド籍 韓国人

Minjee、 Mina,  Lydia , の三人は、全く「勢」の無い、孤独な「個人」であるのははっきりしている。Hje-jin , jin young にしても、韓国人の応援はあるだろうが、米国に於ける試合の応援は極めて限りがある。

日本は、初っ端から、日本勢として、十五選手を「集合体」として、「日の丸」を背負わせて参加させた。

Golf は mental game である、と言われるように、精神的に、「孤独」に耐え、「自分だけ」に頼る、事に徹する事が出来る者が勝利者に成れる。Mina Harigae (張替美那) が「日系人」である為に、「日本勢」の内に入らず、反って、それが幸いして、彼女は孤軍奮闘して、終始優勝争いを演じ、 十五人の日本勢よりも、断然強い所を世界に示した。

日本国内戦で、今年のゴルフ5レディスで、小祝さくらとのプレイオフを制したのは申ジエ選手。

日本で十七勝、世界で五十二勝の抜群な成績を持つ申ジエ選手は、現在のツアー選手のなかでは飛距離が出ない選手。それでもトッププロとして活躍できるのは、このショットの精度と周囲に惑わされない精神力の強さを持続する力に他ならない。という日本媒体の評価であった。

テレビ実況放送を見て、申は終始自分一人に頼ってプレイしていたのに対し、小祝はキャデイが付き切りで助言をしていた場面が多かったことに、大変な驚きを感じた。米国で、多年PGA 試合の実況放送を見て来たが、このような場面を目にする事は殆んど無かった。

キャデイの主な役目は、プレーヤーのクラブを運ぶ為であり、プレー上の助言を与えたりする事もある。 アマチュアプレイアは、キャデイの助言を必要とするのは一般的であるが、プロがキャデイの助言を必要とするのは、そのプロが未熟である事を示すから、それは、好ましい事では無い。

プレイオフ最中、申は一人で超然とボールを打っているのに、小祝は時々キャデイの助言を受けていた。ああ、これは申の勝だなあと思ったら、結果はその通りになった。

米国の試合に参加している韓国選手は殆んど米国人キャデイを使っているが、日本選手は例外なく日本人キャデイを使っている。なぜ、日本人キャデイ ? 
主な理由は、英語が駄目だからで、今一つの理由は、常に「日本」が傍に居るという安堵感、さもなければ、心細いという、日本人独特の「日の丸依頼」心理である。

ゴルフは against yourself (自分相手)の競技であるから、自己独立精神が軟弱な日本選手が、自己独立精神旺盛な韓国選手に勝つ機会は極度に低い、という事になる。いくら技術的に優れても、精神的に軟弱であれば、試合には勝てない、それがゴルフという競技で、mental game だと言われる由縁である。

最近、韓国国内の試合実況放送を見て、更に、驚いたのは、国内試合のキャデイに、外国人を使っている選手が居た事である。明らかに、英語を身に着ける為で、海外試合で活躍する「夢」を抱いての事前準備に他ならない。自己独立精神とこのような長期的な視点、気長な心構え、など, もっぱら「長い目で見る」韓国選手と、目先に囚われがちな日本選手では、とても競争相手にはなれない。

1992年から2022年まで、過去三十年の全米女子オープンで、韓国女子が十三回優勝しているに対して、日本女子の優勝は僅かに一回のみ、このような記録が全てを物語っている。

日本は、これからも、集団で、日の丸を背負い、「日本勢」として、海外試合に臨むようであるなら、ますます,他国に遅れるのは、はっきり目に見えている。

理由は、極めて単純である。ゴルフは、他力本願で勝てる競技では無いからである。日本は、むしろ、選手を突き放して、独立精神を逞しくし、孤独奮闘で、自力本願に頼って、試合に臨めるようにしない限り、韓国を始め、「勢」に頼らない他国の選手に勝つのは困難である事が、過去数十年来の実績が物語っている。

【 「筋道」  「理屈」  「道理」   の違い 】   仁目子

2022-06-01 14:56:03 | Weblog
ーー 「筋道」は日本語で、「理屈」は外来語  ーー
ーー  自分の為だけにある「筋道」が理屈である ーー
ーー  他人にも通じる 筋道が論理になる  ーー
ーー  列島 文字文化の 伝統的 集積癖  ーー

理屈(りくつ)と膏薬(こうやく)はどこへでも付(つ)く,
理屈は、つけようと思えば何にでもつけることができる。
理屈に、このような俗語は沢山あるが、論理には、このような俗語は無い、

ウエブに、「筋道と理屈」を入力してみたら、1,080,000 の記事数があって、その最初の記事が『【筋道】 と 【理屈】 と 【道理】 はどう違いますか?』 という質問であった。
日本語が「摩訶不思議」な言葉と言われる訳は、この質問に正体が隠されているようである。

この質問の回答が、同じ記事の中に出ていた。凄く興味をそそる回答で、辞書を引用して、次のように答えている。

道理 ーー  物事の正しい筋道。
筋道 ーー  物事がそうなっているわけ。事の条理、道理。
理屈 ーー  物事の筋道。道理。

この回答に、最も多く使われている文句は、筋道と道理の二つである。理屈の解説に至っては、筋道と道理とはっきり言っている。 すると、筋道 理屈 道理の三者は同じ者である、という事になる。

外に、「論理」という文句もある。辞書で見ると、
1 考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。「論理に飛躍がある」
2 事物の間にある法則的な連関。
となっており、やや難しくなる。理屈とはどう違うか、その解説を見ると、次のような説明になっている。

《《  論理的と理屈っぽいは、どちらとも筋道が立っていることですが、決定的な違いがあります。 論理的とは、第三者である聞き手や読み手にとって、「客観的に筋道が立っていること」です。 一方、理屈っぽいとは、「自己満足的に筋道が立っていること」です。 》》
だから、論理的、とは言うが、論理っぽい、とは言わない。そして、理屈っぽい、とは言うが、理屈的、とは言わない。


ーー 「理屈」の意味ですら 良く分らない ヤマト人種 ーー

「理屈」とは何か ? 

日本国語大辞典に、もっともな論理、すじの通ったわけ、と一つの解釈だけが出ているが、一方、大辞泉では、(1) 物事の筋道、道理。(2) 無理につじつまを合わせた論理、こじつけの理論。という二つの字義を載せている。

よって、日本語大辞典に従うなら、「理屈」は筋の通った道理であり、大辞泉に従うなら、「理屈」とはこじつけの理論でもある。つまり、屁理屈にもなる。

更に、三省堂をも巻き込むと、益々混沌として来る。

理(り) 道理 事理 論理 論法 理路〈整然と説明する〉 条理 訳〈の分かった人〉 筋(すじ) 筋道 筋合い 辻褄(つじつま)〈を合わせる〉。 と、三省堂は解説している。 
果たして、どれを取るべきであろうか ? 大半の日本人は、それも知らずに、この言葉を使っている。人により,屁をつけ「屁理屈」と言うて使う人もいる。実際は、同じ事である。


ーー  論語知らずで  李白も読めない ーー

文壇の老大家 故阿川弘之に「論語知らずの論語読み」という著書がある。序説の書き出しが可成り写実的で面白い;

《 うちに遊びに来た豚児のガールフレンドや豚女のボーイフレンドたちに「君たち、論語を知ってるか?」と訊ねたら「知ってるわよね、論語くらい」という返事。
「論語の中のどんな言葉が印象に残ってる?」と聞いたら「さあ・・・」とれっきとした大学生なのに黙ってしまう。
「例えば、朋アリ遠方ヨリ来ル、亦楽シカラズヤ、とかいうやつの二つや三つ知らないの?」と追い討ちをかけると。「知りません、論語がどうかしたんですか?」とくる 》

このように、知っているようで知らないのが「論語」という曲者であり、それを凡人達は安易に「知っているわよ」と云う。

論語というと、孔子様、 その孔子様に「子路」という弟子がいた。子路は春秋魯国 ( 山東) 季氏の家臣であったから、昔の地方の小役人になる。

この子路が学びに然程真面目でない「子羔」という人を山東省費縣西南の町長に任命した。それを聞いた孔子が、「 子羔を害する事」だと評した。つまり、「そのような重い責任を与えると、あの人をだめにしてしまうぞ。」と忠告した。

すると子路は、「費には無位の民も有位の民もおります、社も稷もあります。読書をし知識を広めてから学び、熟してからのち政治を担当する必要がどこにありましょう」、と反論した。
そこで、子曰く;「是故惡夫佞者」。つまり、「このように、口先で人に勝とうとするから、口達者なものを悪むのだ」と。

「是故惡夫佞者」という古文は分かり難いので、後日、朱子が「子路之言,非其本意,但理屈詞窮,而取辯於口以御人耳。」という注釈を付けた。つまり、「子路の言は彼の本意ではない、ただ、道理につまり言葉に窮した為に.口先で人に勝とうとしただけの事だ」。

この朱子の注釈に使われた「理屈詞窮」という成語が、日本語の「理屈」という言葉の元祖であるのはこれによって分かる。その本来の意味する所は「道理につまる」「筋の通らない道理」であり、今日の列島で云う「屁理屈」にほぼ該当する。だから、日本語で、理屈と言っても、屁理屈といっても、結果的には同じ事である。

何れにしても、今日列島で使われている「理屈」という言葉の意味は、孔子様の意とする所、或いは、朱子先生の注釈とは、意味が逸脱している事は間違いない。

文豪漱石は「理屈っぽい所がある」と良く云われる。次の逸話が如実にそれを物語っている ;
漱石が教師であった頃、授業中に懐手をしている学生がいて、漱石が注意すると生徒に「彼には手がありません」といわれた。「あ、そうか」と言って済ますべき所、漱石は、「私も無い知恵を出して講義してるんだから、君も出したまえ」と、心にもない理屈を口にした。
漱石だから「理屈」で通るだろうが、並の人なら「こじつけ」や「屁理屈」になるだろう。

「理屈」という言葉が「論語」から派生したものである、という事を知っている人は果たしてどのくらい居るのだろうか。

「論語」は唐土或いは列島で昔から「バイブル」並みに扱われて来たが、「バイブル」をよく知らないクリスチヤンが多く居るように、「論語」を良く知らない人びとは唐土や列島に溢れているのも実状であり、特に列島では「論語読みの論語知らず」という諺まである。
「論語」を読んでもよく知らないのであれば、論語から派生した「理屈」の意味がすっきりしない訳も分かる、というものではなかろうか。


ーー  白髪三千丈 の ヤマト人種理屈(屁理屈)  ーー

先ず、論理に叶う、或いは、論理的な言い分の例を挙げて見る。

    雲があって 始めて 雨が降る
    雲が有ると 空は曇る
    だから 雨天の空は曇っている

    ソクラテスは人間である
    人間は死ぬものである
    だから ソクラテスも死ぬ

日本人は論理に弱い、と言われているから、このような「論理的」な言い方に、興味のある人は多くない。

ウエブで、「日本人は論理に弱い」を入力して、その度合いを見て見ようと思った。 一ぺージ目から、『日本人はなぜ「論理思考が壊滅的に苦手」なのか 』という記事が軒並みに現れた。成程、弱い!

唐土の詩仙李白を、列島の人々は、限りなく敬慕している。特に、李白の名句「白髪三千丈」を知らない日本人は居ない程である。
所が、大半の日本人は、この名句を「詩」から切り離して、法螺吹きの「俗語」として使っている。

    白髪三千丈は 李白の詩句である
    白髪三千丈は 法螺吹きである
    だから 中国人は法螺吹きである

という具合に使っている。これは、全く論理に合わない、

    白髪三千丈は 李白の詩句である
    白髪三千丈は 法螺吹きである
    だから 李白は法螺吹きである

という具合にならなければ「論理」に合わない、が、日本ではそうなって居ない。「最終句」が「だから 中国人は法螺吹きである」になっている。 デタラメな言い分になる。 これは、紛れも無く「屁理屈」である。 「論理思考が壊滅的に苦手」であるという最適の実例でもある。

主観的とは、辞書によれば、主観に基づくさま。自分だけにしか通用しない、ひとりよがりなさまである、と書いているので、理屈っぽいという言葉が意味する、「自己満足的に筋道が立っていること」の意味合いに合致する。つまり、「中国人は法螺吹き」だと言うのは、紛れも無く「屁理屈」になる。

白髪三千丈を誇張だというのは、全世界で日本人だけである。原産地の中国は固より、其の他の国で、この詩句が「誇張」である、と言うのは居ない。 思うに、日本人は、李白が読めないから、誇張だと言っている訳で、筋道からは全く外れている。

孔子を敬慕しても、論語知らずである、のと同じように、李白を敬慕しても「白髪三千丈」が読めない日本人が大半である。それで、名詩句を俗語に格落ちさせて、列島で法螺吹きの代名詞として使っている。

数千年の唐土文化の薫陶を受けた、ヤマト人種の「智能程度」が、「理屈」というれっきとした言葉であろうと、「白髪三千丈」という古今の名詩句であろうと、その理解程度の余りにも低次元である事に、大変な驚きを感じる、と、共に、なぜ、ヤマト人種は、無知を恥ずかしい、と思わず、反って、唐土をバカにするような「言行」を好むのか、と、限りなく不思議に思う。


ーー  昔の夷人は 、 今日の日本人ではない ーー 

「東夷」という呼称が正式に世に表れたのは、物の本によると、「西周」の金文であったという。西周とは、約前11世紀―前771年に存在した古代唐土の王朝で,今を去る三千年余り前の昔になる。
その時分、朝鮮、日本、琉球、台湾などの島々には、勿論「国」というものは無く、列島は、縄文人の部落があっちこっちに散居していた時代であったと思われる。「日本」という国も、「日本人」という人種もないし、且つ、縄文人、即ち日本人の祖先である事も、今の日本人は認めていない。

つまり、昔昔、「東夷」と称された「列島人」と今日の「日本人」との間に、数千年を経て可成りの変化があって、殆んど別種の人間に進化しているのが実情であり、それは、古代から列島に定住していた「アイヌ」を、日本列島の「原住民」として認める事に、「日本人」がずっと抵抗を感じ、近年に至り、しぶしぶとその現実を認めた事からも、良く分かる通りである。

それでいて、古代の「列島」が「東夷」と称された事に、今日の日本人があれは「バカ」にされたと言って憤慨するのは、大変可怪しい、と思わないだろうか。

三千年前に、「東夷」と称されたのは、今日の中国の遼東、河北、山東、江蘇、安徽の各省が主体であり、更に漠然と、海の彼方の朝鮮、日本、琉球、台湾なども包括していたようであるが、この内、昔昔の呼称である「東夷」に、今日反撥を示し、文句を付けているのは「日本」だけで、朝鮮にしろ、琉球、台湾にしろ、又、同じ「唐土」である遼東、河北、山東、江蘇、安徽の各省ですら、全くそれを問題にしていないのに、なぜ、遠い海の彼方に位置する「日本」だけが、今日に至るもそれを問題にしているのか、どう考えても不思議である。

そこで考えられる事は、列島でよく言われる「自意識過剰」という日本人の特殊性格によるものではなかろうか、ということである。

他人の目、他人の言う事などを必要以上に気にするという特殊性格から、「日本をどう思いますか?」という問いが頻繁に外国人に対して発せられる事になるが、気に入った回答であれば喜んで微笑むが、期待通りの回答が戻って来なければ、ソッポを向いてしまう。

歴史学者によると、列島に「日本」という国が成立したのは、千三百年ほど前の事であるが、未だに、「日本」という名称の始まり、「日本人」は何処から来た、「天皇」は何処から来たなどなどの問題討議で「定説」が確定しないままに、世論を賑わしている。
なのに、三千年もの昔の「東夷」の呼称が、どうのこうのとウエブで29、200、000 件 ( 千万単位 ) の記事を出し、討議した所で、結論の出しようはなく、何の意味があるのだろうか?

「夷」という漢字を、「蔑称」に限定して使用するのは、自分の卑下を悪化させる弊害を生み出すだけで何の役にも立たない事が分かる。これは、列島の特殊性格によるもので、「夷」という漢字そのものを解すると云うよりよりも、単なる「自夷識過剰」を満足させる為に使用しているのではないか。


ーー  列島は 文字文化の「ゴミ屋敷」(囤積症) ーー

日本語と言うのは、世界中から, 特に、系統も考えずにただ単に寄せ集めたもの。言うなれば「がらくたの寄せ集め」に該当する。

その良い例の一つが、本文で挙げた「理屈」という言葉である。論語から出た「理屈」は、本家の中国で、理に屈する、即ち、こじつけの理論として使っている(大辞泉 参照)。所が、分家の日本では、もっともな論理、すじの通ったわけ (日本国語大辞典 参照)として使っている。 
そして、同じ分家の辞書三省堂では、理(り) 道理 事理 論理 論法 理路〈整然と説明する〉 条理 訳〈の分かった人〉 筋(すじ) 筋道 筋合い 辻褄(つじつま)〈を合わせる〉。 と、多岐多彩な解説しているから、 全般的に、日本に於ける「理屈」の意味は混沌としている。だから、屁理屈だとか理屈っぽいという、素性のすっきり用語が良く使われる。

漢字の本家である中国では、「道理」に叶うかどうかに絞って、使っている。なぜ、日本で、理(り) 道理 事理 論理 論法 理路〈整然と説明する〉 条理 訳〈の分かった人〉 筋(すじ) 筋道 筋合い 辻褄(つじつま)〈を合わせる〉などなどと、十以上の文句を使う必要がある ?

勿論、必要はない。ただ、集めた文句が沢山あるので、それらを披露したまでの事で、個人の「ゴミ屋敷」に相当するものではなかろうか。

今一つ、理屈よりも、もっとひどいゴミ集めがある。バカや阿呆を表わす言葉は、米国で主に二つ、fool か stupid で、中卒なら誰でも学校で習った通りである。 そして、人口十四億の中国で、で普段使われている「馬鹿」という言葉は Weblio には「笨蛋」(ben 4 dan 4 ) や「傻瓜」(sha3 gua1) の二つしか出ていない。

所が、国土、人口など遥かに小さい島国日本では、日本語の「馬鹿」の同義語が、Weblio 辞書によると、九十四の多きに達する。信じ難い事である。 ヤマト人種は、そんな桁外れに「バカ」が多いのかなあーと、首を傾げたがる。 「馬鹿」や「阿呆」の二つも有れば、充分ではなかろうか。


「論理」という文句は、辞書で見ると、

1 考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。「論理に飛躍がある」
2 事物の間にある法則的な連関。
と出ていて、考えや議論を系統的に思考し、筋道を組み立てる法則や形式である。

日本人は、論理に弱い、そして、外国人との意思疎通(communicationn ) がままならない、のは周知の通りであり、其の根本原因を考えてみるなら、列島文字文化の「ゴミ屋敷」症状が、主な原因である、と、認めざるを得ない。

なぜ、日本の文部省は、思い切って整理をしないのかな、と良く思う。

漢字が誕生して、既に、三千年以上の歳月が過ぎた。「上」という漢字の筆画は、この間、二つでずっと使用されて来た。一つは、タテ ヨコ タテ、 今一つは、ヨコ タテ ヨコ で、本家でも何の問題も無く使用されて来た。

所が、日本の文部省は、三千年後の今日に至り、突然、何を思ったのか、二通りの筆画を一通りに纏めるべく、数年前、五人の書道家に決定を依頼して、筆画を一つに纏めた。その通りに書かないと、試験は不合格になると言う。

その新聞報道を見たときは、開いた口が不がらない、という心情であった。僅三画の字である、タテから始めるか、ヨコから始めようか、結果は「上」の字になる。なにが問題になるのか。
所が、列島の文部省は、そのような 極めて「微細」な事に頭を使うが、国家の文字文化の「ガラクタ ゴミ」を整理しよう、とする声は聴いた事も無い。 摩訶不思議な事である。
少なくとも、千年以上に亙る、東西文字の「ゴミ集め」、玉有れば、石もある。日本文化は、玉石混交である、と言われる訳は、そこにある。

整理することを、本文主題 『 「筋道」「理屈」「道理」、の違い 』 を例に挙げて言うならば、理屈という外来語をはずし、「筋道」という国産語を残せば、充分足りる筈。ちょっとしたお相伴が必要なら「道理」も残す、という事で、文字文化としては完璧である筈。整理をすれば、三省堂のような 訳の分からない 込み入った解説の必要は、毛頭ない。 残るのは、するかしないか、だけである。

明治以来、「自慢嗜好」の強い列島は、軍事大国、経済大国を喧伝し続けて来たが、ついに、文化大国という文句を口にしたのは、聞いた事が無い。当たり前である。文字文化が混沌としているからである。世界中の文字を拾い集めた結果が、文字文化の混合、そして、混沌を招いて、はっきりと雑種文化の様相を呈しているので、「文化大国」とは、お世辞にも言えない。

日本は 世界唯一の「語学音痴」の国である。世界中の言葉を、只だと思って、収集して来たが、実際に使用出来る、或いは、使用しているのは、僅かであり、残りは「ゴミ」となっており、列島自体の文字文化の開発発展の妨げになっている。「語学音痴」になるべくしてなった、と言える。

近年来、列島「美人芸能人」の「ゴミ屋敷」が公になり、大変な反響を呼んでいる。美人とゴミ集積、どう考えても,異常で病気の内に入る。

ならば、国家の文字文化の「ゴミ集積」に見向きしない政府に、庶民からの抗議の声を聴かないのは、ヤマト人種に、ゴミ収集癖が、伝統的にあったもの、かとも思える。

果たして、実態は、どちらなのか ?


【 アンポンタン に見る ヤマト人種の 「自慢嗜好」】    仁目子

2022-05-29 10:46:58 | Weblog
ーー  なぜ、アンポンタン というシナ語が必要 ?? ーー
ーー  アンポンタンの語源を 日本語にする 国粋バカ ーー
ーー  正しく アンポンタン  ーー 

「アンポンタン」というカタカナは、通常「馬鹿」という意味で使われている。「馬鹿」は「バカ」とも書き、「莫迦」とも書く。それだけではなしに、日本語の「馬鹿」の同義語が、Weblio 辞書によると、下記の如く、九十四の多きに達する。信じ難い事である。

鈍ま・ひょうろく玉・半端・甚六・たわけ・戯者・与太郎・馬鹿垂・脳たりん・抜け作・昧者・愚婦・おたんちん・あほんだら・阿房・薄野呂・のろま・薄のろ・薄ぼんやり・脳足りん・空け者・鈍間・愚か者・馬鹿野郎・阿呆・烏滸・あほ・すかたん・戯け者・馬鹿・頓馬・槃特・薄馬鹿・馬鹿たれ・安本丹・痴者・痴れ者・魯鈍漢・駑馬・呆助・痴・薄ばか・愚夫・空者・鈍物・半ぱ・馬太郎・ぽんつく・虚者・莫迦・頓痴気・とんちき・間ぬけ・表六玉・鈍付・戯け・箆棒・愚か人・とんま・痴人・あんぽんたん・滑稽者・惚者・うっそり・虚け・虚仮・虚け者・愚人・空け・鈍つく・馬鹿垂れ・呆気者・芋助・薄鈍・抜け・愚物・下愚・惚け者・馬鹿者・愚者・あほう・鈍才・三太郎・おたんこなす

人口、国土、人種の大国である米国で、「馬鹿」は、stupid か fool の二通りで事足りているようで、それよりきつく言う時は knukle head (まぬけ)と言うが、それでも三つの言い方で十分足りている。試しに、上述の Weblio 辞書を見たら、全部拾い上げても、stupid、slow、dumb、obtuse、dense、dull、dim、extreme、crackbrained、idiotic などの十しかなく、日本語の約十分の一しかない。

列島のすぐ隣に、人口十四億を越す、とてつもない大国、中国がある。この大国で普段使われている「馬鹿」という言葉は Weblio には「笨蛋」(ben 4 dan 4 ) や「傻瓜」(sha3 gua1) の二つしか出ていない。

国が小さい程、「馬鹿」の表現が多岐に亙るのは、何を意味するのだろうか。こんなものが多いのは、ちっとも自慢の種子(たね) にならない。 所が、weblio 辞書は 九十四もの同義語を挙げている。世界で最も多いので、自慢嗜好の強い日本では、此れも自慢のタネになると思って居る、のかも知れない。

アンポンタンは、阿呆・馬鹿などの意味で使われている俗語で、ウエブサイトに、623,000件の関連記事が掲載されている。その第一件の記事は、「語源由来辞典」で、アンポンタンを下記のように紹介している。

《《 あんぽんたんの語源・由来
あんぽんたんは、「阿呆」と愚か者の意味の「だらすけ」が複合された、「あほだら」「あほんだら」が転じた言葉である。
「阿呆」は「あっぽ」とも言われ、「陀羅助(だらすけ)」という薬(「陀羅尼助」の略)もあったため、「反魂丹(はんごんたん)」や「萬金丹(まんきんたん)」という薬の名から、漢字で「安本丹」ともじられた。》》

1988年 岩波新書出版の安藤彦太郎『中国語と近代日本』によれば、『 さかのぼって日清戦争の時にもすでに「兵隊支那語」があって、例えば「ポコペン」(だめ)、「アンポンタン(ばか)、「ペケ」( 不可) などである』、と書いている通り、アンポンタンの語源は中国語である。戦前、戦中の日本人は、それをよく知っている。

安藤彦太郎(1917年 - 2009年)は、日本の日中関係史学者、早稲田大学名誉教授。妻は早稲田大学名誉教授・中国文学者の岸陽子で、中国語の泰斗であるから、冒頭に書いたウエブサイトの「語源辞典」の素人解説とは、全く比較にならない程の権威と信憑性を有する。 つまり、アンポンタンの語源は、支那語である事がはっきりしている。 それでも、アンポンタンは「国粋語」であると、日本の、「語源由来辞典」は主張する。正しく、アンポンタン。

アンポンタンの元は「王八蛋」( ワンパータン) であるという中国通がいるが、大変疑問の余地がある。なぜかと言うと、王八蛋(ワンバダン) とは、王八は亀、蛋は卵のことを指し、相手を亀の子孫と罵る言葉になる。「王八蛋」( wang 2 ba 1 dan 4 ) は、ーー 恥知らずの 人でなし ーー という強烈な侮蔑ことばであり、「馬鹿」とは全然意味合いが違うから、アンポンタンと「王八蛋」( ワンパータン) は結びつけようがない。  上述「語言辞典」と同じく,似非(えせ)中国通の胡説八道( 口から出任せを言う,うそ八百を並べる)である。 兎に角、知らなくても、知ったふりして、自慢したがる。典型的な、ヤマト人種の「自慢嗜好」である。

中国語で「馬鹿」と言う時に使うのは、前述の Weblio 辞書に出ている「笨蛋」や「傻瓜」(sha3 gua1) の二つである。中でも、「笨蛋」(ben 4 dan 4 ) がもっともよく使われる。だから、アンポンタンの語源を求める場合は、「笨蛋」「や「傻瓜」、の何れかに落ち着くというのが筋であろう。

すると、明らかに、「笨蛋」という、発音が、ben 4 dan 4 になる言葉が最右翼になる事に気が付く。アンポンタンは、明らかに漢字三つから成り立っている。 ポンタンが、ben 4 dan 4 から転じて来たのは、疑いの余地が無く、残るのは 「アン」の漢字が何であるか、を見つけるだけである。

日本語に「俺」という自称がある。この自称の元は中国語で、自分を大きくしたり 小さくしたりして、茶化す時に良く使う。「オレはバカだ」と言う人はいる、が、「私はバカだ」と言う人は居ない。中国でも、同じ様に、「俺笨蛋」と言うが、「我笨蛋」とは言わない。


この「俺」という中国語のピンイン(発音記号)は ǎn (an3)と読む。 日本語のカタカナ読みだと「 アン」になる。 それで、「俺笨蛋」の発音は、中国語で an3 ben 4  dan 4  になり、日本語のカタカナ読みで アンポンタン になる、という事が分かり、日本語学史上の謎が、あっけなく解ける。

ウエブサイトに、日本で中国語を教えている人(中国人)が、中国語教授の宣伝広告に、アンポンタンの川柳を一首載せていた。

 曰く、  俺笨蛋 これが日本語 「あんぽんたん」

成程、何と微笑ましい川柳だと、目にして、微笑んでしまった。日本語に堪能な、中國語教授が、そう言うのだから、間違いはない。


始めから「俺笨蛋」と原語をそのまま使えば、中国語を覚える事にもなり、魚の名やら、薬の安本丹とやらの、単に「奇を衒う」歪説に振り回される事も無い。所が、「カタカナ」表示にしてしまった為に、意味も素姓も全て曖昧糢糊になってしまい、列島を「語学音痴」の国にしてしまった。

なぜ、漢字や横文字を片っ端からカタカナに直して使うのか、想像するに、江戸時代の本居宣長が唱えた「国風化」の遺伝子が、未だに列島で根強く生き延びているのではないかと思う。

世界広しといえど、「カタカナ」文字があるのは日本だけである。そして、日本語というのは、漢語、ひらがな、カタカナの三種の文字の混合語であり、これまた、他国に例がない。これが、外国語( 英語) 学習の優等生である日本人の語学能力が世界の末席に甘んじている根本原因である。

「俺笨蛋」という表意文字を避けて、「アンポンタン」と書く。横文字の「arbeit」を「アルバイト」に、「glass」を「グラス」と「ガラス」の二通りに、「Mc Donalds」をマクドナルドに、Macilroy をマキロイに、書き換えるのは、その方が日本人には発音し易い為だと思うが、裏返して言うと、日本人は外国語を覚える「才覚」に乏しい事を、自分で晒(さら)している事に外ならない。 

日本語は、漢語、ひらがな、カタカナの三種の言葉混合で成り立っている。漢語は嫌な中国の言葉だから、避けたいと思って使わない人も居るだろうが、厳格に言うと、ひらがらもカタカナも漢語の切れ端(きれっぱし)である。言うなれば、漢語は日本語の「本家」になる。

その本家を貶し、見下すのみならず、戦争で、折角文化の国(本家)に行った日本の兵士が、故国日本に持ち帰った「お土産」が、アンポンタン「バカ」、ポコペン(駄目)や ぺケ(不可)などのような低次元中国語だから、全く、自慢にならない。日本人の語学音痴は、今に始まった事ではない事が分かる。 李白杜甫の詩句を土産にするのは、無理だとしても、せめて、 早安(おはよう)ZAO AN 、 你好嗎 (いかがですか) NI HAO MA 、謝謝你(ありがとう)XIE XIE 程度の初頭会話の ABC を土産に持って帰るべきでは無かったか。

冒頭に述べたように、日本語の「馬鹿」の同義語が、Weblio 辞書によると、九十四の多きに達する。それでも足らずに、シナ語のアンポンタンまで引用する。という事は、自生の文字を持たなかった列島は、外国語を借り、使用せざるを得ない星の下に生まれたからであろう。それは、自慢にならない宿命(さだめ)である。

それならば、つまらない我を張らずに、素直に、外国語を学び、特に、漢語に敬意を表して学び、外国語を使うように心掛けて行かなければ、未来永劫、列島の語学は「アンポンタン」の域から抜け出すのは無理であろう。