夢をかなえる新聞・聖教新聞 -人間革命の指針-

聖教新聞は夢をかなえる新聞です。その中より「新・人間革命」、名字の言、体験から夢をかなえゆくための指針をつづります。

詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん

2009-06-02 21:05:03 | 小説「新・人間革命」
「日蓮大聖人の仏法は、『宿命転換の仏法』です。また、『人間革命の仏法』です。そして、『社会変革の仏法』であります。

自己の、さらに、万人の崩れざる幸福境涯を確立し、恒久平和を築き上げるためには、この正法を弘め、広宣流布していく以外にない。その広宣流布が、日蓮大聖人の『誓願』であり、大聖人の御精神のままに前進する創価学会の『誓願』であります。

大聖人は、『開目抄』で、広宣流布の『誓願』を果たしゆく烈々たる御決意を、次のように述べられています。

『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』(御書二三二ページ)」

“諸天善神が自分を捨てるのであれば、捨てればよい! 多くの難に遭うというのであれば、遭おうではないか! わが生命をなげうって戦い抜くのみだ!”との叫びである。

この御文は、一九六〇年(昭和三十五年)の五月三日、伸一が第三代会長として広宣流布の指揮を執るにあたって、深く生命に刻んだ一節である。ここには、大聖人の透徹した信念の師子吼がある。

一生成仏という自身の崩れざる幸福境涯を確立し、万人の幸福と平和の道を開くには、広宣流布の「誓願」に生き抜かなければならない。だが、そこには、大難が待ち受けている。ゆえに、「不退の心」が不可欠となる。

集った一人ひとりの女子学生の前途には、就職、結婚、出産など、さまざまな人生の転機や、環境の変化があろう。

華やかな世界に目を奪われ、地道な仏道修行に嫌気が差すこともあるかもしれない。仕事などに追われ、気がつくと、学会活動から遠ざかっていることもあるかもしれない。夫や、その家族から、信心を反対されるかもしれない。さらに、組織での人間関係がうまくいかずに、悶々とすることもあろう。そこで負け、信心から離れてしまえば、退転の道に堕していってしまうことになる。

この「開目抄」では、舎利弗などの退転の事例があげられている。

――過去世において、舎利弗が六十劫という長い長い間、菩薩道を修め、人に物を施す布施行に励んでいた時のことである。

婆羅門(司祭階級)の一人が現れ、舎利弗に「眼をくれ」と乞うた。舎利弗は求めに応じて、自分の片方の眼を抜いて与えた。婆羅門は、その臭いをかいだ。

「臭い。いやな臭いだ!」

そう言って、眼を投げ捨て、踏みつけた。
“こんな輩を救うことは無理だ! もう、自分の悟りだけを考えて生きよう”
舎利弗は、六十劫もの間、修行を重ねてきたにもかかわらず、菩薩道を捨てて、小乗の教えに堕したのだ。退転である。

婆羅門の行為が、あまりにも非道、傲慢であるだけに、世間の法では、舎利弗がそうしたのは、仕方がないと考えるかもしれない。

しかし、自身の心の中に法があるととらえる仏法では、相手や周囲が良いか悪いかといった、相対的な関係では物事を見ない。常住不滅なる生命の法理のうえから、“自分は何をしたのか”“自己に勝ったのか。負けたのか”に、一切の尺度があるのだ。

「眼をくれ」と言っておきながら、それを捨てて、踏みつけた婆羅門によって、実は舎利弗の心は、試されていたのである。

舎利弗は、せっかく長い長い修行を積み重ねてきたが、究極のところで、万人成仏の法を信じ抜くことができなかった。一切衆生に仏性が具わっているという、大仏法の法理を確信できなかった。悪縁に触れて、無明という迷いの生命が、自らの胸中にわき起こり、信心をかき乱されてしまったのである。

結局、いざという時に、舎利弗は師の教えを忘れ、自分の心に敗れたのだ。

山本伸一は、言葉をついだ。

「大聖人は『開目抄』で、さらに『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし』(御書二三二ページ)と仰せになっている。いかなる理由があろうが、信心を捨てれば敗北です。不幸です。地獄のような、厳しい苦悩の生命に堕ちていく。
 
どうか、この御聖訓を、絶対に忘れないでいただきたい。妙法は宇宙の根本法則です。それを曼荼羅として御図顕されたのが御本尊です。その御本尊を、信じ切っていくなかに、永遠の幸福の大道がある。

そして、大聖人は、この御文の後、『大願を立てん』(同)と宣言される。この御精神を受け継ぎ、末法の広宣流布のために出現したのが、わが創価学会です。皆さんも、その学会の後継者として、生涯、広宣流布の大願に生き抜いていただきたい」

皆、一言も聞き漏らすまいと、真剣な表情で耳を傾けていた。

「大聖人が『善に付け悪につけ』と仰せのように、魔は、“法華経を捨てれば国主の位を譲ろう”“念仏を称えなければ父母の首をはねるぞ”などと、誘惑と脅しを巧みに使い、アメとムチで責め立ててくる。しかし、『種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり』(同)と大聖人は言われている。御自身の正義が智者によって破られない限り、いかなる大難にも、決して動ずることはないとの仰せです」

2 コメント

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素晴らしい (デミアン)
2010-04-13 20:49:10
私が創価学会の信者ではありませんが、非常に感動しました。
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Unknown (EL)
2014-01-09 19:29:18
そう、これなんだよね、この平和な日本にいても、職場や家族、恋愛や病気(生老病死)などの悩みがあり、心のどこかで(助けてくれるだろう・・・まもってくれるだろうと思うよね、ここからが勝負だよね!他力本願な御本尊でもないし、生命の法則を解き明かした御本尊、だとすれば自分が変われば全て解決なのだ!その自分を成長させてくれる最中に命を真剣を請願の祈りとして突き進む!今の時代でも(いざ鎌倉の 時 はある!
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