夢をかなえる新聞・聖教新聞 -人間革命の指針-

聖教新聞は夢をかなえる新聞です。その中より「新・人間革命」、名字の言、体験から夢をかなえゆくための指針をつづります。

学会の大発展の根本の因

2006-03-26 21:17:42 | スピーチ・メッセージ
本年7月、男子部は結成55周年を迎える。おめでとう!(大拍手)それは55年前(1951年=昭和26年)のきょう、1月6日のことであった。 私は、正午近く、戸田先生のご自宅に呼ばれた。23歳になったばかりであった。

当時、戸田先生の事業は最大の苦境にあった。すでに前年の夏には、当局から営業停止命令を受けていた。さんざん先生にお世話になってきた人たちが、ひとたび風向きが悪くなると、一人また一人と、先生のもとを去っていった。なかには、「戸田のバカ野郎!」と不知恩(ふちおん)の罵声を浴びせて、離れていった者もいたのである。最後に残ったのは、実質的に、私一人。若き私は、悪口(あっこう)と中傷を浴びながら、先生の事業の再建へ駆けずり回って働いた。給料は何カ月ももらえない。食事も満足にできない。 せめて体が、もう少し丈夫であったなら。苦しみ、悩み、もがきながら、新たな活路を求めて、真剣に唱題を重ねた。毎晩のように御書を拝した。

戸田先生は、さまざまなことを熟慮された末に、理事長の職も辞任されたのである。<戸田先生が理事長辞任の意向を発表したのは昭和25年8月24日> 私は、思いあまって戸田先生にうかがった。「先生、先生が理事長をお辞めになれば、新しい理事長が、私の師匠になるのですか」戸田先生は言った。「それは、ちがう。苦労ばかりかけるけれども、君の師匠は私だ」わが人生の忘れ得ぬ一場面である ── 。

あまり自分で自分のことを言いたくはないけれども、次の学会を背負っていく青年部には、すべて知っておいてもらわねばならない。 あえて、きょうは、真実の歴史の一端を語らせていただく。

さて55年前、昭和26年の1月6日のこの日、私は、呼ばれて先生の部屋に入った。 あの剛毅(ごうき)な、偉大な戸田先生が、このときばかりは、憔悴(しょうすい)し切っておられた。事業の状況は悪化の一途であった。まさに絶対絶命の危機に追い込まれていたのである。厳しい表情であられた。部屋にいたのは、先生と先生の奥様と私の3人だけ。

そして先生は、「きょうはよく聞いてもらいたいことがある」と私に、こう話されたのである。「私に、もし万一のことがあったら、学会のことも、事業のことも、いっさい、君に任せるから、全部、引き受けてくれないか」先生は、さらに声を強められた。

「何が起きたとしても、私と君とが、使命に生き切るならば、きっと大聖人の御遺命を達成する時が来るだろう。誰が何と言おうと、強く、強く、君は、学会のために前へ進むのだ」戸田先生の遺言と、私は厳粛に受け止めた。

そして、この日の誓願を、“大楠公”の精神に託して、次のように日記に書き留めたのである。「先生は、正成(まさしげ)の如く、吾れは、正行(まさつら)の如くなり。奥様は、落涙。此の日の、感動、厳粛、感涙、使命、因縁、生き甲斐は、生涯、忘るることはない。後継者は、私であることが決まった。

激越の、年も刻々と明けて来た。いかなる苦悩にも打ち勝ちて、男らしく、青年らしく、若人らしく、本年も戦いきろう」(『若き日の日記1』聖教ワイド文庫)この日、この時の「師弟の誓い」のままに、私は、死にものぐるいで戦った。広宣流布の大師匠であられる戸田先生に、ただ一人、お仕えし、ただ一人、お守りし抜いた。これが学会の歴史である。師弟の本当の姿である。この一点にこそ、学会の魂があり、原点がある。

幹部であっても、戸田先生と苦衷(くちゅう)を分かつ者は、ほとんどいなかったといっていい。理事長を務めた人間までが、戸田先生を誹謗したのである。しかし、だれがどうあろうとも、私は心に決めていた。“断じて、戸田先生に、次の会長になっていただくのだ。そして、広宣流布の指揮を縦横無尽に執っていただくのだ”私は祈った。先生のために。学会のために。激闘の中で祈り抜いた。丑寅勤行(うしとらごんぎょう)もやった。
もう寝ても覚めても題目。歩いていても題目。車の中でも、電車に乗っても、時間さえあれば、すべて題目。ただただ、題目を抱きしめて、この世の残酷な苦難をはね返し、戸田先生が第2代会長に就任される道を、命を賭して、切り開いていったのである。

そして迎えた昭和26年の5月3日。苦悩の激動を耐え忍ばれ、ついに、戸田先生は、晴れ晴れと第2代会長に就任された。その盛大な推戴(すいたい)の儀式の日。戸田先生は、そっと私に「君のおかげだよ。本当にありがとう」と落涙された。また晩年、私の義父母と数人の学会首脳がいる席で、戸田先生は語っておられたという。「私の人生は、良き弟子を持って、本当に幸せだった」と。思えば、初代の牧口先生が軍部と対決して牢獄につながれたとき、獄中までお供し、最後まで戦われたのは、戸田先生、ただお一人であった。この「一人」が大事なのである。

その戸田先生を、人生のすべてを捧げてお守りし抜いたのは私である。ゆえに私は、第3代会長となった。この究極の「師弟不二」の大闘争にこそ、今日にいたる学会の大発展の根本の因がある。それを、断じて忘れないでいただきたい(大拍手)。

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