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<三河物語からみた桶狭間合戦> 

2011-07-05 21:44:16 | 桶狭間の真実やいかに

<三河物語からみた桶狭間合戦>    2009.11.08 改修、2010.06.20改訂) 

 

 

oogleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9 

 

 

『三河物語』には、「(元康は丸根・鷲津を落とした後)其れより大高城に兵糧米多く籠める。その上にて、また長評定これ有けり。その内に、信長は清須より人数を繰り出し給う。」という記戴がありますが、この文章にある“評定が行われた場所”については四通りの場所を想定できると思います。

1. 付城攻めを督励した義元本陣

2. 駿河勢殿軍の陣内の様子

3. 織田勢は善照寺砦にいなかった  2009.11.08 改修)

4. 本陣ではない理由

この他にも、大高城で軍議をしたと考えることや、義元が沓掛城から大高へ向かう途中で、桶狭間山で軍議をしたということが考えられるのですが、これらのことについては、時間的にそのような余裕はないことについて、<大高城番交代>の章で論じましたので、ここでは取り上げません。戦陣での軍議については十分考えられることですが、それが成立するためには、鳴海城方面から後詰に出現するはずの信長勢を阻止する部隊を配置する必要があることは既に指摘しました。 

   

(1)付城攻めを督励した義元本陣

『信長公記』で伊勢湾の干潮時刻が大きな話題として採り上げられていることからしますと、この丸根・鷲津という付城排除作戦では織田軍の後詰の有無が、駿河勢にとって大問題であった事が分かります。これは、この方面に出張した駿河勢が通常考えられているような大軍ではなかった可能性も示唆します。ですからこれを重く考えますと、旧参謀本部の両軍配置図において、桶狭間合戦時に葛山氏元が五千もの兵を率いて、星崎に向かって進軍しているように表記することは、明らかに誤認だと思われます。通常は黒末川を渡河してくる織田軍を迎撃できる位置に布陣しているべきなのです。なぜならば、当日の干潮午前二時台[1]  ですから、この頃に星崎に渡河していたならば、その後凡そ十二時間後までは、ここから動けずに孤立してしまい、織田軍に各個に撃破されてしまう恐れがあるからです。尤も、五千もの兵力があったならば、そのような恐れはなかったことになるのですが。また、これだけ優勢な部隊であったならば、星崎からは東の方面には何も遮る地形ではないため、鳴海方面の戦況が丸みえなのですから、中島砦へ移った信長勢を挟み討ちの舉にでることができたはずなのですが、そのような事実はなかったようです。以上のように、干潮時には黒末川河口で渡河できた可能性があることを考える必要が生あります。また、明治廿年制式1/20,000地形図には鳴尾村から上汐田に車輌渉所であることをしめす記号が記載されていることもありますから、当時は此処を信長軍が渡河できた可能性も考える必要があります。このように考えたると、『蓬左文庫の桶狭間図』が漆山に義元が本陣を置いたとするのは、干潮時に天白川を徒渉して信長が大高城の後詰に来ることができずに、中島砦から信長が出撃するであろうものを迎撃する目的であったことになり、極めて戦術的には常識的な見解であると思われます。干潮時に星崎方面から織田軍が現れなければ、残るは鳴海方面から出現するしかないからです。                  <戦場関係略図>

………その場合の駿河勢は、午前四時過ぎに大高城を出陣すれば、午前四時半頃までに鷲津・丸根に手勢を配備し終えることが可能です。そして義元は、そこから更に進んでその先1.5km程のところにある漆山に本隊を進めて布陣し、織田勢の後詰に備えたと考える事ができるわけです。実際、駿河勢は丸根・鷲津砦の攻略に「辰の尅」までかかっていますし、その後大高城に海上から兵粮を搬入しているのをみても、駿河勢が敵の後詰に備えることは当然の用心です。また、信長勢が中嶋砦から出てきて十分に戦闘隊形に展開できるのは、一面が水田[2]であったと見做せば、当然に山際辺りだけになるはずです。そうしますと、それを高所から叩くことは義元にとって絶対的に必要な戦術となります。また、今川義元が漆山に陣取っていれば、黒末川の上流にある鎌倉街道の渡渉場所の小坂も見張ることができますから、敵に奇襲されるような心配もなく、万全な構えであったと思われるのです。

 

(2)駿河勢殿軍の陣内の様子

ところで『三河物語』は、物見から帰陣した石川六左衛門尉の報告を受けている場面を伝えています。そして、それは決して、実戦経験の乏しい遠駿の武将が歴戦の六左衛門尉の意見を聞くために、山の上で二人立ち並んで善照寺砦に現れた織田勢を観察していたというようなものではありません。それに、『三河物語』には義元が登場しませんから、桶狭間山本陣の様子を書いたものでもないものと考えられます。一般には、義元本陣での会話であるとされていますが、厳密に検証したわけではないようです。おそらく、山上にいるのだから桶狭間山であり、桶狭間山ならば義元本陣であると短絡しているだけだと思われます。何故、本陣や本陣先備ではないと思うのかといえば、それは、『三河物語』が三人・五人といった織田勢が、六左衛門尉らがいる山に上がってきており、駿河勢が我勝に逃げだしたと書くからです。本陣前備の兵士が、本陣を守る為にそこに居ることを忘れて、そのような事をするでしょうか?………絶対にあり得ません。と云う事は、そこには本陣などは無いということです。

それに、織田方がまるでナポレオン以降どころか現在の軍隊のように、三人・五人といった少人数の部隊に分散した「散兵戦術」で攻撃するなどということが考えられるでしょうか。信長方は圧倒的に兵力に劣るのです。一丸となって突破を図らなければならない立場なのです。………としますと、これは織田軍の中から抜駆けした佐々・千秋隊の残存部隊であり、駿河勢は佐々・千秋隊を撃破して撤退中の部隊であるものと考えることが相当ではないでしょうか。

では、石川六左衛門尉は、何処の山上の何れの部隊にいたのでしょうか?

これは、義元が出立した後の「漆山」に残っている殿軍の様子を書いたものと見做すべきだと考えます。そして、駿河勢殿軍の陣中では、今川軍の武将らが織田軍の意向を計りかねて困惑していた様子を描いたのだと思うのです。なぜ駿河兵が困惑しなければならなかったかと言いますと、それもこれも、信長の出現が「遅きに失した後詰」だったからです。信長にやる気があったならば、駿河勢が丸根・鷲津砦を攻めている最中に、その背後を襲うのが定道だろうと、今川方は思っていたでしょうから、駿河勢としては戦闘が終わって退き上げの頃に現れた、そんな信長勢が、どういうわけかよりにもよって意気軒昂に見えるのが理解できないのです。

『三河物語』には、「信長は思いのままに駆けつけ給う」という文章がありますが、「思いのまま」という文句が気になります。………大久保彦左衛門は、信長にとっては計画通り・想定通りと捉えているようですから、長年に渡って弾正忠家と抗争を続けてきた松平勢からみれば、信長は最初から義元を捕捉して戦闘に及ぶ心算であったと見做していたように思えます。



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