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 李白の白髪  仁目子


白髪三千丈
愁いに縁りて  箇の似く 長(ふえ)た
知らず 明鏡の裡(うち)
何処より 秋霜を得たるか

【 マクドナルド が オハイオ を嘲笑う】   仁目子

2022-08-04 05:16:17 | Weblog
ーー 無神経 の 極み ーー
ーー blind to your own fault  自分の非には目をつぶる ーー
ーー このような神経感覚音痴は 原始縄文遺伝子の名残り 
    としか考えられない ーー
―― 遺伝子であれば 自分でもどうしようもない ーー

ロスのゴルフ場で、たまたま一緒に回った白人青年 Paul に聞いた話だが、日本留学歴のある彼は、留学中の面白い逸話を話して呉れた。

彼は、留学中、同級生に対して、good morning の挨拶は、専ら「オハイオ」で通した、と言う。当然のことながら、皆に笑われる。 彼は、それを承知の上で、敢えて「オハイオ」を繰り返す。

そうして、皆の笑が終わるのを待って、彼は、「なぜ、日本人は、マックダーノをマクドナルドと発音するのか?」という疑問を皆に投げる。 一瞬、同級生共は黙ってしまい、そのまま立ち去る。その後、彼が「オハイオ」を繰り返しても、同級生共は、「オハヨウ」と言い返すだけで、嘲笑はしない。

オハイオは、美国 Ohio 洲の日本語読みで、オハヨウという日本語挨拶の発音に近い。早口で言えば、殆んど同じ言葉に聞こえる。この Paul という白人はオハイオ州の生まれで、オハイオとお早うの発音が、極めて近い事に、興味を感じ、同級生の日本人に対し、ユーモアたっぷりで「オハイオ」を口にしたものだが、計らずも、笑われる事になった。

マクダーノとマクドナルドの発音はかなり違う。マクドナルドは、日本人には通じるが、外国人には分り様がない。それでも、日本人はマックダーノと言わずに、マクドナルドと言う。

ならば、彼が オハヨウをオハイオと言うても、笑われる理由は全くない。 郷にいては郷に従え、だと思って、彼は、生まれ故郷のオハイオを意識的に挨拶言葉にして、日本の大学を卒業した。

そう言って、彼は、面白そうに笑った。確かに、面白い話である。 私は、彼に、全く同感だねと答えた。

日本に「自分は棚に上げる」という諺があって、自分にとって都合の悪いことに目を背け(て他人の同じ点は非難す)るさまを指す言い方、を意味している。 日本の留学歴を持つ、このPaul という若者は、その諺を知っていた。

英語で何て言うの、と聞いてみたらば、色々言い方は有るけど、  You are blind to your own fault という言い方が近いだろうね と教えて呉れた。 自分の非には目をつぶる、なるほど、自分は棚に上げる、ぴったりと合う。

何時になったら、或いは、如何なる状況の元に、日本人は、マクドナルドをマックダーノに言い換える事が出来るようになるだろうか、 とPaul の考えを聴いて見た。 

明治時代から、Mc Donalds を、マックダーノ と言わずに、マクドナルドで今日までずっと通して来た、日本人の一徹(stubborn ) な例があるので、言い換える事は期待出来ないだろうという彼の見方だった。

とすれば、日本人語学音痴が改善される見込みは、殆んど無いという事になる。 言い換える、という事は、日本人に取って、英語に頭を下げる事になる。戦争に負ければ、降参よりも、自決を選ぶ、日本人の嗜好からすれば、英語に頭を下げるよりも、語学音痴の方を選ぶ事になるものと、思われる。

それは、日本人の嗜好選択だから、外国人が特にとやかく言う筋合いのものではない。ただ、不思議に思うのは、せっせと高い月謝を払って、英語を覚えようとする、数知れない多くの日本人の「本音」、或いは、真意が分からない、という事である。つまり、何の為に、高い月謝を払うのか、分からない・ Paul もそう言うし、私もそう思う。 日本を知る外国人の大半は、「日本人は不可解である」という。確かにその通りである。

日本の大学卒だが、列島原始人種の「縄文人」について、聞いてみたが、日本人が「縄文時代」について語る事が殆んど無いので、Paul は、余り良くは知らなかった。が、語学音痴にしても、神経感覚音痴にしても、 原始縄文遺伝子の名残り だとしか考えられない。 だから、世界広しと言えど、日本列島に限って、このような「原始的」な神経感覚や語学音痴を見るのは、日本列島に限って、「縄文時代」が万年に亘って存在した事とは、深い関係があるように思われる。
 
その日の、十八ホールの話題は、列島の語学音痴が 殆んど集中した面白いラウンドであった。 日本人は、自 分 は 棚 に 上 げ る という伝統的な習性がある事は、Paul も私も、共に確認したが、 語学音痴の不可解については、ついに、は不可解のままで、解けず仕舞いに終わった。




【 ちゃんと育ってほしい と言うのなら  子供が 可哀そう だと言うのなら 】  仁目子

2022-08-03 12:51:39 | Weblog
ーー 犬や猫のペットを可愛がる、面倒を見る事が出来るなら、
   幼い子供の先行きを真剣に考えてあげるべきであろう ーー


「女性自身」誌が、八月二日に、『 福原愛 元夫とドロ沼親権バトルの裏で本誌に吐露した子供への思い「ちゃんと育ってほしい」』 という記事を公にした。

その記事の コメント 第一件 は次のように述べていた。

《《 もーぷぅ
別の女性から奪ってまで、自身の幸せを選び 幸せなら もう他の誰かを不幸にしなくても良いのでは?
もう、新たな争いごとを招いても誰も得はしない。とにかく、子どもを巻き込んで振り回すのだけはやめてあげて欲しい。
子どもと過ごしたい気持ちを述べてるけど、
そもそも、子どもより男を選びましたよね?
自分の幸せ追求する事は決して悪い事ではないですが、その為なら他の人の事、犠牲になる人がいる事も顧みない行いはよろしくないと思います。
どんなお金持ちだろうと全てを我が物にできる人はいません。
福原さんも、今が少しでも幸せなら他人をこれ以上傷つける事なく、今ある幸せを大事にして自分自身の幸せを築いていきましょう。
人を傷つける事に鈍感になってはいけませんよ。 》》

このコメントに、 賛同 709  不賛同 126 というコメントが付いている。 矢張り、世間には、良識ある人間が圧倒的に多いので、救われる。

次いでに、成程と思わせるコメントを二つ取り上げて見る。

《《 amu*****
1年半ぶりだから、懐かしくて楽しいし、ちゃんと育ってほしいなと、いつも思っています。は祖母が孫にかける言葉。
他人事。
育児は楽しいことばかりではない。
愛ちゃん、、お母さんじゃないよ
賛同 278  不賛同 11  》》

《《 plu*****1時間前
ちゃんと育って欲しいのなら、まずは自分がちゃんとしなきゃ。
賛同  156   不賛同 3 》》

江、福原の問題は、もうとっくに、二人の大人から離れて、二人の幼い子供の将来に移っている。
大人は、良し悪しに拘わらず、自分らのやった事に責任を持つのが当たり前であり、また、ちゃんとした大人だから、責任も取れる筈である。
所が、幼い子供達は違う。 彼等には、全く罪は無く、責任の取り様もない、だから、世間は、一様に、子供に同情し、彼等の将来を心配する。

既に、一年半の長い歳月が経った今日、紙上を賑わした報道の数は、数知れず多く、コメントの数に至っては、尚更、数知れない程多い、恐らく、一、二万は下らない、と思う。
何を解決したのか、というと、何も解決していない。ただ、銭儲けの為に、騒いでいるように、しか見えない。これでは、子供らが可哀そうではないか。

今までの報道をまとめて見ると、二人の幼児は台湾で父親に育てられた方が、幸せに成れる、という世間の見方が圧倒的多い、父親だけの問題では無しに、家庭、家族を重んじる、台湾の社会的文化背景が、一つの重要な因素になっている。だから、日本人でも、二人の幼児は、台湾で育てるべきだと言う、

過去一年半、無事平穏に育って来た子供の生活が、母親の突然の異常な行動で、攪乱された。ずっと一緒だった二人の子供の仲が、一人は台湾、一人は日本と、海を隔て割かれてしまった、
しかも、日本に連れて行かれた息子は、父親から離れ、見も知らない母の情夫と一緒に暮らす事になった。幼い子供に取って、これほど哀れな事はあるだろうか。

その母親が、対外的に、口先では、「ちゃんと 育ってほしい」と言う。ところが、毎日、「百回程キス」して生んだ子供を、一年半も置き去りにして、久しぶりに逢ったら、子供との団欒を一時もせずに、二人の仲を裂いて、一人だけ日本に連れ帰った、という実際行動から見て、福原は、子供を愛しているとは、認め難い。 「あれは、自分を良く見せる為の、演出である」という紙上コメントがあるが、当たらずとも、遠からず、というように、思われる。

子供が可哀そう、だという「共識」は、現在、日本と台湾(中国は別)の最大公約数になっている。共同親権を持つ福原は、今回に限らず、今後とも、自分の都合次第で、子供を操(あやつ)る事が充分考えられる。 子供の幸せは、彼女の気分次第という事になる。

いとも簡単に、そして、不倫の為に、老母と子供を置き去りにして日本に飛ぶ事が出来る福原の神経は、常人と著しく異なる。その母親に、親権を持たせ、子供の将来の幸せを託する事が、如何に無理であるか、今さら。説明の要は無い。

この様な、悪状況下に置かれた、無垢の二人の子供の、幸せな将来を切望するのであれば、母親の存在を、子供から切り離さない事には、このような念願は到底達し得ない、と思う、

それで、「ちゃんと育ってほしい と言うのなら」、そして、    「子供が 可哀そう だと言うのなら」、現在、日本に連れて行かれた一人を一日も早く台湾に戻し、二人の子供を従来通り一緒に日々を過ごさせるように、日本世間の皆さんは、手を講じるべきだと、思うし、更に、一歩進んで、福原が子供に逢いたいなら、子供の生まれ育った台湾で、団欒する事を、福原に確約させるよう、日本世間の力で、猛獣を手懐けるような 形で、福原を世間の常識になつかせる事は、出来ないだろうか。

「世間体」を重視する社会であれば、「女性自身」の如き、客観的立場で発言出来る「媒体」が、集まって、彼女に圧を掛ければ、猛獣のような彼女を手懐(なずけ)る事は、可能である。と思うのだが、どうであろう。 

【 軽薄の極み   福原愛 】   仁目子

2022-07-26 16:07:40 | Weblog
ーー 子供への愛情 と 元夫のモラハラ ーー
ーー 共に、軽薄な 演出にしか見えない ーー
ーー 薄情、蓮っ葉、浅はか、等の特性に、 新たに、軽薄が加わる ーー


去年二月から、ずっと世間を騒がして来た、過ぎし日のアイドル、福原愛が、このところ、またもや、新しい「世騒がせ」の種を撒いた。

参照報道記事 ;
『 福原愛、台湾訪問して子供とともに帰国か…元夫からは “子連れ失踪” 疑惑かけられネット騒然
SmartFLASH7/25(月) 』

一年半前に、老母、子供、主人、を置き去りにして、日本に帰った福原が、近日、突然、台湾に来て、娘を連れて即時帰国した。

上述の新聞報道で、1,000 を超す多くの人が、コメントを書きこんでいた。
東スポも記事を出し、もっと多い、4,5000 のコメントを集めたが、どういう訳か、コメント内容は、紙面に掲載されていなかったので、東スポの報道は 取り上げようがなかった。
上述の SmartFLASH 報道は、コメントも併せて報道されている。現時点で、其の数、1,035 を越している。
例によって、福原の「浅はか」や「軽薄」を批判する内容が大半を占めている。

本文は、それらの仲間に参加する意向はない。が、それらコメントの中で、極く短い「文句」で、福原という人の、人間性の核心を突いたコメントが、目に付いたので、それを写し出して、閲覧者共々、味わって見たい、と思う。
   
コメント (一)

《《 兄弟と急に離れ離れになった子供が可哀想。本当に愛情があるのか、子供を捨てた、とバッシングされ芸能活動出来ないから仕方なく1人連れてきたのか。》》

可成り的を得たコメントだと思う。 過去一年半の長期に亙り、男性とのデートに夢中になって、子供の事に関心の無かった福原が、突然、台湾に来て、子供を一人だけ日本に連れて帰るのは、それ相応の、止むを得ない事情があったに違いない。子供を愛するというのが出発点であれば、二人の子供と、彼等の生まれ育った台湾で、しばらく、ゆっくりと過ごすのが最良である筈。そうせずに、いきなり、台湾に飛んで来て、一人だけ連れて、日本に即刻飛んで帰るのは、一般の常識から、大変大きく外れている。

このコメントの投稿者の指摘は、正しく、当たらずとも遠からずで、さすがだと思う。 つまり、子供に対する愛情が動機ではなく、福原の自己利欲による「演出」が出発点になっているのはあきらかである。遺憾だが、千を超すコメントで、この重点を掴み得た人は少ない。

コメント (二)

《《 最近露出が増えてきたが、子供を置いて不倫したという噂は一生ついて回るでしょう。しかも、モラハラと言っている夫の元に子供だけでなく、自分の母まで預けての話とは、あり得ないよ。 》》

今だに、数は極めて少ないが、「福原、頑張れ!」と応援する人がいる。彼等は、江のモラハラを取り上げる。要するに、ただ、単純に、アイドルを庇うと思うだけで、思考が軽薄である点では、福原と同じである事に他ならない。
上述のコメントは、このようなS軽薄思考人間に、非常に良い参考に成る筈である。

過去、一年半に及ぶ、福原愛の同胞である、日本人のコメントをずっと見て来て、福原の人間性をまとめてみると、薄情、蓮っ葉、浅はか、等の特性が挙げられる。 それに、今度の子供連れ去りで、新たに「軽薄」という特性が見られる。

愛情の為なら、二人の子供と一年半ぶりに団欒して、台湾で楽しい夏休みを過ごす事が出来る。それをせずに、子供二人の仲をさいて、一人だけ日本に連れ帰り、自分の同胞を騙そうとする魂胆が丸見えで、軽薄そのものである、のみならず、軽薄の極み、である、言っても、過言にはならないと思う。

 【 一枚の写真 が語る 福原愛 】   仁目子

2022-07-25 09:30:04 | Weblog
日刊ゲンダイDIGITAL ライフ  
2021/03/21に下記のような記事が掲載されていた。

『 家族写真炎上 福原愛がやってしまった“タブー中のタブー” 』


――  「 序言 」  ー

記事の著者は 姫田小夏ジャーナリストで、上海財経大学公共経済管理学院・行政管理学修士(MPA)。中国ウオッチは25年超、うち約15年を上海で過ごす。という経歴の持ち主だから、一般の週刊誌マスコミとは異なる視点と知識で書き上げた記事は、それなりに読みがいがある。 それで、本ブログで取り上げ、より多くの閲覧者にも読む機会を与える事とした。 ( 若し、著作権の問題があるようでした、コメント爛で指摘して下さい。即刻、掲載を取り消します)。




これが炎上した写真(台湾メディア「聯合線上」のサイトから)

ーー  姫田小夏の原文 ーー

 国際結婚で立ちはだかる文化の壁は厚い。日本人の間ではまったく問題にならない行為が、ひとたび国境をまたげば「バカにしているのか!」と大ヒンシュクを買うこともある。

 そんな大失敗が元卓球日本代表の福原愛さんにもあった。2019年に撮影された長女の2歳の誕生日の記念写真がそれで、当時、台湾で物議を醸した。

 画像に写っていたのは、ソファに長女を抱いて座る愛ちゃん夫婦とその左隣に次女を抱く夫・江宏傑氏の母親。そして、ソファの右脇には地べたにひざまずくようにして座る愛ちゃんの母親、左脇には同じくソファからはみ出してしまった江宏傑氏の父親がいる。

 この画像が公開されると、「なぜ、愛ちゃんは自分の母親をひざまずかせるのか」「お義父さんも地べたにしゃがんでいる」「年長者をソファに座らせないのはおかしい」――など、多くの台湾市民が一斉に批判した。地べたにひざまずかせるのは、中華圏において“タブー中のタブー”といわれる行為だ。

■「長幼の序」を尊重する社会
 
 しかも、台湾や中国は、「年少者は年長者を敬う」という「長幼の序」の考え方を尊重する社会だ。儒教の教えが浸透する台湾(中国もしかり)ではあり得ない行為である。余談になるが、日本の都心などでは列車内で高齢者の立ち姿を見ることも多く、インバウンドに沸いていた時期、多くの台湾人観光客がこうしたシーンに眉をひそめていた。

 この写真撮影について言うならば、まずは年齢の高い者から座らせ、愛ちゃん夫婦がソファの脇から寄り添うべきだったのだろう。その後、愛ちゃん夫婦は「(愛ちゃんの)母は腰が悪いので、柔らかいソファに座ることができなかった」という弁明を行ったという。

「郷に入れば郷に従え」という言葉があるが、互いの文化の尊重が家族円満の最大のカギでもある。

ーー  仁目子 の コメント  ーー

この記事と写真が公開される一寸前に、福原は日本に単独帰国、そして、年下の妻帯男性とデートし、それが、曝露したら、夫江と離婚したいと言い始めた。

結婚後、4年余り、福原は、ずっと、夫婦仲の良さを写真にうつして、吹聴して回った。また、この一枚の、ごく普通の写真を見ても分かるように、一家は団らんで、特に、福原は、幼い娘を抱いて、夫に依り付き、顔を江の肩の載せていた。 モラハラの夫であれば、夫の肩の顔を載せる事は無かったであろう。

二人が離婚して、一年半やそこらの歳月が経った。それまで、子供に逢いに来なかった彼女が、突然、台湾に来て、久しぶりに、子供と楽しく団らんを過ごす事もなく、娘一人だけを連れ、急遽、また日本に戻った。日本の新聞報道を見て、「どうして、台湾で子供と夏休みを過ごさずに、兄妹の仲を裂いて、一人だけ日本に連れて帰るのだろうか、本当に、子供が可哀そう」だというコメントが大半を占めている。

「この一枚の写真」に写っているのは、爺ちゃん、婆ちゃん、父さん,母さん、孫、孫娘、の三代で、幸せな家庭の典型的な画面である。

日本のマスコミによると、福原は幼少から幸せな家庭に育ったものでは無いという、言われてみれば、福原の幼少から成人になるまで、一家団らんで撮った写真は見た事が無い。成程、心の貧しい人間に育ったのは、其のせいかも知れない。

兎に角、見た目には笑顔だけれども、それは、単なる「仮面」であって、裏に隠されている「本心」は、いまだに、多くの「熟年者」にも不可解なのは、大変な「したたか者」である、という事が出来る。

この一枚の写真を見て、福原愛が一人で、世間の大衆を手玉に取って、振り回せると、誰が想像出来よう


【 間抜けた 田舎者の 自己欺瞞 】   仁目子 

2022-07-23 12:48:33 | Weblog
ーー 言葉を変えて言うと、 阿Q の精神勝利に、等しい ーー
――  お呪いに頼る、 田舎者  ーー
 
周知のように、戦後、日本のマスコミは、「占領軍」を「進駐軍」に、「敗戦」を「終戦」に言い換えた。

一九二二年生まれで、戦前、戦中、戦後を生き抜いた文芸評論家 佐伯彰一氏は、それを「図々しくも間の抜けた自己欺瞞」だと評した。

そのような「自己欺瞞」は、別に戦後に始まった事ではない。

明治 の初頭まで、プロシア と ロシア の日本に於ける漢字の当て字は「普魯西亜」と 「魯西亜」であった。それが、ある日、「普魯西亜」はそままにして、「魯西亜」だけ 「露西亜」に一字だけ変更した。

何故「魯」を「露」に変えるのか。

「魯西亜」は他意のない漢字の当て字だが、「魯」を「露」に変えると、この国は西アジアにある露( つゆ ) の国 「露西亜」になる。すると、当時の日本は日の出の勢いにあったから、「東の方朝日が昇れば、西の方にある露は消えて無くなる」という、大国ロシアに対する敵慨心に溢れるお呪 (まじな) いであった。それに伴い、腹下しの薬に「征露丸」という名まで付けた。

これで、多くの列島の人びとは憎いロシアを討ち負かしたと喜んだ。口先だけの「精神勝利」である。米英は「鬼畜」というのも同じ事。 


結局、先の大戦で日本は苦杯を舐め、「露西亜」は「ロシア」に、「征露丸」は「正露丸」に再び改名せざるを得なくなった。勿論の事「鬼畜」も何処えやら。あれほど小躍りして喜んだ「自己欺瞞」の「精神勝利」は一夜にして露 ( つゆ) と消えたのである。

それにも懲りない人が結構居る。戦に負けても、負けたとは言はない、占領されても、占領されたとは言はない。相変わらずの「精神勝利」である。

このところ、昔さんざ馬鹿にした「シナ」という大国が、めきめきと強くなり、もう力ずくでは馬鹿に出来ない。こうなると「伝家の宝刀」である精神勝利に頼らざるを得ない。そこで抜き出したのが 李白の人口に膾炙する「白髪三千丈」という名句である。

一見、大げさに見える表現だから、漢字、漢詩に弱い列島の善良な民(たみ)を煙に巻くのに持って来いの文句である。

曰く、「白髪三千丈の国柄、人々は嘘つき許りだ」、「中国四千年の歴史は虚構だ」と声を上げて叫ぶ。伝統のお呪いである。

それで、この大国が没落するならそれでも良いが、驚天動地の歴史数千年を有する国、一寸やそっとの呪いで倒せる相手ではない。

しかも、「漢詩読みの漢詩知らず」の凡愚が、李太白先生、極みの名句を振り翳 ( かざ) している、無謀というか、無知に驚かされる。 

有名な唐土の文豪 魯迅 の名作「阿Q正伝」の主人公阿Q は、田舎者だが、人に馬鹿にされ、頭を殴られても、「それは、自分の息子に殴られたもんだ」と思って、自分を欺いて、喜ぶ。 つまり、自己欺瞞という「精神勝利法」を編み出した人物である。

自己欺瞞は、何度繰り返しても、落ち着く先は虚( うつ) ろな精神勝利に過ぎない。この広い世界の 極東の「辺境」である日本列島は、言うなれば、田舎者に属する。 だから、唐土、ロシア、米国 等の国から諸々の事柄を学んで、国の形を整えた。

それであれば、千数百年来の風雪に耐え生き抜いて来た李白の「名句」を上手に味わい、文化的に洗練されてこそ、古い文化を有するお隣と「善隣」のよしみ誼( よし) みを築き上げ、保つ事が可能になるのでないか。お呪いは、再三経験済みのように、もう時代遅れで、だから、経済先進国であっても、日本の文化思考は、「非常識」と見なされ、文化嗜好は「田舎者」に近い、と思われているのは、その為である。