夢をかなえる新聞・聖教新聞 -人間革命の指針-

聖教新聞は夢をかなえる新聞です。その中より「新・人間革命」、名字の言、体験から夢をかなえゆくための指針をつづります。

師を護る城壁

2006-12-16 16:22:12 | スピーチ・メッセージ

 一、戸田先生は、その模様を描いた文章を残している。
 当時30歳0若き戸田先生は、時習学館(じしゅうがっかん)を経営する激務のなか、
牧口先生を慕う父母会や、各界の実力者などにも働きかけ、正義の牧口先生をお護
りする手を打っていった。
 ちなみに、.牧口先生の大著『創価教育学体系』は、戸田先生が自ら志願し、編集・
発刊の一切に携(たずさ)わった。この時、その題辞(だいじ=本の巻頭に記す言葉)
を、時の政友会(せいゆうかい)総裁であった犬養毅氏(いぬかいつよし=のちの首
相)に依頼したのも戸田先生である。
 そのようにして戸田先生は、敵たちが容易に手を出せないような城壁を、牧口先生
の周囲に固めていった。
 それは、陰謀を企てる連中に「戸田さえいなければ」と言わしめる、師子奮迅の戦い
であった。
 牧口先生を追い落とそうとする勢力は、牧口先生を辞めさせることが不可能とわか
ると、卑劣なやり方で他校に転任させた。
 師をお護りする戸田先生の闘争は、それ以後も人知れず続けられた。
 『創価教育学体系』第1巻発刊の2年後、牧口先生は校長を退職されたが、その際、
最高の待遇となるように陰で布石を打ったのも、戸田先生だったのである。
 大校長として、晴れ晴れと有終の美を飾られた牧口先生のお姿を、退任の宴の席
で、戸田先生は万感の思いで見つめていた。
 その真情を、先生は「人に見せまいとする涙を幾度ふいた事であった事か」と記され
ている。

◆「戸田先生を断じて会長に」
 一、牧口先生・戸田先生の師弟による学会創立から20年後の1950年(昭和25
年)の11月 ── 。
 戦後、牧口先生の不二の弟子として、学会再建のすべてを担ってこられた戸田先生
は、自らの事業の苦境のため、学会の理事長職を辞任された。
 莫大(ばくだい)な負債を抱え、絶体絶命とも言える状態に陥った先生は、この時、
牢にも入り、命をも捨てる覚悟であった。
 そして、22歳の私は、先生の弟子として、すべてを捧げてお仕えしゆく覚悟であっ
た。
 戸田先生が直面しておられる一切の試練に打ち勝って、先生に断じて第2代会長に
就任していただこうと深く決意していた。
 そのために、先生の事業の重責を一身に背負い、阿修羅のごとく戦い抜いた。あら
ゆる攻撃の矢面(やおもて)に立ち、先生の防波堤となった。
 苦手な仕事も体当たりしてやり切った。無認識の報道を何とか食い止めようと、新聞
記者との渉外にも当たった。
 多くの人が先生のもとから去った。口を極めて罵(ののし)る者もいた。しかし私はた
だ一人、戸田先生こそが広宣流布の大師匠であられることを、訴え、叫び抜いていっ
た。
 戸田先生が「聖教新聞の発刊」の構想を私に語られたのも、「創価大学の設立」の
夢を私に託されたのも、この最大の苦難の最中であった。
 その一切を、私は、師の心のままに実現していった。それは、皆さまがご存じの通り
である。
 いずれにせよ、この苦難の中の大闘争がなければ、今日の学会はなかった。

◆先生の晴れ姿を見つめる喜び
 一、1951年(昭和26年)の5月3日、ついに戸田先生は、第2代会長に就任した。
 先生の晴れ姿を見つめる私の喜びは、かつて牧口先生をお護りし抜いた、若き戸
田先生のお心と同じであった。
 師を厳護するために、断じて弟子が勝つ。これが、創価学会の創立の歴史に刻まれ
た魂である。
 創価三代の師弟の道である。
 〈牧口初代会長、戸田第2代会長、池田第3代会長のもとで戦った小泉隆理事長は、
生前、こう語っていた。
 「戸田先生は牧口先生を抱きかかえるようにして、守り仕えておられた。
 そして、池田先生は、その戸田先生を抱きかかえるようにして、守り支えておられ
た。
 それが、三代の師弟不二だ」〉
 一、私は、戸田先生から、「師弟不二」の魂を受け継いだ。
 先生のもとで、ありとあらゆる訓練を受けた。
 広布の指導者として、一から十まで手を打てる力をつけてくださった。
 その訓練が、どれほど真剣だったか。どれほど厳しかったか。
 恵まれた環境に甘えて、峻厳な学会精神を忘れるようなことがあってはならない。
 短命と言われていた私が、現在もこのように健康で広布の指揮が執れるのも、先生
の薫陶(くんとう)のお陰であると感謝している(大拍手)。

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